岩波書店から「語感の辞典」という本が出た。
言葉の使い方は結構難しい。同じような言葉でも感じが異なる。同じ文章で、特に短いものでは、同じ言葉を繰り返したくはない。
それぞれの言葉の持つニュアンスの違い、例えば「聴く」と「聞く」の違い、「見る」と「視る」の違いなどである。これらは語感の違いなのか言葉そのものの意味の違いなのかは分からないが微妙に違う。
文章を書いていて間違えてしまったり、分からんくなってしまう。
忘年会の始まる前の時間潰しで入った本屋の店頭でこの辞典を目にした。
家には子供たちが高校の時に使ったものしかない。
手元に置けば便利だとも思ったが、今使っているのでも十分ではないか、荷物にもなるとも思い買わずに店を出た。後日、たぶん買うことになるだろう。
辞典では古い思い出がある。
小学校6年の時、漢和辞典を買った。
三省堂の「新撰漢和辞典」である。本文が1044頁、索引等の付録が110頁の小学生が買うには相当本格的なものである。
初版が昭和12年、改訂版が出たのが昭和24年というもので、私が買ったものは昭和28年改訂版の第8版であり、多分、小学校6年の時に買ったのだから発売間もないもであったのだろう。
今でも、明治、大正、昭和初期に書かれた本を読むときには大いに役立っている。現役の辞書である。
定価は700円、今の金額でいくらかは分からないが、昭和20年代としては、また、小学6年生としては相当高額であったと思われる。
この辞典を買ったのは、私が小学校6年の時、今放映されているテレビドラマ「坂の上の雲」で、正岡子規が患ている病と同じ脊椎カリエスで学校を休み自宅療養している時であった。
同級生は、小学校生活で最大の楽しみであった日光への修学旅行に行っていた。
私は、修学旅行の代わりの思い出と記念にとこの辞典を買ったのである。
修学旅行と言っても今の子供たちとは、その受ける感じは全く違う。現在は旅行など日常茶飯事だが、終戦間もないころでは、ホテルは言うに及ばず、旅館などに泊まった経験のある子供たちは皆無に等しかった。正に一生の思い出である。
それに匹敵する何かをしなければと思ったのであろう。
私の場合幸いに発見が早かった。
当時、薬物等による治療法はなく、石膏で作られたチョッキのように上半身全体を覆うギブスを着用し脊椎を固定するだけであった。
幸い、自覚症状は全くなく通常の生活ができた。
ただ、激しい運動はできなかった。
娯楽もなく、暇を持て余していた。
当時、今の柴崎学習館の所に都立の図書館があった。
知り合いの大人の人と行ったのがきかっけで、よく行った。テレビのない時代だったので、絵や写真の載った本で珍しい動植物や世界の風俗など興味を持って読んだ。
従って、読書傾向は図鑑から捕り物帳、シートン動物記、ファーブルの昆虫記、日本文学名など乱読である。
手あたりしだい読んだ。
休学したのは小学校の6年の初めから中学1年で2年間であった。
学年は中学1年でも、実力は小学校5年生のしかないわけであるのでとても無理な本もあった。
ショーロホフの「静かなるドン」などは名前が混乱して分からなくなってしまったのを覚えている。確か、全巻読破はならなかった思う。
その傾向は復学してからも続き、中学の教師を親に持つ友達に森鴎外を薦めたところ、中学生の読む本ではないと指摘されたのも思い出である。
ほぼ2年間、親を含め、誰からも勉強を強要されず、自由奔放に本を読めたことは我が人生において極めて貴重なものとなった。
「新撰漢和辞典」買った時は、全く意識しなかったが、本を読む中で大変に役に立ったのも事実である。
余談だが、立川市では図書館の中央館が建設されたのは他市に比べ極めて遅い。
一般には、中央館が最初に出来、その後地区館が建設されるという順であるが、立川は逆で、最初に地区館が整備され、最後に中央館が、北口の再開発に伴って実現した。その建設の経緯には様々あるが、駅直近に出来たことは、立川市の多いなr財産となったことは間違いない。
その理由の一つが都立の図書館があったということである。
私にとって、図書館・中央館の建設は議員生活最初の仕事であり、図書館行政が一つのライクワークとなった。
これも子供時代の体験に起因するものかもしれない。