こ も れ び の 里

長崎県鹿町町、真言宗智山派、潮音院のブログです。平戸瀬戸を眼下に望む、人里離れた山寺です。

オーシャン・ローズ号をながめながらの昼食。確か今日の夕刻、初就航でしたね。

2012年02月29日 | 仏教


昨日の研修会昼食会場からながめるオーシャン・ローズ号。
「おおきかね~」
「あげんとに乗ったら迷子になるバイ」
「来年の研修は、上海さん行こか」

みんな好き勝手なこと言いながら、
若干のびたチャンポンを食すのでありました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

総代さんと地区班長さんとの合同日帰り研修会でした。

2012年02月28日 | 仏教

参加者30名。
マイクロ2台にて鹿町を出発。

まずは、無窮洞を見学。
戦時中、小学生が先生と一緒に掘った防空壕「宮村国民学校地下教室」。
空襲警報とともに600人が逃げ込んでいたという。
当時小学三年生だった人が、ボランティアとして私たちに説明してくれる。
体験者の生の声は心に響く。

梅が枝酒造見学。
満開の梅がお出迎え。

見学はささ~と、すぐ試飲会。
というか、ショッピング。

長崎市内寺町の最も端に位置する清水寺。
長い坂道を上りあがり、息が整ったらみんなで読経。 合掌。

長崎らしい唐寺、崇福寺参拝。
唐の仏像と日本の仏像の違いにみな(・0・)。

おなかも減って昼食。
たまには中華もね。

午後は、孔子廟。
いや~こちらこそです。

儒教の先生方がたくさんお出迎え。恐縮します。
いやいや、たまたま故宮博物館の品々の特別展示展開催中で、大慶大慶。
約束の時間をオーバーして退出。時間厳守の方々には陳謝。ごめんなさい。

ということで、小雨も降る中の短い日帰り研修会でしたが、
なかなかどうして濃い研修でした。

帰途、西海橋で鯛焼きを購入。
見事売り切れごめん。<(_ _)>

実りある研修会が、無事終われたことに感謝。 合掌。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本日の長崎新聞 歌壇一席に 妙に共感する一首

2012年02月27日 | 仏教

楠久信清さんの作品

運転を 妻に任せし助手席の 無用に肩も 手足も疲る
                          

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わらしべ・・・なんとか?

2012年02月27日 | 仏教


息子がアルバイト先から頂いてきたイカや魚は、
お野菜やお漬け物、はてはロールケーキなぞに変身しました。
お見事!!
そして感謝。   合掌

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やんぼしさん(山伏さん)の歴史

2012年02月26日 | 仏教

 前回お話しした繞鉢(にょうばち)ですが、
その筋の方(笑)から早速指摘がありまして、
「繞鈸と表記しなはれ」と。
大変失礼しました。確かに「繞鈸」が正しくございます。
謹んでお礼を申し上げ、ここに訂正を致します。
高野山上のコウヤマキ。
杉か桧と間違えるほどの大木です。

ところで、その繞鈸に彫られていた
実相院・実法院・大円坊・密蔵院・明福院・大楽院の名ですが、
これらは、山岳宗教を基本にした修験道者、山伏のお坊さん方です。
潮音院を中心に北に「密蔵院・明福院・大楽院」。
南に「実相院・実法院・大円坊」。
地域に密着した自然環境を重んじる宗教で、
神仏習合の形態を今に残すお坊さんです。
一年を通して季節ごとに、さまざまなお祀りやご祈祷を執行していく仕事です。
屋祓い、荒神まつり、水神、金、各種山さま、お稲荷さん、金比羅さん、祇園祭
道祖神、・・・・う~ん、まだまだありそうですが思いつきません。
これらはすべてが、地域の人々の暮らしに密着したものばかり。
近代化がなされるまでは、無くてはならない不可欠なお祀りでした。

残念ながら、現在も活動されているのは、大楽院と明福院のみ。
他はみな、明治の神仏分離令による混乱や、
押し寄せる近代化の波に飲み込まれ、還俗されています。
しかし、今も厳然として御子孫はご健在で、
遠いご先祖の生き様を誇らしく思って生きておられます。

さて、この山伏の方々は、院や坊の付く名前です。
これは、江戸時代までに体系化された修験道の
いずれかの系譜にあるお坊さん、ということができます。
きちんとした修行をして、系譜にある師匠から免許皆伝なされなければ、
院号や坊号は名乗れません。

されば、鹿町に存在したこの6つの山伏さんは、
どこの修験道から、この西端の地に定住するようになったのか?
今となっては、なんの資料もなく、推測憶測でしか語ることができませんが、
逆に、全国各地の山々(英彦山、羽黒山、大峰山など)に残る山伏の系譜をたどってみれば、
おぼろげにでも、姿が見えてくるような、そんな気がします。

全国津々浦々まで、この山伏さんが点在するのには、
それなりの背景があるようです。
誤解を恐れず端的に言えば、
時々の権力者が、目の上のたんこぶである体育会系宗教実践者、
山伏や山法師と呼ばれる聖者たちを、
中央から遠く離れた里に配置することで、
彼らの権力に対する自衛権を剥奪し、
仏教集団としての権力への抵抗力を弱体化させること。
であったとおもわれます。

武蔵坊弁慶の姿でもおなじみですが、
彼らの武装勢力は、時々の支配者にとって、
そりゃもう、脅威中の脅威だったはずです。
鉄砲隊なんか組織されてたくらいですもんね。
そんな脅威に対して、歴史上幾多の寺院焼き討ちがおこなわれたか。

白川上皇の「天下三不如意」( てんかさんふにょい)ってのがよく物語っています。
源平衰盛記で白川上皇が語ったとされる語で、
「鴨川の水、双六のさい、山法師、これぞ朕の心にかなわぬもの。」。
(これって、山法師の所をいろいろ差し替えると面白そう)
歴史の教科書では、権勢が強かった上皇でも寺院勢力には頭を悩ました、
という趣旨で書かれてます。
比叡山などは僧兵を使い、都まで出向き、強制的直訴を繰り返していたとか。

純粋に修行に打ち込む僧侶や修験道に専念する山伏たちもたくさん居たんでしょうが、
自活のために荘園をもち、集団としての運営がすすめば、
その既得権を護る必要が出て、自然と肥大化していったんでしょうね。
宗教教団の肥大化は、方向性を見誤ります!の良い例ですね。

で、歴史上この構図は何度も繰り返されていきます。
近畿地方だけでなく、大なり小なり津々浦々で激突があったと思われます。
そんな中、多くの山伏たちは、各地へ散らばり定住をしていったと。

こんな風に、イメージをしています。              合掌




 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする