寺院右0610 妙心寺 塔頭 春浦園(しゅんほえん) 境外塔頭 重文
寺院右0618 妙心寺 蟠桃院(ばんとういん) 前田玄以の墓
寺院右0619 妙心寺 大雄院(だいおういん) 柴田是真の寺
寺院右0623 妙心寺 光國院(こうこくいん) 亀姫と関係がある
方500m四方におよぶ広大な寺域に多数の伽藍がある。禅宗寺院で、正法山と号し、妙心寺派の大本山。当寺は花園天皇がこの地にあった離宮(萩原殿)を禅寺に改められたのが起こり、その創建年月については諸説があるが、およそ南北朝時代の康永元年(1342)頃とみられる。
開山は大徳寺の大灯国師妙超のすすめにより、その高弟関山慧玄が招かれてより、上皇もまた傍らに玉鳳院を建てて塔所とし、間もなく崩御された。開山の関山慧玄は無相大師といわれるごとく、形式的な読経や規式にこだわらず、堂宇の壮厳にも心をとめず、ひたすら人材の養成のみにつとめられたから、創立当初は規模も小さく、大徳寺の末寺として位置づけられた。
さらに応永6年(1399)、大内義弘が足利義満に叛旗をひるがえしたとき、義弘がときの住持拙堂宗朴(六世)と親しく、また妙心寺の壇越でもあったため、寺は義満によってその寺領を没収され、寺名もまた竜雲寺と改称し、一時は廃絶の憂き目にあった。
しかし、永享4年(1432)以降、寺領の一部が返還され始め、さらに日峰宗舜が7世住持となるにおよんで、細川持之、・勝元の支援を得て、伽藍の復興もようやく軌道にのるに至った。
応仁の乱の兵火によって焼失したが細川勝元・政元父子の援助によってふたたび復興され、大徳寺の支配を脱して独立寺院となるに至った。その頃、9世住持雪江宗舜の高弟に景川・悟溪・特芳・東陽の4傑が現れ、それぞれ竜泉・東海・霊雲・聖澤のいわゆる本四庵を山内にかまえ、この本四庵を中心として関山禅の浸透につとめたから、五山禅の衰退をよそに妙心寺禅は臨済宗の主流の地位を占めるに至った。
とくに戦国武将の帰依をうけ、多くの敷地の寄進をうけた。なかでも永正6年(1509)美濃国・加納の城主斎藤利国の室利貞尼は、御室仁和寺真乗院の領地を買収し、永代供養にと妙心寺に寄進した。これが妙心寺が現在の広大な境内地を占めるに至った。
江戸時代には将軍や諸侯の帰依するもの多く、塔頭子院90余宇のうち、武将の建立するものは38宇におよんだ。今日につたわる三門や諸堂宇もあいついで建立され、白隠禅師ら多くの名僧の輩出によって、寺運は隆昌になった。
明治以降も臨済9派の随一としてさかえ、今、末寺は全国に3500寺の多きを有している。