小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

四月九日 

2016-08-17 | 嘉永四年 辛亥日記
四月九日  
快晴。
今日は和歌山橋ができたので餅投げなどあるので人が多く出る。
昨日は梶取(地名)にお堂が建てられた。地つき礼とやらで鐘の音も聞こえて賑わう。
芸妓など四組ほど出たらしい。
2時過ぎから主人は出かけた。
牛町の山中へ行きの後、田中に行く。岩一郎も後から行った。(田中は嫁取りの日)
客は6人。嶋本種楠、瀬古楠左衛門、同妻、隠居、子。日田の姉は勝手を手伝い。つね代、夏下某など。あまりに寂しい。
隣家の三野あたりの一人を呼んで遊んだそうだ。
衣装は立派だったという。
小梅は風邪の引き返しで頭痛で臥している。
朝までは(田中の祝いに)行くつもりで髪をとかしかけていたのだが眩暈がしたので寝た。これは誰にでも頼めることではないので残念ながら行けなかった。
屋根屋の善兵が来た。
瓦代・功料は六匁。駄賃など合わせて11匁入用。土代外に60文。これは野口で取る。
今日は和歌餅投げ。この度、橋が出来たご祝儀の由。
梅本は朝の6時から行った。
餅投げの後でご祈祷やらがあるらしい。
また梶取へも上がったようだ。
賑わしく一位様(10代藩主徳川治宝公)へお悦び、時節も良くあのように賑わい候と申し上げたそうだ。
この間に大工町の寺子屋の師匠が子供等に襦袢の肩を脱がせて歩いたらしい。
一体において師匠はこのようなことを叱るべきなのに当節はこのような有様で嘆かわしい。
また、この頃に至っては乞食がたくさんになった。いずれもいずれも未だ破れる前の衣を着て慣れない様子で歩くのを見るのは忍びず、なんと言えばいいものか。
先だっての米高の時とは一風違う。米は随分ある。
上は良く、中から下は皆倒れるのだ。


コメント
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