芭蕉句碑
鳴滝川 と 滝
何が書かれているのか 不明
裏面は 此の句碑は
鳴滝は「小松の里」とも「長尾の里」とも称し、古来風光明媚の地として多くの山稜や山荘が営まれた。村中を流れる鳴滝川(御室川)はこの地で瀑布となり、水声が遠くにまで鳴り響いたので、滝を鳴滝といい、村を鳴滝村と称するに至った。
江戸時代には文人の来客・閑居するもの多く、歌人打它公軌、儒者藤井懶斎、桑原空洞、三熊花顚、茶人山田宗徧などがいる。三熊花顚は、仁和寺の寺侍の子として鳴滝村に生まれた江戸中期の画家で、『近世畸人伝』は伴蒿蹊とともに花顚が著したものであり、挿画を描いている。その続編は花顚の遺稿を蒿蹊の妹(露香)が描いている。
松尾芭蕉が、奈良のお水取りを見学した後、三井秋風の鳴滝の山荘を訪ねたのは、貞享2年(1685)2月のこと。
白梅し昨日や鶴を盗まれし
と詠んだ。
秋風は京都の豪商三井家の養子で、俊寅といい、通称六右衛門といった。本宅は中京区室町御池上ルにあったが、鳴滝に花林園と号した別荘をかまえていた。
此の句碑は貞享2年2月 松尾芭蕉の鳴滝の三井秋風の別荘花林園に招かれて半月ばかり留杖した時の吟也
昭和56年4月
枯魚堂9世 小川峰風 再建立
鳴滝川の滝
対岸の岩の中に 石仏
下流を見る
祠から 対岸の石仏を見る
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五七五
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