ヤフオクドームで、プロ野球セパ交流戦ソフトバンク vs ヤクルト戦を観戦。
ソフトバンクは1回裏、内川の2ランとイ・デホのソロで3点を先制。
今日は楽勝かもと思った2回表にヤクルトの新外人デニングに2ランを打たれ、あっというまに3:2に。
が、その裏に柳田のソロが飛び出し4:2に。
その後、ソフトバンクは3回、4回に1点ずつ確実に加点。
迎えた6回表に今浪に2ランを打たれるも、その裏、松田のソロが飛び出し7:4に。
7、8、9回と五十嵐、森、サファテイが完全に抑えて7:4でゲームセット。
<ラッキー7のフーセン上げ>
今日は、6本のホームランが飛び出し、なかなか見ごたえのある試合だった。
ソフトバンクは交流戦、3勝1敗。順位もこの試合で首位を奪い返した。交流戦は得意なチームなので、これからもこの調子で頑張ってほしい。
お茶の水高女を卒業した翌年の明治42(1909)年、杉田久女は19歳で東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科卒業の杉田宇内(久女より6歳年上)と結婚しました。
当時久女一家は上野桜木町に住んでおり、そこに東京芸大生の宇内が久女の兄達の友人として出入りしていたというのが、二人が知り合うきっかけだったようです。
杉田宇内は当時小倉市にあった、開学間もない旧制小倉中学(現在の小倉高校)の美術教師となり、久女は夫宇内と小倉市に移り住むことになりました。
宇内の郷里は愛知県西加茂郡小原村松名、この辺りは奥三河の山深いところで、杉田家は代々この地の大庄屋をしていて、おびただしい山林田畑を持っていました。祖父の多十郎は愛知県の県会議員を務め、村長もしていて、父の和夫も村長を務める素封家でした。
久女がお茶の水高女卒の才媛で高級官吏の娘という事で、最初から杉田家ではこの縁談に乗り気の様でした。しかし久女の両親は宇内の郷里が余りにも山深い田舎というのが心配で、最初この結婚を渋ったそうですが、久女の意志で嫁ぐことになった様です。
社会的地位のある相手との縁を得た、お茶の水高女の同窓生が厳しい格式や煩わしい人間関係に悩んでいるのを知り、考えるところがあり、久女は社会的地位や資産をもたらす結婚より芸術家の卵との結婚を選んだと、これは久女の長女石昌子さんが書かれた本の中にある話です。私はこれに加え、久女に絵心があったのも宇内に傾いた原因の一つかもしれないと思ったりもします。
家と家の結びつきによる結婚が大部分だったこの時代に、たとえわずかでも、久女に選択の余地があったという意味ではこれも恋愛結婚でしょう。現代の恋愛結婚とは桁違いのほのかなものだったでしょうが...。
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40年以上前の昭和47年の秋に英彦山のふもとにある高住神社(豊前坊)に行った時、参道脇に杉田久女の句碑があるのを見ました。
「橡の実の つぶて颪(おろし)や 豊前坊」
この句碑が私が見た最初の久女の句碑で、この句は“つぶておろし”という表現がいいな~などと思ったのを今でも憶えています。
作者の杉田久女について、名前を何となく知っていたのは、おそらく彼女の俳句が教科書に載っていたのではと思います。久女を東京在住の俳人と思い、こんな所まで吟行に来られたのか~と驚いた憶えがあります。
その後、結婚し小倉に住むようになった私は、杉田久女が旧制小倉中学の美術教師、杉田宇内の妻で、「近代女性俳句の草分け」などと呼ばれていることを知りました。それ以後久女を急に身近に感じ、彼女の事について調べようと、新聞や雑誌に彼女のことが載ると切り抜いたり、久女関連の書物を読んだりして来ました。
杉田久女はどの様な人生を歩いた女性なのでしょうか? 彼女について私なりに考え、これから時々書いてみようと思います。お気が向かれましたらお読みください、よろしく。
杉田久女は明治23(1890)年鹿児島市で出生、本名はひさ。父親赤堀廉蔵は松本出身ですが当時は鹿児島県庁に勤める官吏でした。その後、父親の仕事の関係で沖縄、台湾に移り住みます。
この頃を回想して、久女は後にこんな俳句を詠んでいます。
「朱欒咲く 五月となれば 日の光」
「常夏の 碧き潮あび わがそだつ」
台湾での小学校卒業と同時に上京、東京女子高等師範学校付属お茶の水高等女学校に入学します。久女が当時植民地の台湾からこの学校に合格できたことが、歴史の浅い台湾の小学校の教育レベルの高さを示すものとして、新聞にも載ったようです。
お茶の水高女で彼女は、勉強の他にテニス、ダンス、西洋料理、フランス刺繍などの文化的教養を身に付けたようです。そして明治41年3月にお茶の水高女を卒業。
卒業試験の歴史の答案は特に成績がよかったらしく、平成23年秋に北九州市立文学館で催された「花衣 俳人杉田久女」展に、実際のこの答案が出展されていたのを見ました。
それには教師の「甲上 殆ど完全、秩序的によく書かれたり」という批評が記入され、更に父親の「久子卒業前、最終ノ答案二付キ記念ノ為メ保存シテ子孫ノ参考二供スベシ」という愛情のこもった付箋が貼られていました。
明治40年代にお茶ノ水高女を卒業というのは、当時の女子として最高の教育であり、その矜持は、その後の久女の俳句人生を方向づけた様に思われます。
毎日新聞で3月から平野啓一郎さんの小説『マチネの終わりに』の連載が始まっています。
平野さんといえば大学在学中に『日蝕』で芥川賞を受賞され作家デビュー。三島由紀夫の再来などと言われ、その後も次々に話題作を発表されていますね。
彼の小説を読みたいと思いながらも実際には読んだことはありませんでしたので、連載の予告記事を見た時から、楽しみにしていました。
作者の言葉によると、この小説のテーマは愛と死、そして時間。青春を終えた40代をどう生きるかなどだそうです。
私は文章以外に挿絵にも興味をもっています。とても純文学作品の挿絵とは思えない雰囲気の絵で(最近では私でもわかるものもある)、この挿絵を描いておられるのは、どんな方だろうかと思っていましたら、平野さんの強い希望で決まった石井正信さんという方だそう。
石井さんによれば、挿絵は上下左右に増幅していき、連載が終われば、一枚の巨大な絵が完成するとのこと。よく飲み込めないながら、その巨大な絵は何らかの形で読者に披露される予定だそうで、それも楽しみにしています。
連載は始まってまだ2か月半位ですが、40才前後の二人の主人公が、最初の偶然の出会いの次のステップの、自分たちの意志でパリで逢うという最初のヤマ場を向かえています。
どうも、二人の間柄がこれから抜き差しならぬ方向に展開して行きそうな気配、大。 新聞を開くとこの小説を一番先に見るようになり、私ものめり込んでいきそうな気配、大です(笑)。
又、この小説は毎日新聞紙上だけではなく、noteというサイトでも読めるようになっています(10日遅れ)。
https://note.mu/hiranok
ちなみに小説のタイトルの「マチネ」というのは、コンサートの「昼の部」のことだそうで、夜の部は確か「ソワレ」といいますね。
梅を頂いたので梅シロップを、もう一度作ってみました。
というのは以前作った時、消毒方法などがいいかげんだったのでしょう、うまく作れませんでした。今回もう一回挑戦することに。
材料は
梅 1㎏
氷砂糖 1㎏
リンゴ酢 1/4カップ
焼酎(消毒用)少々
① 梅はヘタを竹串で取る。
② 梅を洗い水分を拭き取る。
③ 梅の消毒のため、ボールに入れた焼酎に梅を数個づつ、くぐらせ、自然乾燥させる。
④ 消毒した瓶に焼酎で消毒した梅と氷砂糖を交互に入れ、最後に分量のリンゴ酢をかける。
⑤ 毎日少しづつシロップが上がって来るので、一日に1~2回瓶を傾けて回す。
②の作業の後、梅を何か所か竹串で刺した後、③、④の作業をするやり方もある様ですが、エグミが出るとも言われているようで、私は何もせず③、④の作業をします。
皆様は瓶の消毒はどの様にされますか?
ガラス瓶が割れるといけないので、私は一回目は熱湯より少し低い温度のお湯を瓶に入れ、瓶を廻しながら消毒して乾かし、乾いたら次は熱湯で消毒しまた乾かすという2度の作業で瓶の消毒をしました。
それに加えて、瓶の内側や蓋をもう一度消毒するために、今度は瓶に焼酎を少し入れ、瓶を回しながら瓶の内側に焼酎を流し消毒するという方法で、もう一度消毒をしました。
1週間位でシロップが上がって来て、2週間目位から飲めるようになるはずなのですが...。果たして今年の梅シロップは無事に出来上がるのでしょうかね~。前回うまく出来なかったので、どこか作り方が間違っているのかなと思ったりもしますが...。
漬けた梅は、味が出切っているので何にも利用は出来ませんネ。