大報恩寺
瑞応山と号する真言宗智山派の寺。釈迦如来を祀るので「千本釈迦堂」と呼ばれています。
昔は嵯峨釈迦堂(清凉寺)と並んで、釈迦信仰の中心だった。
当寺の開山、藤原秀衡の孫で求法上人義空は羽州の人で、
その母が薬師如来に祈って日輪を呑むと夢見て懐妊した。
この地を寄進されたのでここに堂を構え、
一仏十弟子像を安置したのが承久3年(1221)でこれが当寺の起こり。
貞応2年(1223)に大堂が完成した。はじめは俱舎・天台・真言三宗弘通の道場となり、
文永年間(1264~75)二世如輪上人の時は堂塔伽藍も完備した。
貞治2年(1363)には足利尊氏の命により涅槃講が開始され、
これが恒例の行事となり今も2月15日に遺教経会として行われています。
中世には兵火にあい多くの堂舎を失ったが
本堂(釈迦堂)と仏像は残り古文化財の宝庫となっています。
3月15日の釈迦念仏は昔から大変人気があったようです。
「徒然草」にも賑わいが紹介されています。
兼好法師が20歳の頃の陰暦2月15日に
洛中の人々でにぎわう釈迦堂に参り
「遺教経」の独特な節回しに耳を傾けたと記されています。
徒然草 238段後半に (現代語訳です)
「2月15日の月の明るい晩、だいぶふけてから千本の釈迦堂へ参詣、
後方から、ひとり、顔をすっぽりかくしてお説教を聴聞していたところ、
姿も焚きしめた香料なども抜群な美しい女が人を押しわけて来て自分の膝に寄りかかって、
香などまで移ってくるほどなのでぐあいが悪いと思って後へ退くと、
女はそれでもまだ近寄って同じ様子をするので自分はその場を立ち去った。
その後、ある御所に仕えていた老女房が、雑談の末に、あなたはまるで色気がない方で、
つまらぬ人と考えていたこともございました。
無情なお方と恨んでいる向きがありますよと話し出したが、
いっこうに思いあたることもありませんと答えてすましたが、
このことをさらにのちに聞いたところでは、
例の聴聞の、別室から、ある貴婦人が自分をお見つけになって、
おそばの侍女を作り立ててお出しになって、「うまくゆくと言葉をかけますよ。
何を言うか向こうの態度を注意しておいて帰って来て話して聞かせてください。
おもしろいでしょうから」と言うのでおためしになったということである。」
と書かれていました。
六道参り
8月16日には精霊迎え・六道参りがあります。
この世を去ると地獄・餓鬼・畜生の三悪道におちいるといいます。
それを観音様の力で救っていただこうというわけです。
このほかに行事がいくつか実施されています。
参道
稲荷社
太子堂(旧経王堂)
太子堂 昭和29年に経王堂の材を用いて再建
足利義満が明徳の乱に敗れた山名氏清の菩提を弔う為に、明徳3年(1392)内野に建立した。
慶長10年(1605)豊臣秀頼は片桐且元をして北野天満宮内、観音寺の南に再建させた。
その後寛文年間(1661~73)に荒廃し当寺に移した。
山名氏清碑
南北朝時代の足利氏の武将、義満に謀反し、明徳2年(1391)内野において戦死した。
延宝5年(1677)氏清の末裔が建立したもの、供養塔です。
この石碑は不明
桜の木
本堂
本堂 (鎌倉・国宝) は創建当時の建物で京都市の現存最古の鎌倉初期の建物。
安貞元年(1227)の上棟です。800年前です。
本尊釈迦如来坐像は胎内に「巧匠法眼行快作」の銘が出てきた。快慶の弟子です。
十大弟子立像 快慶の作品である。誕生釈迦仏立像、千手観音立像、六観音菩薩像がある。
応仁の乱のときの刀・槍のきずあと
本堂内
本堂から 東側を見たところ
石仏が塔にしてあります
本堂から 参道を見たところ
本堂から おかめ像が見えます
七福神 布袋尊
桜の木
本堂 右から見たところ
おかめ塚、本堂創建時の大工棟梁長井高次は主柱の寸法を1本切り誤って悩んでいたところ、
妻の亀女の「他の3本も短く切ってしまい、柱の上に枡組を置けばいいでしょう」との提言によって
無事工事を成し遂げたが、
しかし亀女はそのことが世間に洩れては、棟梁としての夫の名声を傷つけるのを悩み、
上棟式を待たずに自害した。
この塔は高次が亡き妻の亀女の冥福と本堂の安全を祈願して建立したものとつたわっています。
今でも上棟式で、棟木におかめさんの面をつけ、
工事の安全と家内安全を祈願するのは、この話に由来する。
石碑
石碑
ぼけ封じ 観音像
ぼけ封じ近畿十楽観音霊場めぐり
今熊野観音寺
大報恩寺
弘法大師堂
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