こ も れ び の 里

長崎県鹿町町、真言宗智山派、潮音院のブログです。平戸瀬戸を眼下に望む、人里離れた山寺です。

礼拝

2010年06月29日 | 仏教

五体投地


日本列島人の多くがそうであるように、
私も今日はいささか寝不足気味です。(笑

さてさて、

日々の生活を反省する習慣は、
「懺悔文」を唱えることで身に付けていきます。
実は、お坊さんの修行で一番最初に取り組むのが、
「礼拝行」といわれるものです。
これ、体育会系の懺悔行です(笑
五体投地といって、
口に礼拝文や真言を唱えながら、
身体を床にベタンとつける拝み方です。

メディアで紹介されていたのを見られた方もあるかと思います。
インドやチベットなどでは、聖地巡礼の人たちが、
体全体を地面に投げ打ちながら、聖地に向かって進んでいきます。
一度の礼拝で、自分の身長の分だけ前に進むという、
途方もない巡礼の旅です。

日本の新米坊さんはここまでしませんが、
一座の行で108回の礼拝を課します。
で、一日三座ですから、さすがに腰や膝に
何らかの不都合が出るモノです。
これが正式には、100箇日続きます。
悲痛の叫びを押し殺しながら身心の錬成を積んでいく。
三業の罪と垢がそぎ落とされていくことを、
全身のふしぶしから発生するきしみ音と共に実感できるのです。

修行の第一歩が、
この「身心一如の世界」へいきなりダイビング的な仏教って、
すてきだと思いませんか?!

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懺悔を「さんげ」と入力しても出てきません、残念。

2010年06月27日 | 仏教
ある刑事モノのテレビドラマをポンヤリ見ていたら、
犯人の女性が刑事に対して
「あなただって警察という組織に裏切られた人間でしょ?!
その怨みや怒りはどこに行ったの?」
みたいなセリフに対してその刑事は、
「怨みや怒りがなんの解決にもつながらないことを、
私はよくわかってる。」
って答えるシーンが、妙に感動してしまいました。

ま、それはさておきまして、

「むさぼり」と「いかり」と「知らない」っていう
基本的な煩悩があるから、
私たちは様々な悪業を生産してしまいます。
その自覚が芽生えると同時にたいせつなことが、
「懺悔(さんげ)」すること。
犯した罪をくやみ、あらため、
仏さまにその罪を許してもらうための告白です。
これはとても大切な習慣だと思います。

「慚愧(ざんき)」ということばもありますね。
「慚」は自己に対して恥じいり、
「愧」は外部に対してその気持ちを示す。
こういう言葉があやしい世界で連発され、各マスコミが一斉にまき散らせば、
違ったニュアンスに変化した言葉になったりするんで、
原稿書く役人さんは謹んで欲しいと強く思います。
・・・懺悔してください。(笑

えっと、余計なことを言いました。(慚愧)

先日もやっちゃいましたあ、私。
今思い起こすだけでも恥ずかしくなります。
時間が過去に戻ってくれないかと本気で願うような気持ちです。
もう取り返すことはできません。
それは「慢心」という心が原因の事件でした。
もう、ご本尊様へ懺悔申し上げましたので、
ブログへの告白はしませんが、
懺悔はおそらく毎日必要なことなのだと思います。

失敗すればするだけ、
仏さまへ近づいていける。
それが「懺悔」することの肝要だと思います。


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無知であること

2010年06月24日 | 仏教
まえに、「むさぼり」と「いかり」の心について
ちょっと違った側面から観察してみました。
もうひとつ残されたテーマが「知らない}ということ。
無知であること。気づいていないこと、です。

高学歴で、知識の豊富な人だからOKかというと、さにあらず。
えてして不必要なプライドや慢心が邪魔して、
無知な状況を増幅させます。

「知らない」ということを別の言い方にかえると、
「先入観で決めつけてしまう」心理、とでも言えるでしょうか。
私たちは、知らないうちに「きっとこれこれこうであるに違いない」と、
信じ切って、思い込んでものごとを判断しています。
ですから、その自分で設定した枠組みが絶対のモノになって、
なかなかその枠組みから抜け出すことができなくなる。
自分で設定してしまった枠組みそのものが、
様々な苦しみの原因を生み出しているわけです。

私の祖母は97才でこの世を終わりました。
典型的な明治生まれの熊本産女性。
多くを語らなくてもご想像通り。(これがまた先入観。笑)
多くの人たちから頼られ、戦前戦後の苦しい世の中を生き抜いて、
今の礎を築いてくれました。
そんな祖母も、晩年は様々な身心の老化現象があらわになってきました。
常識を逸脱した発言や行動には、ほとほと困惑。
ことに私の父親にとってみれば、私の何倍も辛かったことでしょう。
これまで力強く、そして頼もしく育て見守ってくれた母親が、
あんな風になってしまって。とても腹立たしかったことと思います。

しかしある時、祖母の身の回りの世話をしていた妻の助言から、
祖母の不可解な発言行動の発端が、
日々のコミュニケーション不足から来ていることに気付かされたんです。

祖母は、70年以上の長きにわたり、お寺の看板娘(?)でした。
お参りに来た方にお茶をだし、会話を楽しみ・・・。
そんな長い習慣が少しづつ途絶えだし、それにあわせてちょっとづつ
痴ほう症状があらわになってきたようです。
一人でテレビを眺める時間が増え、一人で編み物をしている時間が増え。

妻の助言を発端として、
その日から祖母の発言や行動をそのまんま暖かく受け入れる方向にシフトチェンジ。
・・・と、なんだか嘘のように症状が軽減したんです。
高齢者福祉の世界では、当たり前の常識的なことかも知れませんが、
いざ自分の家族の中でこのような事態が発生すると、
「知らない」ということのために、家族一同が苦しみのどん底に陥ってしまいます。
悲惨きわまりない壮絶な戦いを余儀なくされるんです。

祖母の思いをそのまんま受け入れること。
それが、祖母の心にぽっかり空いてしまった大穴を埋めていく作業なんだということを
身を持って「気付」かされたんです。そのことを「知」ったんです。
これで、私ども家族の苦しみもだいぶ軽減されていきました。

わたしは、「あの祖母がこんなになるなんて」という
「思いの枠組み」から抜け出すことができなくて苦しみました。
知らない、気づいていないということの恐ろしさを、
身を持って気付かされました。
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思ったようにいかない、これぞ人生

2010年06月23日 | 仏教
今日は久しぶりになんの予定もない自由な一日。
さて、静かな環境は整ったぞ。
ゆったりと読経三昧にしようか。
それとも、日頃こなせない雑用を片付けようか。
・・・いろんな計画を企てているうちに、
次から次へ電話が入り、今日一日の企ては雲散霧散。

これが檀家寺の宿命。
もう、慣れました。(;_;)

お寺さんと一言に言っても、
様々な形態があります。
・多数の檀家さんがいて、檀家さんを対象にした勤めをする檀家寺。
・不特定多数の信者さんがいて、三々五々の参詣者を対象にする祈願寺院。
・学校法人や福祉施設などの事業に重きを置いたお寺さん。
・観光客を対象にしたお寺さん。
・宗派の修行道場としてあるお寺さん。
・平日は公務員の仕事をしたり農業をやったりで、
 日曜祝祭日だけお寺のお勤めをするお寺さん。
・巡拝者を対象にお勤めをするお寺さん。
・講演会や布教説法活動でいつも留守にしているお寺さん。
・以上の要素のいくつかを兼ねた勤め、をしているお寺さん。

今思いつくだけでも、これだけ形態の違いがあります。
お寺という空間を維持運営していくために、
他人様にはわかってもらえない苦労を重ねている方も多くあります。
お坊さんの理想の姿と、現実のお寺(宗教法人)運営は、
まったく矛盾する関係です。
でも、この明らかな矛盾をどう受けとめて、
どう料理していくか?
これこそ、「僧侶」と「代表役員」という二つの肩書きを持ったお坊さんの
力量に関わってくる問題でしょう。




っかあ~、えらいことゆっちゃった~~イ (>_<)

 
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刺激が生み出す幻想

2010年06月22日 | 仏教

以下は、貪りと怒りをテーマにした観察です。
題しまして、「クールな観察日記」(^-^)


私は、日々刺激を求めて飽くなき動物のようだ。
私を取りまく環境は、
すべてが刺激に基づいた社会構造になっている。
貨幣経済しかり、学校教育しかり、家庭生活しかり。

あれを手中におさめたい!という欲望がある。
この欲望は、生きる目標として誰からも正当化されるだろう。
その欲望を達成するために元気、やる気、パワーがみなぎるのだから。

あれが欲しいこれが欲しいと、とても苦しむ。
でも、その苦しさは、欲望達成の幸せへつながるためのスパイス。
でもそれは大きな大きな誤解だ。
時として、モノを欲する気持ちは過剰な刺激となっている。
ドキドキ感を味わう。なかなか心地よいモノだ。
あれを手にしたら、きっと幸せであるに違いない。
いやいや、それは幻想だな。大きな誤認だ。
仮に目的のモノが手に入ったとして・・・。
なんだか、こんなもんかあ、って思うに違いない、きっと。
私がこれまで増幅させ続けてきたイメージとはほど遠いモノ。
勝手に想像を膨らませ、モノに過剰な期待をし、
強い刺激を求めるモノだから、そんななっちゃう。
んじゃ、今度はこれじゃなくてアレにしよう、
ってまた同じ欲望の充足を求めて目的を定めるに違いない。
で、同じコトを繰り返すんだな。
この心の癖は、このまま飽きることなく、
ますます勢いをつけながら連鎖し続けるにちがいない。

・・・と思ったと同時に、
私の中でクールな観察力が芽生え出してきた。


人やシステムに対する怒りの感情、破壊してしまいたいという衝動、
これなんか貪りの心よりもより刺激的な幻想だなあ。
私にとってひどく都合の悪い人や組織は、
できれば私の目の前から消えて欲しいと願う。
邪魔なモノ。だからいなくなれば無くなれば幸福になれる、
って思ってしまう。
でも、実際怒りの原因と感じていたモノが排除されても、
私は幸福になることはできない。
なぜならば、過剰な感情、強い刺激、エキサイティングな思い、
・・・そんな刺激を欲しながら、
そんな刺激という幻想にしばられながら生きているのだから。

・・・と思ったと同時に、
私の中でクールな観察力が芽生え出してきた。

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