俳句に向かうと熱中せずにはいられない久女は、一方で夫が俳句を嫌うなら俳句をやめるようにとの母の説得も脳裏から去らず、悶々とした日々だったでしょうが、病がなんとか癒えて、小倉に帰ってから一時期『ホトトギス』への投句をやめています。その頃の事を彼女は後に「我が子にも生き別れる様な切ない心地」と表現しています。
この様な久女と宇内の確執、苦しみを理解してくれる友人もいたようです。それは娘達の主治医で「二八会」という俳句の会の俳友でもあり、小倉では有数の大病院の院長の太田柳琴でした。
太田柳琴はクリスチャンで、貧富の差なくよく診てくれるというので、人格者として周りから尊敬されていたようです。柳琴はキリスト教的に二人の間柄を仲裁しようとしたのでしょう。
久女は柳琴や鍛冶町教会の小林牧師に導かれて教会へ通う様になり、約半年後の大正11(1922)年2月に受洗しています。約1年後に夫、宇内も受洗しました。長女昌子さんによると、宇内は勧誘を断り切れずに洗礼を受けた感じだったそうです。
久女は宗教によって再生、生き直しをしようとしたのでしょう。長女昌子さんは〈母は聖書を離さずよく読んだ。私は母の思いのこもった聖書を今日まで手元に保存しているが、読んで読みつくした痕を留めたこの聖書を見ただけでも、母の悩んだ心、魂の安らぎを祈念する姿が見えて来る〉と、そう書かれています。
久女は受洗した大正11年から5、6年の間クリスチャンでした。よきキリスト教徒であろうと、クリスマスやバザーでも活動し、教会の青年達の世話もよくしたので、若い人達からも好かれていたようです。
「バイブルを よむ寂しさよ 花の雨」
「雪道や 降誕祭の 窓明かり」
「バイブルを よむ寂しさよ」の表現でこの頃の久女の心の内がわかりますね。
久女を教会に導いた太田柳琴は大正14(1925)年に九大での研究の為、小倉から福岡に移り、その後、外遊の途にのぼったと伝えられているようですが、詳しいことは不明なのだそうです。
後に久女は柳琴を悼む下のような句を発表しています。
「茎高く ほうけし石蕗(つわ)に たもとほり」
大正末期に小倉で繁盛していた病院を畳んだ理由は何だったのか、それは久女に関係があるという噂が小倉には伝わっているらしいですが、詳細に尋ねるとさっぱりわからないとの表現が、久女関連書物によく出てきます。いわゆる噂から噂の〈久女伝説〉の一つなのでしょう。
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