同志社の創立者、新島襄の妻・八重(通称・八重子)のゆかりの新島旧邸。
この屋敷に50年以上八重は住んでいた。
京都でキリスト教の学校を作る新島の難事業を助け、また欧米流の生活を実行した彼女への、世間の逆風はすごかったでしょうが、自分を失わず筋を通した。すごい女性だった。
八重の一生は青春時代から幕末維新の動乱に巻き込まれるなど、波乱に満ちていた。1845年(弘化2年)、現在の福島県・会津若松市の鶴ヶ城ほ本拠とする会津藩の砲術指南山本家の長女として生まれた。17歳上の兄に、後に京都府顧問となり、また同志社創立を助けた覚馬がいた。この覚馬が佐久間象山に砲術、蘭学を学ぶなど進取と科学的精神にあふれていた。京都守護職を命じられた藩主・松平容保に従って覚馬は京都入りし、禁門の変では大砲隊を指揮して活躍した。この兄の影響を強く受け八重は、文武両道を男性同様に学び、西洋の科学や知識についても優れていた。
続く戊辰戦争(1868 慶応4年) 鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗走、失明状態の覚馬は捕らえられ、八重の弟の三郎は戦死した。さらに江戸開城、会津戦争と展開、鶴ヶ城攻防戦で八重は弟三郎の遺品の装束を着用、男装し戦闘に参加した。
傷病者看護など後方支援だけでなく、七連発銃を連射して城外に夜襲をかけた。捕虜となった八重は女性と分かり返された。
一方京都では捕らわれの身で覚馬は「管見」という意見書を著し、新政府の高官に注目され、1869年(明治2年)に京都府顧問に就任、京都博覧会の開催、京都中学や療病院、舎密局、女紅場などの設立促進などで指導的立場になった。
そこへ覚馬の無事を知った両親や八重らが合流して、京都生活がはじまる。八重は女紅場の教師兼舎監に着任。1874年(明治7年)、米国から帰国した新島は、翌年京都で覚馬らと同志社英学校を設立した。八重はその次の明治9年、洗礼を受け、結婚式を挙げた。これが京都で初めてキリスト教式の洗礼であり、結婚式だったという。この2年後に新島邸が新築された。
新島夫妻は1878年(明治11年)に新島邸に引っ越ししている。木造二階建て。
八重は襄の永眠後も1932年(昭和7年)、88歳で病没するまでここに住み、お茶を教えたりしていた。外出するときなどは、会津出身の学生に留守番を頼むなど故郷とのきづなを大事にした。
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