媞子内親王 火葬塚
白河天皇の第1皇女(1076年~1096)
母は 藤原賢子 享年21
陵墓 前回の記事 ➡ 陵墓南024 浄菩提院塚 陵墓参考地
五七五
さればこそあれたきままの霜の宿 /芭蕉
ことわざ
竜の髭を撫で虎の尾を踏む
媞子内親王 火葬塚
白河天皇の第1皇女(1076年~1096)
母は 藤原賢子 享年21
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五七五
さればこそあれたきままの霜の宿 /芭蕉
ことわざ
竜の髭を撫で虎の尾を踏む
2017年12月の記事
門が新しくなりました
2015年5月の記事
臨済宗 興聖寺派の本山
慶長8年(1603)古田織部正重然が、虚応和尚を開山として創建した臨済宗興聖寺派の本山で、のちには後水尾天皇の勅願所ともなったが、天明の大火に類焼した。現在の本堂はその後の再建で、内部須弥壇上には本尊釈迦如来像、脇壇に藤堂高虎の寄進とつたえる朝鮮達磨像や将軍地蔵坐像(鎌倉時代)を安置し、天井には元禄2年(1689)祖的の筆になる雲竜図が描かれている。また寺宝に絹本著色「兜率天曼荼羅図」は鎌倉時代の弥勒信仰によって作られたもので、兜率天宮の有様が細密に描かれている。江戸中期の画家曽我蕭白が描いた紙本著色「寒山拾得像」を蔵する。なお、境内には古田織部正重然、曽我蕭白の墓がある。
おりべ寺
千利休の七哲の一人、古田織部(1544~1615)が生前に、余生を送るつもりで、慶長8年(1603)に虚応円耳和尚を開山に建てた寺。寺には織部一族の墓が並ぶ、束帯姿の織部の木像のほか、織部百か条、黒茶碗、織部好みの茶室などゆかりのものが数多い。先代住職から織部流の家元を継いでいる。現在18代を数える。
織部は、七哲のうちで最も茶道に通じていなかったといわれるが、利休の死後、にわかに頭角をあらわし、将軍秀忠に茶湯を教えるほどの指導者になった。またたく間に頂点に立ったものの、織部もまた権力争いの狭間で非業の死を遂げてしまう。慶長19年(1614)大阪冬の陣。豊臣方が形成不利となって、織部は子重広とともに徳川方に寝返ったかに見せて徳川方を挟み撃ちにする陰謀を企てたが直前に発覚する。大阪落城とともに伏見の自邸で切腹し、5人の子供たちも父織部に殉じた。一時期を飾った織部流は、一族が九州で伝え継ぎ明治になって関東でも広めた。現在、一門は三百人という。
古田は6月11日、洛外木幡にて自刃、鳥居土佐守成次らが検死し、遺骸は大徳寺玉林院(現三玄院)に葬ったとある。三玄院の方が本墓のようです。なお、興聖寺門前、大応寺の境内には古田織部が勧請したとつたえる織部稲荷神社がある。
珍しい石仏もある
みどり が とてもきれいだ
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寺院 前回の記事 ➡ 寺院上0250 称念寺 ねこ寺 称念寺 では 猫は見かけなかった
川柳
できました 老人会の 青年部 /後藤
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