79番 金華山 天皇寺
ご詠歌 十楽の浮世の中をたずねべし 天皇さえもさすらいぞある
こちらも元は崇徳上皇を悼みお慰めする神社だった。坂出市の金山山麓にある。
行基によってひらかれが、後年この地を訪れた弘法大師が荒廃してたのを再興したと伝わる。その時に金山権現から宝珠を授かったので「摩尼珠院」とした。
300年後。崇徳上皇が流されてきてこの寺の末寺の長命寺を仮宮とした。都に帰りたいと何度も宮廷に訴えたが叶えられないまま崩御した。都に不穏なことがしばしば起こるのは上皇の怨念のせいではないか。鎮魂の願いを込めて二条天皇が崇徳天皇社を建立。寺は神宮司ととなり天皇寺と呼ばれるようになった。
明治の神仏分離で摩尼珠院は廃寺となり天皇社は白峰宮となる。筆頭末寺の高照院が天皇寺と名前を改めた。現在は金華山高照院天王寺である。
ガイドブックでは「高照院」と「天皇寺」と二つの表記があるのでちょっと混乱する。神仏分離国策はいきすぎた罪なものだと遍路をしていると感じられる。
この札所には山門がなくて大きな朱色の鳥居がある。境内を進んでいくと奥に白峰宮がある。お寺と神社が同じ敷地内にあるにしてはあまり広くない。やはり、崇徳上皇は白峯寺に眠っておられるのだろうと思う。
啼けばきくきけば都の恋しさに この里過ぎよ山ほととぎす
上皇のこの歌を聞いたほととぎすが声を出さなくなったという。
天皇寺を打ち終わると11時半になっていた。早めのお昼を食べようとTさんのお薦めの讃岐饂飩店へ向かった。が、定休日。そこで次に行ったのがセルフ饂飩の店。
まるで社員食堂のようなシンプルで広い店だった。流れ作業みたい。お盆を持ってうどん玉の大きさに従って丼にうどんが入れられ、並べられたさまざまなトッピングをうどんの上に置きだし汁を入れて貰い、最後がそれを見てお会計という仕組みだ。
無愛想なテーブルの上には刻み葱や天かすが置かれている。素うどんだけでも食べられそう。12時近くになってどんどんとお客がやってきて満員近くなる。
こしがあっておいしい。ゆうべのうどんとは度か違う。店によって特色があるのだろう。
30分足らずで次のお寺に廻るために車に乗った。
78番 仏光山 郷照寺
ご詠歌 踊り跳ね念仏唄う道場寺 拍子を揃えて鐘を打つなり
宇多津の町並みも奥まった高台にある。昔から「厄除けうたづ大師」として厄除祈願で多くの参詣者が訪れるお寺。
行基が「道場寺」の名で開いた。後に弘法大師がやってきて自らの像を彫って厄除けの祈願をした。
京都の醍醐寺を開山した理源大師が修行したり恵心僧都が釈迦如来の絵を奉納し釈迦堂を建てたり、一遍僧正が踊り念仏の道場を開いたなどいろいろと由緒のある寺だ。
兵火で消失した伽藍を江戸時代の初代の松平藩主が再興した。その折に真言宗とともに時宗も取り入れ郷照寺と改めた。
高台にあるので宇多津の町と海が一望できる。瀬戸大橋も見えた。駐車場や納経所が新しい。庭のきれいなお寺。空気が澄んでいて心地よかった。
本堂も大師堂も天井絵―さまざまな草花の浮彫画―が素晴らしい。
また「万躰観音洞」という3万体もの小さな観音像が祀られた地下回廊もあった。
77番 桑多山 道隆寺(どうりゅうじ)
ご詠歌 ねがいをば仏道隆に入りはてて 菩提の月を見まくほしさに
寺を開いたのはこの地の領主だった和気道隆公。大きな桑の木があり夜になると光るので怪しんだ道隆公が矢を放つとそれに当たった乳母が死んでしまった。嘆き悲しんだ道隆がその桑の木で薬師如来を彫って、建てた草庵に祀ったのが寺の始まりだという。その後、息子の朝祐が伽藍を建立して父の名前から「道隆寺」とした。弘法大師は朝祐の願いによって薬師如来像を彫り、その胎内に道隆が作った像を納めた。
境内を囲むように255体の観音像が建ち並んでいる。また、境内左奥にある潜徳院殿堂は「目なおし薬師」としても有名。眼病平癒祈願に多くの人が「目」と書いた札を納めに来る。
多度津町に位置している。多度津町は昔からの交通の要所で今もどんな列車も停車する。近くに金比羅宮もあって栄えてきた町。
門前におおきな土産店がある。地下水によって浮いて動いている球形の珠があって宇宙の中の地球を思わされた。この店の特産はメグスリの木を原料とした「眼蘇茶」で「めいきるちゃ」と読む。眼病に関して総体的に効果があるそうだ。荷物になるのでこの旅では各寺のオリジナルな手ぬぐい以外は一切買わないことにしているのでこのお茶もパス。タクシーに荷物を置いて手ぶらでのお詣りには目が欲しがるのを拒絶するのが肝要だ。
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