2017年12月の記事
島原の大門は、道筋(どうすじ)と呼ばれていた中央の道の東端に位置し、かつては島原の正面でした。
島原は、寛永17年(1640)に六条三筋町から移されたわが国最初の公許遊郭で、四周は堀と塀で囲まれており、門は当初、その東辺北寄りに設けられていました。この門は、享保17年(1732)に西門が開かれるまでは島原の唯一の門で、明和3年(1767)に道筋正面の現在地へ付け替えられました。
当初の門の形態は不明ですが、享保14年の「洛西島原絵図」には、冠木門とその前に柳、道の両側には垣が描かれており、この時すでに門・柳・垣から構成されていたことがわかります。その後何度か建て替えられて、現在は慶応3年(1867)に再建されたものが残っています。『角屋』より
大門は、高麗門形式で東面し、親柱を棟まで立ち上げて柱間を冠木で固め、その上に蟇股を2つ置いて、切妻造、本瓦葺の屋根を載せています。大門の南と北には本瓦葺の袖塀が付き、南袖塀には潜戸が設けられています。北袖塀のもう一方の端からは屋根塀が斜めに延び、その前には「出口の柳」が植えられ、「さらば垣」がめぐらされて、当時の趣を伝えています。
この大門は、島原の地区を区切っていた門であり、島原の由緒を伝える地域の文化財として貴重です。
2015年9月の記事
むっ この島でなく 嶋を 山と鳥に 上下に分けて書いてある
原の 中 小 でなく 水 になっている 泉だ
昔のあった地の 町名の柳馬場と因んで柳が植えられている
島原
豊臣秀吉が京都を再興するに当たり、二条柳馬場に柳町の花街を公許したが、これが後に六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移され、六条三筋町として栄えた。
その後、京の町の発展に伴い、寛永18年(1641)、市街地の西に当たる当時の朱雀野に移った。正式名称は西新屋敷と呼んだが、その急な移転騒動が、時あたかも九州島原の乱の直後であったため、それになぞらえて島原と称されるようになった。
島原の傾城(遊宴のもてなしを公認された女性)の最高位である太夫の名称は、慶長年間、四条河原で六条三筋町の傾城が女歌舞伎を催したとき優れた傾城を「太夫」と呼んだことが始まりとされている。太夫道中は置屋から揚屋へ練り歩く様子という。
また、江戸時代の島原は単に遊宴にとどまらず詩歌連俳等の文芸が盛んで、
中でも俳諧は島原俳壇が形成されるほど活況を呈していた。京都市
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五七五
宿かさぬ火影や雪の家つづき /蕪村
ことわざ
禍独り行かず
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