信西塚
塚は封土の上に石造宝篋印塔(江戸時代)を安置し、傍らに「信西入道塚」の石碑がある。
『平治物語』によれば、少納言信西入道(藤原通憲)は平清盛とむすんで権力をふるったため、これを恨んだ藤原信頼と源義朝は平治元年(1159)12月、清盛一族が熊野参詣の不在中をねらって兵を挙げた。いち早くこのことを知った信西は、京都を逃れて奈良にむかおうとした。
宇治から田原の奥、大道寺の所領地に至り、さらに東の信楽に行こうとした。しかし卜占の結果、天皇の危難は自分の身替りによって救われると判断し、死して君恩に報いようとして、ふたたび大道寺に引き返し、従者に命じて掘らせた穴に入り、大きな竹の節を上から差し込み、それを口にあてて死を待った。まもなく追撃してきた源光泰の軍勢に発見され、ついに首をはねられたという。
大道寺の領民はこの場所に塚を築いてその菩提を弔ったと言われている。大正5年8月に有志により供養塔が建てられ今に至る。
三宅安兵衛 建立の 道標 信西入道塚
大正5年に建てられた 石碑・供養塔
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