wowowで「仁義なき戦い」を一挙放送!
ということで観ました。
「仁義なき戦い」は1973年に第1作、第2作は「広島死闘編」、第3作「代理戦争」そして1974年に第4作「頂上作戦」第5作「完結編」とある。
これを一挙に昨日と本日で放映をしたのだ。そしてそれを観た。(ヒマなヤツだなあ)そして明日からは「新・仁義なき戦い」を放映するらしい。
自民党が「仁義なき戦い」をしている時期になんというタイミング。全く時宜を得た企画といえるべきである。
さて「仁義なき戦い」は、第2次世界大戦終了後の広島を舞台にしたいわゆる「ヤクザ」の争いを描いたものである。
その争いは「昨日の敵は今日の友」であり「今日の友は明日の敵」といった、誰が敵で味方は誰かといった状況なのである。
ヤクザは「スジ」を通し「義理」を欠かないことを存在意義にしているのだが、この広島の争いは「任侠」なんてないのである。
だから「仁義なき戦い」なのである。
人が集まったとき「組織」ができ「組織」が何かをしようとしたとき他の組織との「軋轢」が生じる。
その軋轢を解決するのは、通常は「法」である「倫理」である。
ヤクザ世界では任侠とか仁義である。
しかし、本当に人の世界はそれでもって「軋轢」が解消されているだろうか。
「否」というのがこの映画の描きたかったものだろう、と思う。
「スジ」というのは視点やその立ち位置によって違う。つまり「正義」というのは唯一というのはないのだ。争って勝った者が「正義」になるだけなのだ。ということを仁義なき戦いは教えてくれるのだ。
それは「ヤクザ」世界だけでなく、人の住むところ全てにあるように思える。今の世の中、今度の選挙でもあるのだ。そして我々の所属する組織についても「仁義なき戦い」は常に存在している。
それに疲れたり、参加したくないのなら「カタギ」になるしかない、と思う。
何らかの組織に所属していれば「カタギ」ではない、死ぬまで闘わなければならないのだ。
そのときに自分の信じた「スジ」を通そうとしても、恩・情・義理に殉じても、どこかで「仁義なき戦い」に巻き込まれることを覚悟していなければならない。
人が生きる、というのは、ある意味「哀しい」ものなのである。
しかし、それ以上に増して「楽しい」ことがあるはずなのである。
映画中のセリフで主人公「広能」が言うセリフ
娑婆のもんは青信号でも信じられんワシじゃ。まして人の心の中はの・・・
偽ざる気持ではないか。我々も時としてこんな気持になることがある、それでもまた誰かを信じているのである。
ということで観ました。
「仁義なき戦い」は1973年に第1作、第2作は「広島死闘編」、第3作「代理戦争」そして1974年に第4作「頂上作戦」第5作「完結編」とある。
これを一挙に昨日と本日で放映をしたのだ。そしてそれを観た。(ヒマなヤツだなあ)そして明日からは「新・仁義なき戦い」を放映するらしい。
自民党が「仁義なき戦い」をしている時期になんというタイミング。全く時宜を得た企画といえるべきである。
さて「仁義なき戦い」は、第2次世界大戦終了後の広島を舞台にしたいわゆる「ヤクザ」の争いを描いたものである。
その争いは「昨日の敵は今日の友」であり「今日の友は明日の敵」といった、誰が敵で味方は誰かといった状況なのである。
ヤクザは「スジ」を通し「義理」を欠かないことを存在意義にしているのだが、この広島の争いは「任侠」なんてないのである。
だから「仁義なき戦い」なのである。
人が集まったとき「組織」ができ「組織」が何かをしようとしたとき他の組織との「軋轢」が生じる。
その軋轢を解決するのは、通常は「法」である「倫理」である。
ヤクザ世界では任侠とか仁義である。
しかし、本当に人の世界はそれでもって「軋轢」が解消されているだろうか。
「否」というのがこの映画の描きたかったものだろう、と思う。
「スジ」というのは視点やその立ち位置によって違う。つまり「正義」というのは唯一というのはないのだ。争って勝った者が「正義」になるだけなのだ。ということを仁義なき戦いは教えてくれるのだ。
それは「ヤクザ」世界だけでなく、人の住むところ全てにあるように思える。今の世の中、今度の選挙でもあるのだ。そして我々の所属する組織についても「仁義なき戦い」は常に存在している。
それに疲れたり、参加したくないのなら「カタギ」になるしかない、と思う。
何らかの組織に所属していれば「カタギ」ではない、死ぬまで闘わなければならないのだ。
そのときに自分の信じた「スジ」を通そうとしても、恩・情・義理に殉じても、どこかで「仁義なき戦い」に巻き込まれることを覚悟していなければならない。
人が生きる、というのは、ある意味「哀しい」ものなのである。
しかし、それ以上に増して「楽しい」ことがあるはずなのである。
映画中のセリフで主人公「広能」が言うセリフ
娑婆のもんは青信号でも信じられんワシじゃ。まして人の心の中はの・・・
偽ざる気持ではないか。我々も時としてこんな気持になることがある、それでもまた誰かを信じているのである。