当寺は山号を一切経山とする浄土宗の寺院である。
奈良時代、天平年間に行基が東岩倉山(左京区)の一切経谷に創建した阿弥陀堂に起源をもち「上の堂」とも称した。
伝えでは、行基は丈六の阿弥陀如来像を彫ったとされる。丈六とは仏像の理想の大きさで一丈六尺(約4.8m)の略。座れば一丈程度(約3m)になる。応仁の乱で、東岩倉山一帯は戦場となり、当寺は荒廃したが、伝えによると焼けた御堂から首だけになった阿弥陀如来像を信者たちが見つけだし、それを粟田の地に遷し、仮堂(粟田惣堂)を建て蔣(わら)を敷き、その上に阿弥陀如来の頭部像を祀ったところから今も蹴上には「小物座(蔣座)町」という地名が残る。
以降、地元の住民たちによって御堂は守られ信仰されてきたが、慶長7年(1602)に岌然上人が、青蓮院門跡の許可を得て、現在の地に堂を移し寺を再興した。正徳3年(1713)には本尊が修復され、享保15年(1730)には本堂が建立され、現在に至る。また当寺は「洛陽四十八願所めぐり」の第27番目の札所であり、慶長年間の頃から、朱印に「行基菩薩御作、出陣の弥陀安置」という印を捺している。京都市
竜公美の筆による 石標
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夕焼けが きれいに見える 大丈夫 /大和田
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