小梅日記

主として幕末紀州藩の学問所塾頭の妻、川合小梅が明治十八年まで綴った日記を紐解く
できれば旅日記も。

七月二十五日

2018-01-21 | 嘉永四年 辛亥日記
七月二十五日 

四時前から浅之助がきて学校の授読について話し合った後に一盃のんで帰った。
主人は行水もしないで山本彦十郎殿へ行く。
また、田中九右衛門殿へ行く。
山口兵馬に少し頼み事があって相談の上直ちに田中九右衛門殿へ行った。
山中殿にも行き、築州殿にお目にかかり学校のことなど願い置いたそうだ。
山口へ菓子を持参。これは田中から出た話。急なことなので用意する間もなくて代の金二歩は帰りに田中へ寄ることにした。
かつおを1匹さげて帰り、みなで一盃やった。
下女のとよとその妹のこいくにも食べさす。いく泊まった。へんてこ者だ。


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七月二十四日

2018-01-19 | 嘉永四年 辛亥日記
七月二十四日 

曇っているせいか涼しい。
主人は昨夜山中殿からの帰途、岩橋に寄り藤助どのを連れ帰って来たので一盃だす。
とよとこいくらにも吞ます。
鯖を5匹求め酒一升取りにやる。
今日は夕方に砂を取りに行った。まず、房をやった。
荒い砂で蘭を植えた。
※天赦日※だったので昨日言っていたように遠藤国助が近藤の子息に本読みさせてくれと連れてきた。
鳴神の僧も今日からくる。札五枚。これは中元の祝儀。
黒江から飛脚が喉別人できた。
一人はこりえから弁当箱つきで持たせて寄越した。
もう一人はとよの身内からでなにとぞ置いてくれとのこと。

※ 天赦日 ※
暦の上で最上の吉日とされていて年に六回ほどしかない貴重な日。
結婚、改名、新築、開店などスタートに適した日。
因みに本年平成三十年度は
二月一日、十五日。四月十六日。七月一日。九月十三日。十一月二十八日。




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西国第九番 興福寺南円堂

2018-01-07 | 西国三十三所

一番から三番までをお詣りした後の一年ぶりの西国詣りです。
昨年は四月に引越という個人的な一大イベントと先年の四国遍路を終えた疲れと達成感と虚脱感から全く気力がなくて巣作りで引きこもっていました。が、今年は地の利もあって日帰り可能なお寺が多いので頑張ってみたいと、新年に当たって願いを新たにしています。
気ままなスケジュールとなるでしょうから順不同です。
そこで今回は初詣を兼ねて奈良へ行ってきました。
息子と娘がそれぞれ子供を連れてやってきましたので鹿さんと遊ばせようという魂胆もありました。こんな気持ちで罰が当たらないといいのですが。

奈良にある三十三札所は南法華寺(壺阪寺)に岡寺、長谷寺に南円堂の四札所。全部何度も行ったお寺なのにその頃は納経という概念が全くなくてもったいないことをしました。
お線香とローソクと写経と納め札に数珠持参でまいりました。納経帳には各種の経文が書かれています。

西国九番 興福寺南円堂 法相宗大本山
ご詠歌 はるのひは南円堂に輝きて 三笠の山に晴るるうすぐも

ご本尊 観世音菩薩(国宝)  開基 藤原内麻呂公(冬嗣)
かって興福寺は春日大社と一体で、南円堂のご本尊は春日社一宮の本仏血として崇拝されていたそうです。
創建時には藤原冬嗣が白銀で作った観音像1000体を地中に埋めて地鎮したそうです。
平安時代の藤原氏の権力のほどが窺えます。


飛鳥時代から平安時代にかけて権勢をふるった藤原氏の氏寺です。
鎌足の妻とされている鏡女王(額田王の姉)が鎌足の病気平癒を願って建立した山階寺が平城遷都の折に現在の地に移されて興福寺と改名されて現在に至ります。
この朱塗りの南円堂は冬嗣が父の鎌足の追善供養のために建てたもので、特徴的なのが屋根の形です。一重本瓦葺きでてっぺんには宝珠を施した八画円堂です。日本最大級とあってさすがの存在感があり、観音様の功徳を慕って昔から今も多くの参拝客で賑わっています。
五重塔や東金堂とも国宝になっています。



興福寺に来ると必ずお顔を見る阿修羅像ですが国宝館は工事中だったので断念しました。

春日大社までは少し遠いので東大寺に向かいました。
シカたちが姿を現しお正月ということで大勢の参拝者や旅行者で賑やかなこと。
以前に来た時は無料だった東大寺も迂回して拝観料を払うシステムになっていてちょっとショックでした。














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七月二十三日

2018-01-01 | 嘉永四年 辛亥日記

 

早朝に東九右衛門からご新造病死を知らせる手紙が来る。
三月の節句に出産後から具合が悪く昨日亡くなった。子もその前日に死んだ。
この節は多くの人が死すること夥しい。
正住寺の寺中の僧が申すには十五日には自分だけでも十三件の葬送を行った。
ほかにも多くの葬礼があり待っているのもあるとのこと。
十九日から二十二日まで誠に耐えがたいほどの暑さなり。
これではとても凌ぎがたいというものの夜前辺りから涼しくなる。
諸物豊作で、麦も昨年は寒中に種まきしてどうなるかと心配されたが、丈は一尺ばかりだが大いに出来が良いという。
当時、米は百文に八合売りだった。
これは六月二十九日認めの状だが、水は何度か出たが直ぐに引いたという。


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七月二十二日

2018-01-01 | 嘉永四年 辛亥日記
     

少々曇る。
主人は2時過ぎから三浦殿へ行く。
よよ、お目見えの口ききだと出て行く。
房吉に羊羹を買いにやる。
これは遠藤一郎に盆前に借金の世話になったお礼に行く筈だったのだが川に行くについて取りやめになる。七時半頃に帰る。
鈴木芳太郎を連れて帰ったのでそうめんを出す。
梅本からカツオ1本が届き皆で食べた。
謡をうたう。

とよは西長町田中に住んでいて遅くに帰った。
房吉も泊まらせてほしいと言ったが、足が漆にかぶれたと一面にでもの状態なので湯ノ花をやってそれが乾いたら泊まらせると言い聞かした。
彼の継母が昼に礼を言いに来た。
夕方には兄がきて先日から大阪へ行った母が帰ってこないので見に行くのでそう心得るようにとのこと。
今晩は涼しい。


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