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寺院宇治田原0637  大道寺 信西入道ゆかりの寺

2019年09月23日 05時48分12秒 | 寺院

 

 

 

大道寺

奈良時代に山岳修験の道場として開かれた金胎寺の北側登山口として、早くから開かれた地に天平勝宝8年(756)大納言三品湯原王(施基皇子の御子)の発願により、鷲峰山中興の越知泰澄大師が開基。大伽藍も配置されていたが、その後衰退していたのを嘉承元年(1106)11月、藤原忠実の帰依により再興し、それより大御堂と称したという。その後にその子頼長に伝領されたが保元の乱後、没宮領として田原庄など諸国の頼長領と共に後院領に入れられた。その後、平治の乱で殺された信西の所領となっていた。大道寺の南端にこの信西を供養した宝篋印塔が立つ。信西は俗名を藤原通憲と称し、「本朝世紀」「法曹類林」などが著した学者であったが、平清盛と結んで権勢を誇った。清盛の熊野参詣中、対立者の源義朝は兵を挙げ、信西は信楽に逃れようとして宇治田原まで来たが、この地で自害したと言われている。いわゆる平治の乱である。

「百錬抄」平治元年(1159)12月17日条に「少納言信西首、适尉於川原請取、渡大路懸西獄門前樹、件信西於志加良木山自害、前出雲守光保所尋出也」とある。「平治物語」古活字本には都を追われた折に「宇治路にかかり、田原が奥、大道寺といふ所領にぞゆきにける」と記されている。一説には、自害した屍は胴のみ近くの寺に納めて胴塚として祀られ、首は都でさられていたのを大道寺の領民がもらい受けて、この地に塚を築いたといわれ、近くに信西首洗いの池と称する小池もある。大道寺はその後も修験系の寺院として栄えたが、以後400年もの間興亡を繰り返し、ついに戦国末期に、永禄10年(1567)には織田信長による寺領没収に会って滅亡に近い寺院になったと伝えられる。とくに昭和28年の山城水害には裏山より土砂が崩れ落ち、寺は壊滅した。五体の仏像のみかろうじて難を逃れ、以前書庫とされていた御堂に安置されていたがその建物も近年老朽化はげしく、平成16年10月に現在の建物を新築し、本尊不動明王をはじめとする仏像を安置する。

寺院 前回の記事 ⇒ 寺院宇治田原0636 禅定寺 曹洞宗

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