最近と言うわけでもなく、私は割とこういうことを考えて生きています。
「なぜ生きるのか?」
今現在は、高1の子どもがいるので、
とりあえずこの子が社会人になるまでは生きなきゃなあ。
みたいなことは考えています。
ただ、もし私が死んでも、本当に困る人はいるのか?
冷静に考えると、いない。
もし、死んだとしたら、「そのときは」家族や友人は悲しむとは思います。
でも、ずっと悲しむわけではない。
実際、私は家族を亡くしていますが、悲しんだのは、3か月ぐらいなものでした。
※闘病生活が10年以上と長く、覚悟していたせいもあるのかも
仕事は、もし私が死んでも、代わりに誰かがするだろうし、
パートナーは、もしかしたら、新しいパートナーを見つけるかもしれない。
わが子も、生活が不自由になると言う意味では悲しむと思いますが、
自立できていたり、自分を大事に思う人がいた場合は、
恐らく立ち直ることができるでしょうし、
「いなかった人」扱いになるのでは?
ずっと悲しみ続けると言うことはないと思っています。
実際、私も、この年になると、見送った人も片手では足りない。
その人たちみんな月日が経過すれば、「いなかった人」扱いになっている。
私の中では、ずっとずっと思っているのは、
「パートナーの実家の犬」です。
付き合ったきっかけも、結婚したきっかけも、「犬が可愛かったから」です。
独身時代、毎朝パートナーの実家に行き、朝の散歩をさせ、帰りも夜の散歩。
病院にも連れて行き、ヘルニアになれば、躊躇なく、あの当時、
30万円をポンと出す。
※多分総額は100万円単位ですが、全く後悔していません
25年前には、今のようなペットブームではなかったので、
病院側も、ヘルニアの手術の時には、
「新しい犬が買える価格ですけど、どうしますか?」
と聞かれたことを覚えています。
結構長生きの犬で、最後は介護も必要でしたが、最後までしました。
でも、ずっとなにも出来なくても、もっと生きてほしかったなあ…
もう亡くなって既に16年以上経過しています。
それでも、毎日毎日パートナーには、
「あの時、〇は〇〇していたよね」
「雨が降ると、散歩嫌がったよね」
「夏になると、ひんやりシートを買っても、見向きもしなかったよね」
と、話しています。
パートナーは、私の溺愛ぶりを知って結婚したので、
肯くぐらいで、特に反応はしません。
「多分話すなと言えば、鬱になると思うから、止めない」
と言っていました。
実際、犬が死んだとき、自殺するじゃないかと思い、
しょっちゅう会社から連絡してきました。
我が子が乳飲み子で、私が世話をしないと、死んでしまうような頃でした。
恐らく立ち直れたのは、我が子を一生懸命育てたからです。
我が子は、生まれた時から、存在を知り、毎日毎日母親は犬の話をする。
小学校の時には、連絡帳に、
『お母さんは、10年以上前に亡くなった犬の話を毎日します』
と、担任に書いていました。
でも、我が子のことが疎かではなく、もちろんわが子を愛し、育てています。
ただ、パートナーは、ここまで私のことを誰かに話さないと思いますし、
私が犬のことを思うぐらい、私を思ってくれる人は今後も現れないでしょう。
正に唯一無二の存在なのです。
この年になると、老後のことを考えたりもしますが、
一番は、「我が子には迷惑をかけたくない」と言うことです。
それもあり、子どもの手が離れたら、
「いないほうが子どもは楽じゃないだろうか」
と考えてしまうわけです。
自分でも、どこまで本気なのかはわかっていない部分はありますが、
仕事でパワハラにあい、家事と子どもの勉強に追われ、
プライベートの時間なんてそんなにない。
今の状況が幸せかと言われると、
すぐに頷けない部分はあります。
ただ、我が子に迷惑はかけたくない。
だから、自殺まではしようとは思っていません。
だけど、常に「空虚感」が私の中から離れていません。
「なぜ生きるのか?」
今現在は、高1の子どもがいるので、
とりあえずこの子が社会人になるまでは生きなきゃなあ。
みたいなことは考えています。
ただ、もし私が死んでも、本当に困る人はいるのか?
冷静に考えると、いない。
もし、死んだとしたら、「そのときは」家族や友人は悲しむとは思います。
でも、ずっと悲しむわけではない。
実際、私は家族を亡くしていますが、悲しんだのは、3か月ぐらいなものでした。
※闘病生活が10年以上と長く、覚悟していたせいもあるのかも
仕事は、もし私が死んでも、代わりに誰かがするだろうし、
パートナーは、もしかしたら、新しいパートナーを見つけるかもしれない。
わが子も、生活が不自由になると言う意味では悲しむと思いますが、
自立できていたり、自分を大事に思う人がいた場合は、
恐らく立ち直ることができるでしょうし、
「いなかった人」扱いになるのでは?
ずっと悲しみ続けると言うことはないと思っています。
実際、私も、この年になると、見送った人も片手では足りない。
その人たちみんな月日が経過すれば、「いなかった人」扱いになっている。
私の中では、ずっとずっと思っているのは、
「パートナーの実家の犬」です。
付き合ったきっかけも、結婚したきっかけも、「犬が可愛かったから」です。
独身時代、毎朝パートナーの実家に行き、朝の散歩をさせ、帰りも夜の散歩。
病院にも連れて行き、ヘルニアになれば、躊躇なく、あの当時、
30万円をポンと出す。
※多分総額は100万円単位ですが、全く後悔していません
25年前には、今のようなペットブームではなかったので、
病院側も、ヘルニアの手術の時には、
「新しい犬が買える価格ですけど、どうしますか?」
と聞かれたことを覚えています。
結構長生きの犬で、最後は介護も必要でしたが、最後までしました。
でも、ずっとなにも出来なくても、もっと生きてほしかったなあ…
もう亡くなって既に16年以上経過しています。
それでも、毎日毎日パートナーには、
「あの時、〇は〇〇していたよね」
「雨が降ると、散歩嫌がったよね」
「夏になると、ひんやりシートを買っても、見向きもしなかったよね」
と、話しています。
パートナーは、私の溺愛ぶりを知って結婚したので、
肯くぐらいで、特に反応はしません。
「多分話すなと言えば、鬱になると思うから、止めない」
と言っていました。
実際、犬が死んだとき、自殺するじゃないかと思い、
しょっちゅう会社から連絡してきました。
我が子が乳飲み子で、私が世話をしないと、死んでしまうような頃でした。
恐らく立ち直れたのは、我が子を一生懸命育てたからです。
我が子は、生まれた時から、存在を知り、毎日毎日母親は犬の話をする。
小学校の時には、連絡帳に、
『お母さんは、10年以上前に亡くなった犬の話を毎日します』
と、担任に書いていました。
でも、我が子のことが疎かではなく、もちろんわが子を愛し、育てています。
ただ、パートナーは、ここまで私のことを誰かに話さないと思いますし、
私が犬のことを思うぐらい、私を思ってくれる人は今後も現れないでしょう。
正に唯一無二の存在なのです。
この年になると、老後のことを考えたりもしますが、
一番は、「我が子には迷惑をかけたくない」と言うことです。
それもあり、子どもの手が離れたら、
「いないほうが子どもは楽じゃないだろうか」
と考えてしまうわけです。
自分でも、どこまで本気なのかはわかっていない部分はありますが、
仕事でパワハラにあい、家事と子どもの勉強に追われ、
プライベートの時間なんてそんなにない。
今の状況が幸せかと言われると、
すぐに頷けない部分はあります。
ただ、我が子に迷惑はかけたくない。
だから、自殺まではしようとは思っていません。
だけど、常に「空虚感」が私の中から離れていません。
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