小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

三日目3 76番金倉寺、74番甲山寺、73番出釈迦寺、72番曼荼羅寺

2016-11-02 | 四国遍路

76番 鷄足山 金倉寺
 ご詠歌 まことにも神仏僧をひらくれば 真言加持の不思議なりけり
天台寺開宗の祖である智証大師が誕生したお寺。智証大師とは弘法大師の従兄で大師が産まれた年に智証の祖父の和気道善で当時は「道善寺」という名称だった。その後、唐で学んで帰国した智証が伽藍を作り薬師如来を彫って納めた。後に醍醐天皇によって「金倉寺」と改名された。この地は善通寺から北へ二キロほどの平地で近くに金倉川が流れている。金倉川は大師が修築した満濃池から琴平町を抜け瀬戸内海へと流れ込んでいく。そしてこのあたりは金倉郷と呼ばれていたのだ。
明治時代には乃木希典が第11師団長として赴任した際にこの寺に住んでいた話も有名。





本堂前には大きな数珠がかけられていてたぐるように一周させつ。ほかのお寺での大きな鈴を振るわせるのと同じ意味があるのだろう。敷地が広くお砂場道場もあった。
僧侶と有志が四国巡礼を行い、すべての霊場の砂を頂いてきます。 それを9月の法要にあわせ、お砂場道場の各本尊の画軸の下に敷くつめます。 参詣者は、その道場内の八十八ヶ所を巡ることによって、四国八十八ヶ所を巡ったこととなり、同じ功徳が頂けるのです。

 

が、先を急いだ。近くに四つの札所がある。


74番 医王山 甲山寺
 ご詠歌 十二神味方に持てる戦には 己と心兜山かな
讃岐有数の穀倉地帯の丸亀平野にポツンと標高87メートルの甲山がある。
寺院を建てる場所を探して弘法大師がこの地を歩いていると甲山山麓の岩窟の陰から老聖者が現れてじょじょが聖地だと告げた。そこで大師は毘沙門天像を岩で彫って岩窟に安置した。
弘法大師は農業発展のために川の少ない香川の各地に満濃池(灌漑用の溜池)をたくさん作った。ここでも工事を始めるに当たって成功を祈って薬師如来像を安置した。すると大師を慕う人たちが三万人も集まってわずか三ヶ月で完成したという。この功績によって朝廷から賜った報奨金で大師が建立したのが甲山寺である。この付近は幼い大師がよく遊んだ場所だそうだ。








車に乗って一息つく間もないままに次の札所に着いた。歩いても10分ほどだという。


73番 我拝師山 出釈迦寺
 ご詠歌 迷いぬる六道衆生救わんと 尊き山に出る釈迦寺

寺は弘法大師が仏道に入るきっかけとなった伝説の場所に建っている。七歳の真魚と呼ばれていた大師が仏門に入って多くの人を救いたいと思った。「わが願いが叶うなら初夏如来よ、姿を現し給え。もし叶わぬなら一命を捨ててこの身を諸仏に捧げる」と我拝師山の断崖絶壁から谷底へ身を投じた。すると釈迦如来と天女が現れて大師を抱きとめ「一生生仏」と告げた。願いが叶った大師は後に釈迦如来を彫って本尊として建立した寺に納めた。それが出釈迦寺と命名。
大師が身を投げた断崖は捨身ケ獄と呼ばれ今は奥の院になっている。







捨身ケ獄は遠くに望まれる。境内から40分ほど登った所にあり更に進むと大師が飛び降りたとされる絶壁があるという。そこには石の護摩壇が築かれて稚児大師像が安置されている。
勿論、そこまで登る元気がないのでそんな人たちの為の捨身ケ獄遙拝所からお参りした。
寺の直ぐ傍に大きな民宿があったが数年前に廃業したようで当時の賑わいが思われて寂しい気分になった。もし、営業していたらここに泊まって奥の院まで行ったかもしれない。行った人のブログに寄れば何とも素晴らしい眺望だったらしいし、大きな達成感が得られたかもしれない。車でも車道整備志納金600円を払えば奥の院まで行けるそうだけど、さすがにちょっと罰当たり名気がして遙拝所からのお参り。次に行った時は…多分、ないなぁ。



もう、ここは善通寺市。次の札所までは徒歩5分。76番札所から75、74、73、72の5札所は全部善通寺市にある。75番の善通寺は弘法大師が生まれた所だから宜なるかなだ。

72番 我拝師山 曼荼羅寺
 ご詠歌 わずかにも曼荼羅拝む人はただ 再び三度帰らざましを
73番札所の出釈迦寺と同じ「我拝師山」という山号を持つ。
弘法大師の祖先と言われている領主の佐伯氏の氏寺として創建され「世坂寺」と称していた。創建は推古4年ともっとも古い。



         

    
それから210年後に大師が母の菩提を弔うために訪れて伽藍を建立した。この時、本尊とともに金剛界の曼荼羅(仏の世界を視覚的に表現したもの)を奉納した。そこでこの寺が曼荼羅寺という名前になったといわれている。また、同時に大師が植えた松の木は「不老の松」と言われて境内にあったが2002年に松食い虫のために枯れてしまった。その跡地には笠松大師が立っている。これは枯死した不老の松の幹で彫られたものだ。
西行もやってきて近くに庵を結んで2年ほど滞在していたという。







笠はありその身はいかになりぬらん あわれはかなきあめが下かな
松の木にかけられた笠を見て西行が詠った歌だが、その松の木がもうない。
そこに時の流れを感じ、漂白の歌人西行の芯の寂しさに共感させられたお寺だった。

タクシーは今日の最後の札所の善通寺に向かった。


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