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Mind Feeling0420-3 長い4月20日終了

2009年04月20日 22時02分42秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
土日の昼夜逆転で始まるのが、月曜日というダメダメな私。深夜の26時過ぎまで、カタカタ文章書いたあと短き眠りの後、4月20日スタートという過酷さというか熾烈さというか。
4月も20日。ようやく20日。桜の華やぎにより、多少、いつもより速かった?という感はありつつも、5月も連休過ぎれば、ブルーデーズが始まり、何なんでしょうねぇ…とため息混じりに、語ってしまうがヲチは何時もの如く無い。
明日、4月21日は、gooブログはメンテナンスの為、数時間閲覧も編集も出来なくそうだが、果たして…。
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Mind Feeling0420-2 幸運の4つ葉発見!!

2009年04月20日 19時43分23秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
偶然見つけた、4つ葉↓。

↑突然変異なんだろうな、と思いつつも、やはり「幸福の香」がする。777H列車の効果があったのだろうか?見つけても結局、1日さして良い事は無かったりする。ついでに押葉として取っておこうしたが、保存状態が悪かった所為で、しわしわになってしまったのが残念である。何とも私らしいオチである。
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トレイントーク0420-1 608 編成777H 特急押上行き!

2009年04月20日 07時37分07秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
608-8側↓


608-1側↓


以上、今日4月20日の幸運列車777Hのコーナーでした。
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Mind Feeling0420-1 明けて4月20日、月曜日の涼風鈴子ショー

2009年04月20日 07時10分22秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
「は~い、おはよー、エウ゛リバデー、アー~イアム、イ~ンチーキデージェー、リ~ンコスズカ~ゼー、ナ~ウユーアレスニングトゥー、モーニングオ~ン。と一体朝から何なんでしょうね、このカタカナ英語は。ねぇ、アドバイザーイドワイザーさん?」
アドバイザーイドワイザー「…まぁいつもの‘‘ノリ,,なんでお気になさらず。アハハハ~」
涼風「訳が解りませんけれど、モーニングオン月曜日、担当は涼風鈴子でありますが、皆様、ブルーマンデーですか?」
(力無い‘‘イェ~イ,,という効果音が入る)
涼風「モーニングオン聴きたくないですかー?」
(力無い‘‘イェ~ス,,という効果音が入る)
涼風「はい、どうもありがとうございました~。まぁ~朝からね、こんな風に力無く、しょーがねーから晴れてやってるよ的な青空が何とも皮肉めいてますが、まったく何で月曜日なんか来るんでしょーねえ、宴の後的に冗談ではありませんが、それでもこの涼風鈴子ショーこと、モーニングオンは執り行われていますが、何とかエチュコショーとは格が2億5千万段違いまして、って、何が何とかエチュコショーよ、どーせあれでしょ…<この間は放送不能。爽やかな音楽が掻き消す>…まったく、猿の朝知恵的な台本ねぇアホバイザーイボワイザーさん」
「(ヘリュウムガスを吸った声)やかましいんだよっ!朝から何、暴言吐いてんだよこのインチキDJはっ!!これでも喰らえーーっっ!!」
(鈍い音と共に、たらいが涼風の頭上に落ちる)
涼風「いてっ、何なんなのよ、このバライティー番組みたいな仕掛けはっ!」
「(ヘリュウムガスを吸った声)ハッハッハー、まいったか、インチキDJよ」
涼風「レベル低ー。<ネタをばらしたくないので、あえて爽やかな音楽で涼風の声を掻き消す>みたいじゃないのよ、アフォだねぇ。全く。何を考えてることやらですが」
木田麻衣子「すっかり、朝から“Morning on”の雰囲気を壊してますね。おはようございます、木田麻衣子です。」
涼風「ここで木田さんが登場としたということは?」
(‘‘今日の動きに映るんですね,,という音声流れるが)
涼風「正確には、今日と今週の動きですがね」
「(ヘリュウムガスを吸った声)エラソーなんだよ、このインチキDJがっ!」
(ハリセンが‘‘パン,,という音と共に、涼風に直撃する)
涼風「いたっ!何すんのよ、さっきからこのガキャー(ドスバスという効果音が流れる)」木田「と収拾がつかなくなったところで、今日と今週の動きに入ります。」
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急行特急TH発日曜深夜夜話「ボールの跡」

2009年04月20日 02時01分23秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
誰かが壁当てして作った、ボールのあて跡である。こんなもの掲載して何始めようっての?という声を聞きつつ書くだが、ボール遊び、こんな壁当てでさえも私は好きになれないし、やりたいとも思わないヘタレな奴。
ボール遊びは、遊びの基本、という感じが遠くて近い昔からずっとあるが、てんで仲良くなれないし、なりたいいとも思わないけれど、「うまくやっている姿」を見ると「羨ましく」思える。それだけである。
何でボール遊びなんて楽しいんだろう、壁当てなんてして楽しい?、と、かつての私は、よく思った。折しも、スポーツといえば「野球」か「サッカー」かと言われた時代に育ち、「その何れもやっていない奴は根暗だ」みたいな話まで言われた始末である。
今もメジャーなスポーツとして息づいており、昨今は、イチローが何かと話題な野球である。
こんな壁当ての跡みて、野球の事は思いもつなかったが、ただ何となく、このボールの跡をみて、今も誰かがやるんだ、という認識をし、適当に想いを形にしてみた。
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急行特急TH発日曜深夜夜話“forget-me-not ”

2009年04月20日 01時44分42秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
この画像の花、“forget-me-not”、「ワスレナグサ」である。純真・真実の愛の象徴という意味があるらしい。
“forget-me-not”と言う言葉を聞いたのは、昨年2008年の5月頃にあった篠原美也子のライウ゛だった。“forget-me-not”というタイトルの曲を彼女が歌って初めて知る事になったわけだが、それは、尾崎豊氏のカバー曲である事がその時明かにされた。曲の中身がどんなだったかは忘れてしまったけれど…。
その後、この言葉の意味を辞書で調べた所、冒頭に話した「ワスレナグサ」である事が解った。そしてもう昨日4月19日になるが、花を売るある店で見つけた「ワスレナグサ」。どんな花なのかまでは調べていなかったので、言葉だけが頭の中で浮いていた。それを見て、1回、名前は解らないが何となく心惹かれたので、撮影してブログに載せた気がするなと、名札を立たされたこの花を見て思い出したが、いつ掲載したかは解らない。
青という色は、「記憶に作用」するらしく、英単語を覚えるのには「青いペン」で書くと良いという話を聞いて、試してみたが私はてんでダメで効果は無かったけれど、ワスレナグサもまた「青い」色をした小さな花であり、「記憶」に作用するのだろうか?と不意に思った。人々に、「私を忘れないで」と地味に静かに強く問い掛けているのだろうか?
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急行特急TH発日曜深夜夜話「突き抜けられたら」

2009年04月20日 01時21分57秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
「平凡な日々に、僕らは花火を仕掛けたんだ」と谷口宗一の『太陽の君・三日月の僕』的な感じに、この貫通路から抜け出し、ありふれた日常を捨て、新しい世界へ行きたいなぁ…と思うが、現実は、そんな風には行かず「飛び出したくて、いつも。突き抜けたくて、いつも。だけどほら結局あたしはあたし…」と篠原美也子の『一瞬でいい』が如く、うまくはいかないもの。自分という鎧甲は、思いの外、硬く重くで、脱ぐ途中で、挫折するのがオチである。
そんな現実の話ではつまらないので、「夢物語」的に、語ってしまうのだが、これと同じ写真を以前も実は掲載している。何時だったか解らないが、『物語が始まりそうな場所』という様なタイトルで、書いた記憶がある。多分、昨年2008年だったと思う。
物語がここ、この画像から始まるとすれば何だろうか?『瞳の向こうの世界』の様に、「心底求める非日常の理想の世界」も良い。抜ければ、そこから始まる新しい日々。或は、貫通路の先に広がる壮大な景色---この場所は、建物の屋上へ繋がり、撮影時分は夜なので、「星空」だろうか?流れ星が降り落ちる幻想的なシーンをひとりで見るのも良し誰かと共に見るのもよし、という所。誰かと見るなら、「お約束」的に「愛の告白」というのも有りだろう。
何れも有り得はしない。けれど、有り得て欲しい。貫通路の先、扉の向こうへ突き抜けて、全く見たことの無い、想い描いた理想的な世界へ行ってみたいものである。
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急行特急TH発日曜深夜夜話「葉桜」

2009年04月20日 00時42分35秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
「葉陰に残った花びら1つ。もう誰も‘‘桜,,と呼ぶ人はなくて。いずれすべては、散り行くさだめなら、もう振り返らないで。そこにはもう誰もいないから。過ぎ去りし花を思うのはいつだって春なんだ」
(篠原美也子『葉桜』2004年 より引用)
そんな歌が似合うな、と思って撮影してみた。↓

多分、もう全ての花は、私の住む身近な場所からは消えてしまったと思う。
花が散れば、もう誰も「桜」と呼ぶ人は居ない。その木が「桜である」と解る人は除いて。
何でもそうだが、「注目されているうちが良く」て、見放されればそれまで。
桜の花はいつまでも咲いていてはくれない。散ってしまい、葉桜となる。葉桜でも結構良い…とは言われるものの、「華やぐ物」はもはやなく、「単なる街路樹」としてそこにある。まるで、甘みのなくなったガムみたく、香りはしても味はない。
花として咲いた以上、散るのは必然である。ずっと華やいでは居られない。けれど、人々は「華やぎ続ける事」を望む物。けれど、その方法は誰ひとりとして解らないままである。
散り逝った後の葉桜。色の薄い若葉も陽の光にやけ、やがて濃い緑となり、輝きが更になくなりゆく。何時しか飽きられ、目にも止まらなくなった頃、その葉自体も散り行き、眠りにつく。
日曜の25時近くは、そんな桜の葉が散り行く時か、葉桜になる頃だろう。もう誰もを喜ばせる存在ではなくなる時だと思う。
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Mind Feeling0419~0420 血液型の話

2009年04月20日 00時09分45秒 | 急行特急TH発2007年→2019年5月1日AM11:59
例外ありまくりの血液型による性格判断。だが、何か心を惹かれてしまう物。
たまたまやっている“mixi”で見つけたその話。私と同じ“O”型に関する話(http://ranking.goo.ne.jp/m/ranking/999/blood_otype/)であった。
自分と同じの血液型程見えない物はなく、こういう話を読んでも「そんなもんか」で流すのだが、他の血液型に関しては、

「なるほど、こんな感じか」

と、すんなり入ってくるのは、自尊心の所為なのだろう。自分の事は棚に上げて、人の荒療治だけは見るという酷い話である。
しかし、勿論、こんな「血液型別性格判断」は、根拠はないとされる。だが私は、思う。それは、「確率論」的な話であり、「あくまで、こういう‘‘傾向,,にある」という事。つまり、サイコロを6回振れば、「必ず1が1回出るという訳ではない」という所であり、「絶対は無い」という訳である。
故に、「傾向を握む」という事が要になってくるが、この様に書くと「人付き合いの駆け引き」の為に、「血液型診断」が使われるかと思うと、嫌な感じがするのは言うまでもないが、そんな診断が出て来た背景には、おそらく、「駆け引きの指標」や「対人関係の円滑化」を目的に、或は「人の行動特性の研究材料」として、現れてきたのかなとも思う。社会に出れば必然的に「駆け引き」がより強く求められるので、血液型に基準を求めたのであろうが、そうまでしないとならない社会情勢って何なんだろうと思うが…。
己の血液型の性格特徴を知れば、必然的に、自分と同じ血液型の人間の特性も見える筈だが、私は見えない。先述の通り、「自分と異なる血液型の人」の「傾向」はある程度見える。しかしそれは、あくまでも「相手から自分の血液型が明かになっている場合に限定」される。勿論、解っても「本当にそうなの?」というのは、いくらでもあるので、「絶対ではない」。
今から、2~3年前まで、私はかなり「各血液型と自分との相性」に、必要にこだわっていた。自分と相性のあう血液型なんて無い、と気付いたのは最近の話だが、かつての「持論」から、「“AB”型の人との相性が特に悪い」というのがある。あてになりはしないが、O型とAB型の相性に関しては、「合わない」という傾向が強く、人間関係のトラブルに発展する始末である。学生時代の後期、1年間、クラス40人中、4人“AB”型の人間で居たが、仲良く出来た試しはなかった。また10数年、割合親しかった人間の1人に、“AB”型が居たが、かなり無理して、嫌な所、我慢していたが遂に耐え切れなくなって、付き合いを辞めた。駆け引きに負けた、という所である。また、ある場所でもやはり“AB”型の人間と付き合いの駆け引きに負けた。やはり、その性格的な行動と言葉に耐え切れなかったのがある。何とも情けない話である。
また、“B”型に囲まれた環境に1年強居たが、はっきり居って辛かった。私の親もB型なので、何とかなるかと思ったがダメだった。哀しい話だが、嘘ではない。また、学生中期に親しくなった人間に“B”型がいて、8年付き合い、2回の大喧嘩の末に、やはり、相手の嫌な面に耐え切れなくなって、付き合いを辞めた。
残す“A”型と“O”型についても、それなりに思い出したくない物多数で、特に、「きっちりかっちり」でかつ、良いも悪いも混じった、「文字通り」の「握みきれない‘‘適当,,」さの“A”型にも泣かされ、“O”型の「6割俺様親方肌」に泣かされ、結局、自分と合う血液型の人って居ない、という結論に至る始末である。
しかし、私の周囲には何故か、“B”型が集まり易い。今も6~7人位、付き合いの有無はともかく、身近にいるから不思議である。苦手の筈なのに、どうしてなんだろうと思う。更に、苦手な“AB”型も身近にある。“A”型が割合、集まりにくく、“O”型は、それなりだが、どんぐりの背くらべである。
血液型で人を判断して良い筈はないが、「相性」については、各タイプ共に、「トラウマ」有りで、血液型が同じだからと言って、付き合いがうまく行く訳でもなくで、「絶対は有り得ない」という所である。
これ以上書くと物議を醸し出しそうなので止めておくが、やはり「根拠はない」けれど、「人類に限定」すれば、「各血液型における行動特性の‘‘傾向,,はある」と私は思う。しかしそれは「善し悪しは含まれない」という事を最後に強調しておこう。あくまでも「傾向」であり、「絶対ではない」、それが、「自然界の掟」なのだから。
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