久女が主宰誌『花衣』を廃刊した後、『花衣』会員の福田無声女に宛てた手紙が、無声女の没後、彼女の息子で俳人の福田蓼亭によって公開されています。
その手紙には「花衣廃刊を決意、おおどろきと存じますが何も言上できませぬ。私が女のくせに少々やり過ぎましたのと...(中略)花衣をいたせば益々世間からも嫌われ到底一人でこの上致してみてもだめですので...(後略)」とあり、下の2句が添えてあります。
廃刊決意として
「つゆくさの しげるにまかせ こもりけり」
「淋しさは つゆくさしぼむ 壺の秋」
手紙の本文より俳句に久女の無念の思いが表れている気がします。しかし廃刊に至った本当の理由にはこの手紙でも触れられていません。廃刊前後の久女の心情をを綴った手紙はこれ一通だけではないと思われますし、又もしかして本当の廃刊の理由を綴った手紙など、今後新たなものが発見されるかもしれません。
久女が『花衣』を創刊し、廃刊した昭和7年に、長女昌子さんは中村汀女の夫、横浜市税関監視部長の中村喜重氏の世話で同税関長官房文書係雇として就職しました。
この頃、久女は虚子の依頼により、昭和8年(1933)10月改造社刊行の「俳句歳時記」の春の部、冬の部の資料の下調べに当たっていたようです。こうした仕事が好きな久女は、虚子の手伝いが出来ることが非常な喜びで、楽しんで熱中していたと長女昌子さんは著書に書いておられます。
久女年譜によると、この頃(『花衣』を廃刊した頃)より久女は俳句作者として生涯を打ち込む決意をするとの記述があります。そして句集出版の志を持ち序文を虚子に願うも承諾されなかったと。
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