来迎院
魚山と号する天台宗の寺院で、仁寿年間(854~854)に円仁(慈覚大師)が、
唐で学んだ梵唄(梵語の仏教歌謡)などの声明の修練道場とし創建したものである。
声明とは、インドで始まった学問の一つであるが、日本では仏を讃える歌謡や経を読む音律として広がり、
仏教のほか民謡などの日本音楽にも大きな影響を及ぼした。
その後、平安時代末期(1094年)に、融通念佛の開祖・良忍が再興して、円仁に始まる声明を大成した。
この声明は、魚山流と呼ばれ、以後、天台声明の根本道場として栄えた。勝林院と並ぶ声明音律の中心となした。
応永33年(1426)火災によって堂舎を焼失したが、永享年間(1429~41)に再建され、
さらに天文年間(1532~55)に改修したのが現在の建物です。
本堂には、藤原期の薬師・阿弥陀・釈迦三尊仏(重要文化財)を安置し、
寺宝として、伝教大師の得度や受戒に関する文書三点を一巻とした伝教大師度縁案並僧綱牒(国宝)などを蔵するが、
現在は東京国立博物館に寄託している。
山道をさらに約二百メートル上がった所には良忍が声明を唱えていると、
声明の音律と融合して水音が消えたといわれる音無しの滝がある。
本堂内中央に薬師・弥陀・釈迦三尊坐像(重文・藤原時代)を安置する。
脇侍に不動明王立像(鎌倉)と多聞天立像(藤原)があり、
背後の脇壇上には慈覚大師坐像(鎌倉)・元三大師画像(鎌倉)・聖應大師画像を安置する。
永享7年(1435)山城国大原郷来迎院鐘として、大工藤原国次が造った旨を刻まれている
聖應大師良忍の墓がある。
良忍上人は延久4年(1072)尾張国知多郡冨田村の生れ、幼くして比叡山檀那院の良画上人の室に入って学んだが、
天台にあきたらず、23歳の時、大原山に隠遁した平安時代後期の念仏僧。
それより30年余り、この地に住み、一人の念仏を万人に融通して往生を導くという融通念佛の教義を唱えた。
また諸国をめぐって各地に念仏弘通の道場を開いた。長承2年(1132)2月、来迎院にて亡くなった。
61歳。後に聖應大師となられた。
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