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石像 五百らかん
百丈山石峰禅寺
百丈山と号し、黄檗宗に属する。当寺は平安中期の武将源満仲が摂津多田郷にひらいた石峰寺が起こりといい、本尊薬師仏の夢告により、慶長の頃に京都因幡堂に移し、次いで五条橋東の若宮八幡宮のほとりに堂を建て、石峰寺と号した。宝永年間(1704~1711)、万福寺の千呆和尚の創建と伝えられ、当初は諸堂を完備した大寺であったが、度重なる災火により堂宇を焼失し、大正4年(1915)、昭和54年(1979)に火災で焼失している。現在の本堂は昭和60年に再建されたものである。本堂背後の山には、石造釈迦如来像を中心に、十大弟子や五百羅漢、鳥獣などを配した一大石仏群がある。これは、江戸時代の画家伊藤若冲が当寺に庵を結び、当寺の住職密山とともに制作したもので、釈迦の生涯を表している。なお、境内には、若冲の墓及び筆塚が建てられている。また、門前より少し西へ行った所にある古井戸は、古くから名水として知られ「茶碗子の水」と呼ばれて茶の湯に愛好されている。京都市
石仏五百羅漢像
本堂背後の山中にある。石造釈迦如来像を中心に十大弟子・五百羅漢・禽獣魚鳥などを配し、釈迦の誕生より涅槃にいたるまでの一代をあらわしている。この石仏は伊藤若冲が当寺七代密山和尚の協賛を得て下絵を描き、安永の半ば頃より天明初年まで前後10年余をかけ、石工につくらせたものとつたえる。江戸時代の作ではあるが、その表情はいずれも奇抜軽妙、一種の洒脱味があって、見るものをほほえませるものがある。洛西五智山の石仏群とともに京都市の石仏群の代表である。
伊藤若冲墓
墓石の表面に「斗米庵若冲居士墓」としるし、その右に貫名海屋の撰文になる筆塚がある。
若冲は京都の生んだ江戸時代中期の画家で、中京区錦の青物問屋に生れたが、幼少より画を好み、狩野派の画を学び、中国の古蹟をまね、光琳の図案風の筆致をとり入れて人物山水花鳥画をよく描いた。とくに鶏の画を得意とし、鶏の画を求める人は白米一斗を謝礼としたから、斗米庵と号した。市井の生活を嫌い、晩年は石峰寺の古庵に閑居し、清貧のなかにあって悠々画筆に親しんだ。寛政12年(1800)9月10日、85歳で没した。相国寺にある墓は生前につくった寿塔である。
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川柳
貧富の差ほどには違わぬ寿命の差 /さいたま
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