こ も れ び の 里

長崎県鹿町町、真言宗智山派、潮音院のブログです。平戸瀬戸を眼下に望む、人里離れた山寺です。

ご批判を仰ぎながら、日々思いが広がっていくことは、とてもすばらしいと実感します。

2005年01月27日 | 教育
さて、時折「タンパンカン」を思い出しつつ(自省しながら)、子どもたちを育む環境について、思いを巡らせてみたいと思います。

 学力とか教育という言葉から、自立につながる糸口を探る中、多様な問題意識が指摘されました。そこで今度は、より現実的具体的なところから見つめるために、
 
学校      家庭      地域というステージに仮に分けて見つめてみたいと思います。

知識、理解力・判断力・分析力・総合力、忍耐力、体力、協調性、思いやり、こころざし、好奇心、優しさとたくましさ、・・・こんな人間性を、生きる力を持った子どもたちを育むためには、それぞれのステージでどのような環境であるべきなのか。
また、それぞれはどのように関係し合うべきなのか。

 とりあえず、誤解を恐れず、というか誤解を期待しつつ(笑)、単刀直入で。

○学校・・・生きていくために必要と予測される基礎基本を伝達指導する機関。基本的に、定まれし教科指      導や学校生活全般にわたる道徳指導、総合学習やクラブ活動、自治活動など。程良い緊張感と      刺激、期待感溢れる学校であってほしい。

○家庭・・・祖父母が先祖を大事にし、両親が祖父母を大切にし、両親が仲むつまじい家庭環境。現実的       には、多様な家族構成があるわけだから、全てに該当するわけではないけれど、子どもが家庭      に帰ってきたときに、心から安心できる胎内のような環境であってほしい。厳しさと優しさ、      尊敬と感謝の溢れる家庭。

○地域・・・地域全体が、地域の子どもはわが子ども、の意識を根付かせるためのプログラムが必要。
      先述の、知識、理解力・判断力・分析力・総合力、忍耐力、体力、協調性、思いやり、こころ      ざし、好奇心、優しさとたくましさ、といった人間性、生きる力のベースづくりは、地域行事      や、町の環境、大人社会が担うもの。社会性ある寺院行事改革、学校スペースを基点とした子      どもの保育教育環境づくり、など、学校教育に肩を並べるようなプログラムが皆無。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

担板漢(タンパンカン) (大閑道人) 2005-01-26 11:30:56 ///コメントより

2005年01月26日 | 仏教
以下、「学力」のコメントからの抜き出しです。*****************

私がまつを氏の投稿で、担板漢を連想したのは、教育というものが、(いや、教育に限らず、ですが)、人は、今、自分が目の前にしている相手をモデルに、ものごとを考える、ということです。

この理学博士は、自分が理学博士として、理学系の大学生を教えているから、あのような意見になるのであって、まだ、海のものとも山のものとも分からない小学生~高校生には、あの意見は通用しないと思います。

私は、自分の大学時代のことを思い出しました。

インド学で何を専門にするかは、とにかく、すべての分野をそれ相応にかじって見なければわからない。自分に合う分野がどれであるかは、実際にやってみなければわからない。
理学部の学生、という自分の専門分野を選んだ後ならば、何とでもいえますが、まだ選んでもいない、あるいは、選ぶ以前の児童生徒たちには、あのような意見は、かえって可能性の目を摘む、かも知れないと、思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

多くのコメントに感謝申し上げます。

2005年01月25日 | 仏教
たくさんのコメントありがとうございます。まだまだ言い尽くせないこともあろうかと思いますが、その都度、ご教導お願いします。

さて、先述では、「学力」という視点から、その捉え方を考えることで、人間の自立をうながすもの、または、自立を阻害するものの原因が潜在するのではないかという推考です。

極めて大ざっぱで粗い表現をしますと、
将来、官僚になる人、公務員になる人、企業人になる人、職人になる人、農業者になる人、漁師になる人、自営業を営む人、教師になる人、宗教者になる人、政治家になる人、・・・さまざまな生き方があるわけですけど、その人の生き方にあった勉学の環境や、人格形成のシーン、総合学習のあり方が整えば、いいねえ、と。理屈の上では言えますかしら。

昔大閑道人さまから教導いただいた言葉に、○○に成ることよりも、○○であり続けることの方が、百倍難しい!と。このためには、日本のよき伝統であった、「弟子師匠」いわゆる師弟関係による人間育成が最も効果的である旨。
 師匠は弟子の将来に全責任を負っていますから、真剣に弟子を育てます。弟子も、師匠から命がけで技や人間性を盗み取ろうとする。ここには、生涯にわたる絆が形成されるわけで、滅多なことで不祥事など起こることがない。この関係性を、学校現場や、親子関係(これは非現実的かな?)に構築できたら・・・。

 今日は、今、話題騒然の「社会保険庁」の長崎事務所主催の講演会でした。関係役人さんの綱紀粛正というのか、礼儀作法からやり直しているらしい。・・・何とも言えない気持ちでした。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学力ということ

2005年01月22日 | 教育
 「全員に同じ事を教えるのは、できない子に敗北を認めさせ、落伍意識を持たせるためにやっているようなもの。教育者や、親たちが、人を差別する意識に目覚めちゃったんですね。」
長崎新聞(1月21日金)の第9面にそんな記事を見つけました。板倉聖宣という理学博士。
 続いて、自分の成績の良さを示したいという優等生根性は、その人の生きる力につながるから悪いことではない。だからといって、みんなが同じようにできる必要はないとも。
 学力の平均値を上げても、国家としてはメリットどころか、無駄が多くなるに違いない。ゆとり教育の出発点にはこの辺のデメリットがあったはずなんですが。落ちこぼれとか、学歴偏重とか。
 「いろんな人が、いろんな事をできるようにして、日本人総体としての学力を上げることを国家の計として考えるべきですよ。」と。
 電気の研究で有名なエジソンは数学ができなかったそうです。既成の数学ができてしまうと、実験結果を数式にあわせるなど、数学に寄りかかりすぎて、新しいものをつくれなくなるらしい。だから、この場合、数学はできない方がいいんですね。
 もっとも、自分が生きるために必要な学力は身につけるべきだというお考えです。社会人として身につけるべき学力は、だいたい小学校3年生くらいだとか。基準は、全ての教師が解けるくらいの問題。これくらいはみんな理解できた方がよいと。それ以外はどうでもいいそうです。(笑)
たとえば、体育の先生が解けないような問題は、できなくてもいい。数学の先生が解らないような源氏物語の問題は、できなくてもいい、ということです。
 大人になるという事は、「あきらめる」事を知る、ということだそうです。「あきらめの教育学」というのをこの先生は提唱してらっしゃる。
「苦手な科目は無理にがんばらなくても、違うことで補えばよいだけです。」と。

 それにしましても、あきらめる=諦める=明らかになる・・・意味深いなあ。

 
 
コメント (15)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日はよか天気です。

2005年01月21日 | つれづれ
山寺から眺める平戸の瀬戸です。

気持ちのよかとです。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする