菊が丘に転居した翌年の昭和7(1932)年3月に、久女は女性を中心にした俳誌『花衣』を創刊しました。その前年に「谺して 山ほととぎす ほしいまゝ」で帝国風景院賞金賞を、「橡の実の つぶて颪や 豊前坊」で銀賞を受賞したことが自信になり、俳誌創刊の流れになったのでしょう。また周りからのすすめもあったのかもしれません。
俳誌の名前を『花衣』としたのは、久女の初期の頃の句「花衣 ぬぐやまつはる 紐いろいろ」から採ったのでしょう。彼女はこの句を大切にし、誇りにもしていたようで、この句にこもる華やぎを俳誌の中に盛り込みたかったのでしょうね。女性を中心にした俳誌にふさわしい誌名だと思います。
この『花衣』は五号で廃刊になるのですが(久女が何故5号で廃刊にしたのか、今でも大きな謎とされています)、私は平成23年秋に北九州市立文学館で催された「花衣 俳人杉田久女」展で、この『花衣』の1号から5号までを見ました。それぞれの号が2冊づつ用意され、表表紙と裏表紙が見れる様に並べられていて、表紙にはおおらかな筆遣いの久女の絵が描かれていました。
<『花衣』1号~5号>
当然ながら、それらはガラスケース越しに見たものです。久女の俳句やその他の文章は『杉田久女句集』や『久女文集』『杉田久女随筆集』等に大部分が載っているので、簡単に読めるのですが、俳誌『花衣』だけは、表紙を見た以外、中を見たことがありません。
しかし、大学の先生方が書かれた久女研究書や、その他の久女関連書物にある文章は、『花衣』を手に取って見たうえで書いたと思われるものが大部分です。なので印刷された、誰でも手に取れる『花衣』があるはずなので、それを一度見たい思いにかられます。
なので、私がこれから書く俳誌『花衣』の内容に関した部分は、久女研究書や久女関連書物にあるものを読んで書いたものです。「花衣 俳人杉田久女」展の図録に『花衣』1号~5号の総目次が載っているので、全体の構成は分かるのですが...。
図録の総目次をみると、久女は創刊号に主宰者として「創刊の辞」を載せています。多くの久女関連書物に、その全文が載っていますが、その文章からは彼女の張りつめた思いが伝わって来て、悲痛な感じさえします。
長くなるので、その全文は次回にしましょう。
(『花衣』の画像はネットよりお借りしました)