JR博多駅が新装なって以来、博多口側の正面に大時計が設置されています。
先日、博多駅近くで友人達が集まって新年会をしましたが、その少し前に女性の出席者4人で集まり、駅ビル内のカフェでお茶しました。
友人が持参してくれた案内書を見て入ったのが、5階にあるこのカフェでした。行ってから判ったのですが、このカフェの窓側の一部が、あの大時計の裏側になっていたのです。
以前から博多駅前の広場からこの大時計を見上げ、あの裏側はどうなっているのかなとか、何のお店になっているのかなとか思っていましたので、このカフェに入り大時計の裏側が目に入った瞬間、ピンと来てとても嬉しかったです。
以前パリに行った時、オルセー美術館のカフェにも、これとよく似た仕掛けの大時計があったのを思い出し、この大時計もオルセーのそれを真似たのかも、なんて思いました。
私達4人の席は窓際ではなかったのですが(窓際はカップル席になっているようでした)、窓からは福岡市のメイン通りの一つ、大博通りがまっすぐ海の方に伸びているのが見えて、なかなかの眺めでした。
座り心地の良い黒い椅子に赤いテーブルがお洒落で、席も分煙化されていて奥が喫煙席の様でした。
メニューも豊富で、お買い物で疲れた時の一休みや待ち合わせまでの時間つぶしなどに、お勧めのカフェです。私はお店のまわし者ではありませんよ、念の為(笑)。
espressamente illy (エスプレッサメンテ イリー)
アミュプラザ博多店
公式サイト:espressamente illy
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俳誌『花衣』の創刊号に、久女は主宰者として創刊の辞を書いています。その全文を見てみましょう。
草萌えの丘に佇んで私は思う。
過去の私の歩みは、性格と環境の激しい矛盾から、妻としても
母としても俳人としても 失敗の歩み、茨の道であった。
芸術芸術と家庭も顧みず、女としてゼロだ。妖婦だ。異端者だ。
こう絶えず、周囲から、冷めたい面罵を浴びせられ、圧迫され、
唾されて、幾度か死を思った事もある。
愛する友にもそむき去られた。而も猶生命の火は尽きない。
大地はたえず芽ぐむ。
躓き倒れ、傷つきつゝも、絶望の底から立ち上がり、自然と俳句とを
唯一の慰めとして、再び闘い進む孤独の私であった。ダイヤも地位も
背景も私にはなかった。
かくして二十何年の風雨に、私の貧弱な才能は腐食され、漸く凋落を
憶ゆる年頃とはなった。だが地上の幸福、女の一生を、芸術にかけた
私は、何とか目下の沈滞を耕し直したい希望を抱いて、茲に女中もなしの
家事片手間に、ほんの小さいものを試みるに過ぎない。
もとより何の形式にもよらず、発行の時をも限らない。此小冊子は
私自らの思索感情を彫りつける分身ともなり、私の俳句修行のささやかな
道場ともなろう。
久女よ。自らの足もとをただ一心に耕せ。茨の道を歩め。貧しくとも
魂に宝玉をちりばめよ。
私はこう私自身に呼びかけて亀の歩みを静かに運ぶのみ。
先輩知己のご声援をひとえに仰ぐ次第である。
昭和7年立春
何だか読んでいて息苦しくなる様な文章ですね~。それはこの中に、久女の気負いや自嘲、また悲痛とも思える覚悟や決意など、心の内が率直に表現されているからだと思います。また茨の道、異端者という言い方には彼女が一時期ふれたキリスト教の影響が見えるようにも思います。
特に〈女としてゼロだ。妖婦だ。異端者だ。〉という強い表現は、実際に彼女自身が浴びた言葉かもしれませんが、この様に活字にし多くの人の目に触れると、その言葉が独り歩きし、久女に貼られたレッテルの様になり、彼女にマイナスになるのでは、と思わずにはいられません。
久女の俳句や文章を見ていつも思うのですが、周りの反応を気にしない、彼女の必要以上の率直さ無防備さが、しばしば周りから誤解される要因になったのではという気がします。しかしそれは、彼女のさがというか、宿命でありどうしようもなかったのかもしれません。
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昨晩の予報通り、けさ起きると雪景色だった。
せまい花壇にもこんなに雪が!
家の窓から見える近くのマンションも雪でかすんでいる。
周りはモノトーンの世界。
リラ地方は4、5日位前から寒波がやってきて、一時少し緩み
またまた今日の大寒波。
朝刊にも「記録的寒気 大雪警戒」と見出しが。
そして暴風雪注意報発令も。
高速道路も全面通行禁止、JRも一部運休。
隣県に住む友人からも雪景色の写真添付メールが届いた。
友人のところは、メールによると軒下で-3℃らしい。
さっそく我が家の軒下は何度か計ると-1℃だった。
TVでは広島市で行われている、男子都道府県対抗駅伝を中継している。
それによると、今のところ、広島市は時折りチラホラと雪らしきものが降るけど、
積雪はまったくない、寒いのは寒いらしいけれど。
やはり、瀬戸内地方は少し寒さが緩いのかな?
駅伝は愛知県が優勝。
歳をとるとともに寒さが身にこたえる様になってきた。
まだ1月下旬だというのに春が待ち遠しい。
少しせっかち過ぎるかしら?
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菊が丘に転居した翌年の昭和7(1932)年3月に、久女は女性を中心にした俳誌『花衣』を創刊しました。その前年に「谺して 山ほととぎす ほしいまゝ」で帝国風景院賞金賞を、「橡の実の つぶて颪や 豊前坊」で銀賞を受賞したことが自信になり、俳誌創刊の流れになったのでしょう。また周りからのすすめもあったのかもしれません。
俳誌の名前を『花衣』としたのは、久女の初期の頃の句「花衣 ぬぐやまつはる 紐いろいろ」から採ったのでしょう。彼女はこの句を大切にし、誇りにもしていたようで、この句にこもる華やぎを俳誌の中に盛り込みたかったのでしょうね。女性を中心にした俳誌にふさわしい誌名だと思います。
この『花衣』は五号で廃刊になるのですが(久女が何故5号で廃刊にしたのか、今でも大きな謎とされています)、私は平成23年秋に北九州市立文学館で催された「花衣 俳人杉田久女」展で、この『花衣』の1号から5号までを見ました。それぞれの号が2冊づつ用意され、表表紙と裏表紙が見れる様に並べられていて、表紙にはおおらかな筆遣いの久女の絵が描かれていました。<『花衣』1号~5号>
当然ながら、それらはガラスケース越しに見たものです。久女の俳句やその他の文章は『杉田久女句集』や『久女文集』『杉田久女随筆集』等に大部分が載っているので、簡単に読めるのですが、俳誌『花衣』だけは、表紙を見た以外、中を見たことがありません。
しかし、大学の先生方が書かれた久女研究書や、その他の久女関連書物にある文章は、『花衣』を手に取って見たうえで書いたと思われるものが大部分です。なので印刷された、誰でも手に取れる『花衣』があるはずなので、それを一度見たい思いにかられます。
なので、私がこれから書く俳誌『花衣』の内容に関した部分は、久女研究書や久女関連書物にあるものを読んで書いたものです。「花衣 俳人杉田久女」展の図録に『花衣』1号~5号の総目次が載っているので、全体の構成は分かるのですが...。
図録の総目次をみると、久女は創刊号に主宰者として「創刊の辞」を載せています。多くの久女関連書物に、その全文が載っていますが、その文章からは彼女の張りつめた思いが伝わって来て、悲痛な感じさえします。
長くなるので、その全文は次回にしましょう。
(『花衣』の画像はネットよりお借りしました)