アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

寺院西0151  金蔵寺  天台宗

2016年07月19日 08時11分25秒 | 寺院

 

 

 

 

金蔵寺

金蔵寺は、奈良時代初期の養老2年(718)隆豊禅師によって開創された寺院で、平安京造営の際には、新都の平安を祈念して経文が納められたことから、西の岩倉とも呼ばれています。応仁の乱以前には、寺中に堂塔伽藍49院の僧坊を擁する大寺であったことが、室町時代中期の日記、『臥雲日件録抜尤』という文書に記されていますか、応仁の乱および永禄の兵火によってほとんどの建物が焼失し、現在の建物は、大部分が江戸時代に再建されたものとなっています。 京都府

 

 

 

洛西三十三観音霊場 2番札所

 

 

 

 

 

 

 

火の用心

前立尊奉安所

皆様の財産は、火の元から「火防勝軍愛宕大権現」を信仰致しましょう。愛宕大権現は、明治3年(1870)に愛宕山より当山神仏分離令によって遷座になり火防の守護仏として皆に知られております。

本堂の上の所に本尊殿がありますのでお参りして下さい。お札は、受付の所でお受け下さい。西岩倉山  金蔵寺



 

 

 

此の池は当山再建の祖桂昌院尼公が生類憐愍の念をお出しになりそのお心を以て造成なされしもので年々放生の会式を勤められましたが何時の頃か中絶し今日に至りました 此度佛縁ありて葉山麗仙大姉により復興され亦後放生会式奉修を念願されしものなり

維持平成元年11月吉祥日

中興19世 現薫隆眞香拝書

 

 

 

 

金蔵寺

山号を西岩倉山と号し、天台宗に属する。寺伝によれば、養老2年(718)、元正天皇の勅によって隆豊禅師が開創し、聖武天皇は勅願を賜り経典を書写して埋めたといわれ、桓武天皇は平安京遷都に当たり王城鎮護のため経典を埋め西岩倉山と号するに至ったと伝えられる。また、隆豊禅師の開創に当たり、向日町にある向日明神の神助があり、明神の手引きで楠木で千手観音を刻んだことが

「金蔵寺略縁起」に見えている。平安時代以後、当寺は西山の名刹として栄えたが、応仁の乱へと続く戦乱によって当寺の建物はすべて焼失し、当寺の正確な歴史を伝える古文書、記録も失われた。

現在の建物は、元禄4年(1691)、将軍綱吉の母、桂昌院によって再建されたもので、本堂には11面千手観音像を安置する。本堂背後には、明治初年に愛宕山より本尊、勝軍地蔵像を移して祀っている。このほか、山内には当寺の伝承にまつわる遺跡が多く、本堂の北、長嘯亭からは京都市内が一望の下に見下ろされる。京都市

 

 

 

 11面千手観音像が安置されている


 

 

 

 

 

 

勝運の佛

世に愛宕大権現し云ふは今より1300年程以前に役の小角が清滝に於いて不動明王毘沙門天を始め9万8千の夜叉をひきいて出現されしを霊感により感得せり、之れを其のまま御像に彫刻して愛宕山にお祀りせるものなり

以来火防と勝負の守護佛として信仰篤特に武将の深く信仰する所となり出陣の際には愛宕山に戦勝勝運を祈願せる例が数多く今日まで伝えられている処が明治3年に至り神佛分離の法令により愛宕大権現は縁故深き当金蔵寺に愛宕山よりお遷りになられました。

愛宕大権現の御本領は悪魔を征し火難にり守り一切衆生を済度し心に燃ゆる煩悩強盛の業火も広大無辺の誓願により浄く消火され其身は悟りの境地に至り勝運福徳長寿の楽果を得ること夢々疑いなし

御詠歌

前は神うしろは地蔵大菩薩

火防を守る愛宕大権現

どうぞお参り下さいませ

西岩倉山  金蔵寺 

 

 

開山堂

開山隆豊禅師行善大和尚と歴代の祖師先徳をお祀りしてあります。

総檜造りにして當山最も立派なお堂で寛永2年桂昌院尼公の建立です




 

豊臣秀吉は朝鮮出兵に当たって、愛宕神社の神宝笹丸(重文)を乞いうけて出陣し

徳川家康は武運長久を祈って芝の愛宕山に神霊を勧請した

明智光秀は天正10年(1582)5月、愛宕山に参籠し、

ひそかに織田信長打倒の祈願を行った

勝軍地蔵は明治の神仏分離でここに移され

愛宕大権現として祀られています




 

 

 

 

 

徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院は、幼少時に当寺に寄食した縁で、江戸前期の金蔵寺の復興に多大な援助を行いました。現在の本堂をはじめ、庫裏・客殿・護摩堂[後に焼失し、文化5年(1808)に再建]、仁王門・開山堂などの現存する建物は、いずれも貞享4年(1687)から宝永2年(1705)の間に、桂昌院の寄進などによって再建されたものです。 京都府

 

 

 

 

 

 

 

霊峰そびゆて紫雲たなびく清麗にして自然神霊結集の地なりと 七日七夜の夢枕に立つ 江戸徳川家桂昌院の霊告に静岡冨士浅間大社の木花咲弥姫大神を勧請し当山自然霊を合わせ祀れと感得し これより日本国土を世界を宇宙の根源の1つなりと承知した 此処に ゆかり深き桂昌院をも合祭の意を諒とせられたので

本殿  木花咲弥姫大神

右殿  当山全自然神霊

左殿  桂昌院御魂

 

御勧請御鎮座頂き 国土発展 悠久治平 世界平和の祝詞乞願の次第である

平成2年4月吉祥日

葉山神社宮司 麗仙

 

 

 

石井神社旧跡 

 

 

 

 

 

 

下の川弁財天

 

 

長嘯亭 

 

 

小塩山

小塩山(標高642m)は、京都盆地の周縁山地の西南部に位置し山頂に淳和天皇陵があることでも知られています。金蔵寺は、この小塩山の東南斜面の中腹にあり、周辺の山麓部には、善峰寺をはじめ、大原野神社・正法寺・勝持寺(花の寺)などの由緒てる社寺が点在しています。また、これらの社寺をつなぐように東海自然歩道が整備されていることから、周辺一帯は西山めぐりの里として親しまれています。 京都府

 

 

 

 

比叡山 

京都タワー

 

 

 

南東方向

 

供養塔

夢想的作品で知られる作家・稲垣足穂(1900~77)は後半生を京都で暮らした。ある秋、金蔵寺を訪れ、いにしえの男色奇譚「秋夜長物語」に登場する僧侶と稚児の供養塔を探すが見つけることが出来なかったと、随筆に残している。

室町期に書かれたとされる「秋夜長物語」は、実在した比叡山の若き僧、桂海をモデルにした創作。稚児・梅若丸はやがて琵琶湖に身を投げる。その桂梅がこの寺の住職を務めた。その上人と梅若丸の供養塔があります

今は、仁王門を出て、不動明王を祀る傍らにあります。

 

桂昌院の菩提寺 ➔ 寺院上0104  真敬寺 真宗大谷派 ・・・玉の輿の主人公の菩提寺・桂昌院

 

関連記事  ➔  神社右0015  愛宕神社

勝軍地蔵  ➔  興聖寺・上京区 興聖寺

 を祀る      権現寺・下京区 

         尊勝院・東山区

         鹿王院・右京区 寺院右0001-2  鹿王院  境内に静寂な竹林

                     寺院右0001 鹿王院 (ろくおういん)

         来迎院・東山区

         等


寺院 前回の記事 ➔ 寺院西0150  金蔵寺 寺号標 金蔵寺への道


今日の俳句

    飛鮎の 底に雲行く 流れかな /鬼貫

 

 


戦後005  金蔵寺境内に 船越明戦死之地の石碑

2016年07月18日 06時47分30秒 | 戦後70年

 

 

陸軍少佐 船越明 戦士之地

飛行第56戦隊 飛行隊長

享年 26才 佐賀県出身

 

平成11年5月11日 建立

元飛行第56戦隊長  陸軍少佐

古川治良  82才  佐賀県出身

 

昭和20年5月11日 阪神大空襲の際

金蔵寺上空において三式戦闘機飛燕にて

B29編隊群に突入被弾墜落した


 

5月11日(金曜日)には日本の空襲では

新宮、神戸(川西航空機)、西宮、芦屋 が被害にあっている



 

神戸の大空襲は3回あり、1回目は3月17日(土)、

           2回目は5月11日(金)、

            3回目は6月5日(火)です。

2回目の大空襲となった5月11日(金)は昼間の爆撃だった。

東灘区青木の川西航空機甲南製作所を目標に、午前8時から2時間半、

約60機のB29が300発近い1トン爆弾を投下した。

川西航空機は海軍の軍用機を製造する工場だった

2万9千坪の敷地の約8割が破壊されるとともに、周辺の工場群も被害を受けた。

神戸商船大学や灘の区役所、警察署官舎も吹き飛ばされた。

死者は98人、重傷者は126人だった。


この日の空襲は、事前に日付、攻撃目標が分かっているという珍しいケースだった。

5月5日(土)に神戸近海に機雷を投下したB29が撃墜されたが、

その搭乗員の持ち物から、航空写真と一緒に空襲日(5月11日)、

目標(川西航空機)などが書かれたメモが押収されたからである。

目印は近くの稲荷神社の大鳥居と書かれていた。

 

 

 

 

 戦後 前回の記事 ➔  

    戦後004  辰巳公園 太平洋戦争中の空爆(空襲)を記録する碑 編集

 

今日の俳句

 鳴きやめて 飛ぶ時蝉の 見ゆるなり /子規

 

 

 


寺院西0150  金蔵寺 寺号標 金蔵寺への道

2016年07月17日 06時36分09秒 | 寺院

 寺号標

元愛宕大権現  右の階段からでも行けそうだが

自転車でここまで来たので 左へ進むことになりました。


 

 元愛宕大権現  金蔵寺  西岩倉山  と記されています

 

京都 山口久次郎 ・・

 

昭和10年(1935)正月建立

 

京都 下濱徳三郎

 

 右 金蔵寺   左 大原野森林公園

 

この滝は 名がついているのだろうか

これが 岩倉の滝 産の滝 かどうかはわからない


 

 東海自然歩道の案内板

 

金蔵寺

718年(養老2年)元正天皇の勅願で創建された天台宗の古刹であり、

現在の建物は桂昌院の再建であります。

山の斜面、石垣と石段の間に堂宇が建ち並んでおり、

高さ12mの「産の滝」「烏帽子岩」、などがあります。

また、眺めも美しいことでも有名です。

  

 寺院 前回の記事 ➔ 

   寺院西0149  勝持寺・花の寺  表参道 

   前回の記事 寺院右0001 までたどれるようにしました


今日の俳句

真向ふに 東山あり 鉾進む  /泊月

 


まち歩き西0134  大原野神社の一の鳥居跡

2016年07月16日 06時17分45秒 | まち歩き

 

 

 大原野神社 の 一の鳥居があった場所

昭和44年(1969)12月18日 早朝、積載高超過の大型トラックが

鳥居中貫に接触破損させた。

このまま放置すると柱の上に載せてあるだけの

5個の笠木が落下、大事故を起こす危険があるので

大原野神社表参道の石段下に再建した

 

原野神社の灯籠 

 

明治33年(1900)6月

5名の寄進者があるが

判読が難しい

 

道の反対側にも 灯籠があります 

 

これが 大原野神社の鳥居の跡

 

昭和45年10月


 

在りし日の 一の鳥居  周辺には家がない

 

関連記事 ➔  神社西0055  大原野神社 

 

まち歩き 前回の記事 ➔ まち歩き西0133  大原野の風景

                               0001まで さかのぼれるようにしました

 

今日の俳句

 谺して 山ほととぎす ほしいまま /久女 

 


愛宕灯籠044  大原野 南春日町

2016年07月15日 06時10分48秒 | まち歩き

 

 

愛宕権現


大正15年4月 

 

 

町内安全  と記されています

 

愛宕灯籠の検索

 

 

43   道標西0051  大原野・柳川  道標と愛宕灯籠と地蔵さん

42   愛宕灯籠042   西迎寺  門前 

41   愛宕灯籠041   沓掛 山陰街道沿い  

40      愛宕灯籠040   五条上桂前田町交差点を北へ

39    愛宕灯籠039    弥勒寺を西へ      

38    愛宕灯籠 38 垣根の中に埋もれて  道標・浄住寺地蔵院の向かい

37  愛宕灯籠  道標も兼ねています  さが  あたご

36  愛宕灯籠 36  三ノ宮神社前

35  愛宕灯籠  35   桂・廣見寺門前

34  愛宕灯籠34  愛宕山大権現  千束で  原谷を目指して2

33 愛宕灯籠33  葛野七条

32  愛宕燈籠  上桂

31 愛宕灯籠  妙心寺付近で

30 愛宕灯籠  左京区  一乗寺馬場町

29 愛宕灯籠29  西京極・松尾三ノ宮神社 参道

28 愛宕灯籠 桃山江戸町  

27  愛宕灯籠 若一神社

26  愛宕灯籠  妙心寺北門前にあり

25  愛宕灯籠  妙心寺北門を東

24  愛宕灯籠 鳥居本 愛宕一の鳥居で

23  大覚寺門前 平成愛宕灯籠

22  大覚寺門前 の愛宕灯籠・大正

21  大覚寺 門前 の愛宕灯籠・明治

20  大門橋 東 愛宕灯籠

19  山越えの愛宕灯籠

18  愛宕灯籠  西院坤町

17  愛宕灯篭  帷子ノ辻 南へ

16  愛宕灯篭  双ヶ岡

15  愛宕灯篭  花園駅 北へ

14  愛宕灯篭  妙心寺を西へ

13  半分埋没した 愛宕灯篭 それでも残っている 民家の前

12  愛宕灯篭  今も使われている

11  愛宕灯籠  大きい 立派  鹿王院を東へ

10  愛宕灯篭  嵯峨駅南へ 嵐山近く  民家敷地にぎりぎり設置

9  愛宕神社石碑  三条通りの南で見つけた

8  愛宕灯篭  1814年に作られたもの

7  愛宕灯篭  車折神社の南へ行った所にありました

6  愛宕灯篭  正定院の近くで

5  愛宕灯篭  斎宮神社内にありました

4   愛宕灯篭  車折神社内にも あった

3  

2  愛宕灯籠    梅津大神宮を追加

1  愛宕灯篭・大映通東詰


前回の 愛宕灯籠記事 ➔ 

  道標西0051  大原野・柳川  道標と愛宕灯籠と地蔵さん


神社西0060  森神社  大原野山麓にぽつんと存在

2016年07月15日 06時09分32秒 | 神社

 

大原野  の 山麓に  森がぽつんとありました

 

森神社です

大原野神社(延暦3年、784年)より古いと伝えられています

祭神は道祖神で、 後年 稲荷神を合祀されたといわれています

 

 

森大明神

 

 

 

昭和5年10月 だろうか 

 

天保10年(1839)

 

神宮式年遷宮

記念成御大典奉祝

伊勢碑  

 

本殿の祠 

 

神社 前回の記事  ➔ 

     神社西0059  大原野神社 社号標 ここにもあった

  今日の俳句   

             明方や 水も動かず 蓮匂ふ  /大魯


史跡西013  勝持寺子院跡の石塁と石垣

2016年07月14日 10時30分23秒 | 遺跡・遺物

 

 

勝持寺子院跡の石塁と石垣

勝持寺は、小塩山の東麓、標高130~170mに位置し、寺伝では役小角の開創といわれる山林寺院です。平安時代の仁寿年間(851~854)に仏陀上人が伽藍を復興したと伝えられています。室町時代には、足利尊氏の帰依などにより寺運は隆盛し、現在の勝持寺の周辺には多くの子院(本寺に付属する小寺院)が存在したといわれています。

 京都第2外環状道路の新設工事に先立って、平成22年(2010)から平成24年(2012)にかけて、勝持寺の旧境内にあった子院跡と推定される場所で発掘調査が実施されました。調査では、建物・井戸・石垣や石塁などが見つかり、当該地において鎌倉時代から室町時代の複数の子院跡の存在が確認されました。この奥に石塁の一部を移築して保存しております。 京都市

 

 

 

 

 

 

石塁

 

 

 

勝持寺子院跡の石塁

この石塁は、15世紀後半(室町時代)に勝持寺境内の子院の区画施設として作られた石積みの塀(石築地)です。発掘調査により発見されたのは、現在地から南へ約60mの地点です。東西方向の石塁は27m以上の長さで存在したことが確認され、そのうち最も特徴を表している8.5m分をこの場所に移築復元しました。高さは80㎝、基底部の幅も約80㎝です。本来の高さは、上部か崩れているために不明ですが、形状からみてそれほど高くはならないと思われます。使用されている石の大きさは20~30㎝のものが多く、内側には拳大の礫が詰められています。石材は、砂岩・チャート・脈石英など周辺で採取されたものです。このような石塁は、現在の寺院では見られませんが、14世紀初頭に成立した絵巻物『法然上人絵伝』や『春日権現験記』などに描かれた「石築地」と見られ、当時の寺社ではこのような区画施設が用いられたと考えられます。当時の寺院の様子や石積みの技術を知るうえで貴重なものです。

なお、石塁の西方で見つかった石垣は部分的ですが、道路の設計を変更することによって、現地に埋め戻され、保存されています。京都市

 

 

 

 

 

移築された 石垣

 

史跡・遺跡  前回の記事 ➔  史跡上012  名和長年 戦没地  


寺院西0149  勝持寺・花の寺  表参道

2016年07月14日 09時08分50秒 | 寺院

 

三  七  五  

これは 何の意味があるのでしょう 

 

仁王門の駒札

勝持寺(花の寺)

小塩山と号する天台宗の古刹である。

歌僧の西行がこの寺で出家したと伝えられ、西行法師が自ら植えたといわれる八重桜「西行桜」があることから、「花の寺」として親しまれるようになった。

寺伝によれば、白鳳8年(679)に役小角が天武天皇の勅により創建し、その後延暦10年(791)に、伝教大師(最澄)桓武天皇の勅により再建したと伝えられている。当初、大原寺と呼ばれていたが、仁寿年間(851~854)に、仏陀上人文徳天皇の帰依を得て伽藍を建立し、寺号を大原院勝持寺と改めたといわれている。

瑠璃光殿には、本尊の薬師如来坐像(重要文化財)のほか、弘安8年(1285)に、慶秀らが造立したとの銘がある金剛力士立像(重要文化財)など、貴重な文化財を蔵している。境内には、多くの桜が植えられ、

満開時には、寺が花の中に埋もれているかのように見える。

鐘楼の東の西行桜は、現在3代目である。京都市


右手が壊れてたのか ありません



400mほど 坂道を上ります

それなりに風情はあり

いい感じです


関連記事 ➔  寺院西0148  花の寺 寺号標  ここは花の寺の敷地内か

               寺院西0125  勝持寺・花の寺  天台宗  西行


寺院 前回の記事 ➔  寺院西0148  花の寺 寺号標  ここは花の寺の敷地内か

 

 

 

今日の俳句   夏草や 帯をしめつつ 女ゆく    /立子



道標西0052  大原野 南春日町で

2016年07月12日 18時12分08秒 | 道標

 

 

東  向日町  光明寺  長岡道

 

 

西   大原野神社   花の寺吉峰  道

 

これは何

向かって左の面

大正11年11月吉日

紀念区在郷軍人

北 京都 嵯峨道

 

道標 前回の記事 ➡ 

     道標西0051  大原野・柳川  道標と愛宕灯籠と地蔵さん