京都市下京区柿本町680
2017年12月の記事 1月に撮影
2015年5月の記事
寺院 前回の記事 ➡ 寺院伏0285 顕正寺 日蓮宗 天明義民 板屋市右衛門 墓所
川柳
喜寿だけど 恩師の前では 女子高生 /古曽部
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京都市下京区柿本町680
2017年12月の記事 1月に撮影
2015年5月の記事
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川柳
喜寿だけど 恩師の前では 女子高生 /古曽部
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2017年12月の記事 (2017年1月撮影)
2015年4月の記事
都を災いから守るため 風水の考えから 東西南北に 東(青龍) 西(白虎) 南(朱雀) 北(玄武)の4神の霊獣が配置された
さらに、陰陽道の吉兆をつかさどる方位の神として 大将軍が置かれた
東は三条大橋の東の大将軍神社
西は当 大将軍八神社
南は藤森神社内の大将軍神社
北は今宮神社内の大将軍神社
が置かれた
1178年 11月22日 あの賢礼門院(寂光院)は息子の安徳天皇(壇ノ浦の合戦で亡くなる)の安産祈願のため、勅使を当社に派遣されている
応仁の乱(1467~1478)で焼失 1535年再建 1933年 社殿建立
収蔵庫には 木造大将軍神像 79体(平安~鎌倉)が納められている。数では日本一。
明治初年境内の竹藪の洞窟から発見された 現在重要文化財
宝船の版木があります
左・明治39年建立です
大将軍八神社
当社は、平安建都の際に都城の方除守護神として造営されたのが始まりとされ、当初は大将軍堂と称したが、江戸時代初期になって大将軍社と改められ、更に大将軍八神社となって現在に至っている。
大将軍とは、陰陽道にいう星神天大将軍で、方位をつかさどる神である。このため、建築・移動・旅行などに関し、方除け、厄除けの神として世間の崇敬を集め、その時々の権力者たちも当社を厚遇したといわれる。
当社には、平安時代中期から末期にかけての大将軍信仰高潮期に奉製されたと思われる「神像」百余体が所蔵されている。このうち、武装像、束帯像、童子像合わせて80体が昭和47年(1972)に重要文化財に指定された。いずれの像も、独特の表情、装束で異彩を放っており、興味深い。また、陰陽道に基づく古天文暦道資料(府指定文化財)も蔵されている。
京都市
手水舎です
本殿前の狛犬です
方位を示しているのだろうか
本殿です
絵馬と扁額です
方徳殿 5月1日~5日 公開日です
大きな灯籠です
ここに、なぜ錨があるのでしょう
大杉大神
車石のようにも見えるのですが
蔵 と
豆吉明神 です
オガタマノキ
と 大きな灯籠 です
左より 大物主神、長者神、菅原道真公神、稲荷社、事大主神 です
倉庫 です
関連記事 ➡ まとめ005 車石 のあるところ
神社 前回記事 ➡ 神社下0035 火除天満宮
五七五
宿かりて名を名乗らする時雨かな /芭蕉
京ことば アカン だめだ。いけない。効果がない。役立たない。「それ食べたらアカン」
2017年12月の記事 2017年1月に撮影
庭園は署員の南面につくられている 枯山水の庭園で、信長の作庭とつたわる。長方形の地割に築山をつくって石組を配し、板状の小石を敷き詰めて、水の流れを抽象的に表現している。
2015年5月の記事
京都市下京区柿本町677
天正4年(1535)日映上人が創建した本圀寺の塔頭の1つで、
天正5年(1536)天文の法難によって焼失したが、永禄3年(1560)頃に再建された。
永禄11年(1568)10月に将軍 足利義昭が入洛の時、
織田信長は当院にて、出迎えたと伝わる。
庭園 枯山水の庭園、織田信長の作庭と伝わる。昭和24年移転した後、
造園家 重森三玲によって復元修理された。
庭内には、義昭の銘と言われる瓜実灯籠、烏帽子石、呼子の手水鉢がある。
関連記事 ➡ 有名人ゆかりの地・織田信長
寺院 前回の記事 ➡ 寺院伏0283 栄運院 浄土宗
川柳
老一人 家電ブザーに 返事をし /森下
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