本龍寺
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室町幕府発祥の地
足利尊氏邸・等持寺跡
この付近は、室町幕府初代将軍足利尊氏(1305~1358
)の「三條坊門第」(二条万里小路第)のあっちところである。
尊氏邸の範囲については諸説があるが、二条大路、三條坊門小路(御池通り)、万里小路(柳馬場通)、高倉小路に囲まれた南北250m、東西120mの土地を占めていたと考えるのが最も合理的であろう。尊氏はこの邸宅で政務をとり、延文3年(1358)にはここで亡くなった。この地は、後に「室町幕府」
と呼ばれた政権の発祥の地であったわけである。
後にこの邸宅は「等持寺」という寺院に改められた。尊氏は3つの寺院を建てるを願ったが果たせず、そのため「等持寺」の文字の中には3つの「寺」の字が含まれることになったとつたえられている。等持寺は足利氏の菩提寺として崇敬を集め、室町時代の政治・文化に大きな役割りを果たした。
しかし、応仁・文明の大乱(1467~77)以降は次第に衰退し、結局は別院であった等持院(北区)に合併されてしまった。
近辺に残る「御所八幡宮」は、尊氏邸・等持寺の鎮守社であった。
なお、この地は平安京の坊条表示では左京三條四坊七町にあたり、歌人として著名な右大臣藤原定方(873~932
)の邸宅「太西殿」があったことでも知られている。後にこの邸宅は冷泉天皇皇后昌子内親王(950~999)の御所なった。
紫式部が『源氏物語』で描く藤壺中宮とその御所三條宮は、昌子内親王と太西殿をモデルのひとつとした可能性が高い。
1995年10月16日
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東方向を見る
南方向を見る 2019年11月1日 撮影
北方向を見る
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記念碑 皇太子殿下御成婚
2019年
本殿
由緒
鎌倉時代の弘安元年(1278)10月13日二条内裏焼失により翌11月8日の夕、
後宇多天皇(第91代)が前内大臣中院通成の三條坊門萬里小路邸に行幸あり、
しばし内裏となり俄に四足門を造立せられたることは「増鏡」に記すところである。
【この地は第77代後白河天皇(1155)の皇子で平家の横暴を懲らしめようと
源氏の一族に令旨を下し挙兵を(久寿・保元の乱)要望された
高倉宮以仁王の邸が三條高倉にあったので高倉殿とも呼ばれていた。】
村上源氏の一門である中院氏が源氏の氏神である。
石清水の若宮を邸内祠として、いつの世にか勧請奉斎していたことは当然であるが、
この行幸にて御帝が親しく八幡宮を祝いまいらせたる社としてその後は御所八幡宮と名付け奉斎してした。
建武の大乱以後南北朝に入るに及んであたりの光景は一変せられ
この故地に足利尊氏の弟で副将軍の直義が邸を構えて高倉殿と呼んでいた
正平7年・文和元年(1352)鎌倉において尊氏に毒殺されてより後、
清和源氏の流れを汲む尊氏は直義の邸を取払い、
その地に往古より鎮祀されていた石清水八幡の若宮を境内四町四方
本殿八棟造りの善美を盡した殿舎を再興造営
足利氏鎮守の社とし尊氏の称号にちなみ等持院御所八幡宮 又は高倉八幡宮、三條坊門八幡宮ともいわれた。
その後は皇室のご尊崇と貴神武門の崇敬は誠に深甚にして特に足利将軍家累代の社参
など朝家の敬仰篤く神賑を極めていたが、
応仁の大乱後戦国時代を経て足利幕府の滅亡(1573)するに至り衰えその極に達し降って
江戸時代には御池通り(元の三條坊門)の南、堺町(高倉と万里小路の中間)の西、
高倉の間に境内を占める有様となり
明治に入って御所八幡宮として村社の列に入り
昭和の時代には戦時中の強制疎開により狭隘なる現在地に鎮座の止むなきに至り、
往昔の盛観はこれを偲ぶ由もないが世の移り変わりにその尊崇する姿も変わったが
概ねその鎮座の位置をその昔と変わることなく厳存し、
今では初音学区とその近在の守護神として汎くお池の八幡さんと親しまれ崇敬され今日に至っている。
明治42年 建立
明治44年建立
北からの望む
三宅八幡
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