墨染櫻寺
深草山と号する日蓮宗の寺。俗に「桜寺」とよばれる。天正年間、秀吉の姉瑞竜尼は日秀上人にふかく帰依し、秀吉もまた上人を厚遇し、深草貞観寺の旧地に一宇を建立したのが当寺の起こりで、その後現在の地に移ったと伝わる。
創建当初は多くの堂があり、秀吉も親しく当寺を訪れたと言われている。今は本堂と庫裏があるだけ。寺宝に長谷川等伯の筆と伝わる秀吉の画像や秀吉自筆の短冊等がある。
墨染桜 本堂の前にある。
この桜は平安時代の歌人 上野岑雄が昭宣公基経の死を傷んで
深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け
とうたったことから墨染に咲くようになったといわれ、これに因んで墨染寺といい、地名も墨染とよぶようになったと伝わる。
今のは何代目かの桜であり、花は小さく白色の単弁で、
薄墨にようなところからこの名が生じた。
壽碑
惟るに当寺は清和天皇の勅創たる貞観寺の旧跡なり堀川左大臣藤原基経昭宣公 薨じて遺骨を此の地に殯したもうや上野峯雄哀傷の情を和歌に托して曰く
「深草の野辺の桜之心有らば今年ばかりは墨染に咲け」と
此の地の墨染めの称は(或は此の地を墨染と称するは)蓋し此の歌詞に因るなり後に大僧都日秀上人道譽頗る崇し
豊公(秀吉)深く之を信じ挙げて此の地を上人寄附して本宗に属し銘を墨染桜寺と改む殿堂高閣にして輪かんの美備わる爾来星霜数百年寺運振わず塚を破り碑を断ち累々として四方に狼藉する荒涼の状轉感慨の情堪えざるなり爰に第三十七世学妙上人先に宇治直行寺に住し次いで梅津本福寺に転ずるも夙に当山の廃類せるを慨き意に回復の事を期し入りて此寺に主となるや乾々赬尾寒暑にして虚日なく復興に是務む 依って聊か師恩に酬いんがために寿碑を寺の側に建て日常の微事をきざみて之を伝へて不朽ならしめんと欲し文を余に微す
余と上人とは同じく達門の流類なり敢て辞せす゛乃ち上人の行跡を按じて其の梗概の系を叙し以て銘じて曰く
千載跡遠く 廟影空しく 傾く
乾に力を致して 忽ち法城を現す
顕徳測叵し 誠の点睛を積むは
維れ労維績 勒んで永く 彰旌
平成十六年 十二月吉祥
西村慶珠翁之塔
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川柳
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