江戸時代の 朝鮮通信使の宿泊施設だった
本圀寺
江戸時代、日本が朝鮮国から招いた「朝鮮通信使」は京都で滞在した。
そのうち本圀寺は1636(寛永13)年以来定宿とされ、
7回にわたり、一行約400名の宿館として用いられた。
当初、本国寺という名であったが、中国や朝鮮の学問に憧れ、
江戸で朝鮮通信使とも交流した徳川(水戸)光圀の帰依をうけて、のちに本圀寺と改めた。
朝鮮通信使が来ると将軍の名代として代々の京都所司代が一行に挨拶に来て、
饗宴を催すこととなっていた。
1767(宝暦14)年の通信使の随員であった金仁謙の記録「日東壮遊歌」によれば、
当時の本圀寺は相輪をもつ五層の楼門があり、石や木竹を配した庭はよい趣があったという。
1711(正徳元)年の「朝鮮人来聘ら付、公儀(幕府)ヨリ被仰出状御書付」という文書によれば、
など多くの坊舎塔頭が一行のために用いられたことが記されている。
なお、本圀寺は1971(昭和46)年に山科区へ移転した。
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