高山寺(こうざんじ)
室町時代には、洛陽六地蔵の1つとして知られた。
本堂には子安地蔵・子授地蔵・世継地蔵とよばれる地蔵立像を安置する。
この像はもと江州堅田にあったが、足利尊氏の帰依により、この地に移したといわれ、
8代将軍義政夫人の日野富子は子のないのを憂えて本像に祈って義尚を生んだと伝わる。
日野富子は日野家の出身で16歳で将軍義政に嫁いだ。
義政は思うように世継ぎの男子の誕生がなかったので
出家していた弟の義尋(よしひろ)を還俗させて義視と名乗らせ、次期将軍にしようとしていた。
富子は男児をと熱心に祈願した。すると不思議にも懐妊し、
寛正6年(1465)11月に男子の義尚を生んだ。
富子は細川勝元と相並ぶ山名宗全に相談しわが子を次期将軍にしようとした。
これが時の斯波氏や畠山氏の内紛とからみあい応仁の乱に発展した。
秀吉の御土居築造に際し、現在の西院の地に移された。
西院は「さい」ともいわれる。平安時代には、淳和天皇の後院・淳和院の別名西院の跡、
または平安京右京の道祖(さい)大路の旧跡地にあたるからともいわれる。
また、信仰の盛んなころは、賽の河原は、この西院の地にあたると信じられ、
当時は庶民の信仰をあつめた。
本堂前の大きな地蔵石仏は、賽の河原地蔵と呼ばれる。
洛東黒谷の山麓から移したと伝わり、痔病平癒祈願の信仰がある。
背後周辺には、室町時代から江戸時代に及ぶ小石仏が多数安置されている。
これは、都市計画によって御土居を取り壊した時に出土したものといわれています。
本堂に掲げられいる 御詠歌
なでぼとけ
頭はなでられ 黒光りしています
享保17年 (1732) 280年程前
墓所には 俳人 中川 四明 の墓がある
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参考語 山名宗全 日野富子 御土居
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