年譜によると、東京の実家での約1年にわたる腎臓病治療の療養をどうにか終えて久女が小倉に戻って来たのは、大正10年(1921)7月でした。この時、彼女は31歳になっていました。
<大正10年頃の久女と次女光子>
久女の長女昌子さんはこの時期のことを、久女年譜にこう書かれています。〈里方滞在中、母さよから子供のために辛抱して、夫が俳句を嫌うなら俳句をやめるように説得された。自分の記憶では、宇内は腹の悪い人ではないかわり単純で、久女の離婚したいという気持ちを昼夜責め立てた。亭主関白ともいえる時代だったので、久女は泣きの涙で家を飛び出さねば喧嘩は止まなかった。宇内は病的なくらい執拗で、久女を怒らせ、目を吊り上げるまでにしなければすまなかった。怒れば久女の方が強かったにせよ、怒らせるまでに挑発するのはいつも宇内の方であった。中学教師は嫌いといった久女の言い分は表面的なものではなく、宇内の性格的なものに対する批判と非難が籠っている。〉
怒れば久女の方が強かった、というのは面白いですね。久女が居住まいを正して説明すると、おそらく宇内は答えに窮したのでしょう。
この文章に限らず、長女昌子さんが書いた他の文章を読むと、久女の夫宇内には妻への寛大さ、思いやり、妻の人格への配慮がなく、代わりに人を責めたがる酷薄さ、ゆがんだ嫉妬などが感じられ、ため息が出る程です。
(写真はネットよりお借りしました)
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