久女が『ホトトギス』から除名された翌年の昭和12(1937)年に、高浜虚子の愛娘であり俳誌『玉藻』の主宰者、星野立子の句集『立子句集』が出版されました。
<星野立子>
虚子はその序文で〈自然の姿をやはらかい心持で受け取ったままに諷詠するということは、立子の句に接してはじめて之ある哉といふ感じがした。写生という道を辿って来た私は、さらに写生の道を立子の句から教わったと感ずることもあったのである。それは写生の目といふことではなくて、写生の心という点であった。其の柔らかい素直な心は、やゝもすると硬くなろうとする老いの心に反省を与えるのであった。女流の俳句はかくの如くなくてはならぬとさへ思った〉と手放しで、愛娘立子の句を称賛しています。
この時期の高浜虚子にとって、自分がすすめて俳誌『玉藻』を主宰させた愛娘星野立子が、俳句により経済的安定を得、俳人としての地位を築くことは、何にもまして重要なことだったと思われます。
このことが高浜虚子の目を曇らせ、愛娘の星野立子が、俳句創作ばかりではなく、俳句評論も書ける、実力ある俳人杉田久女の大きな影に隠れてしまうのを恐れた為、久女による句集序文懇願を拒否し、ひいては久女を同人から除名するという流れになったのではと思わずにはいられません。
そうだとすると、それは虚子が久女同人除名の理由を明らかに出来ないのも、さもありなんと感じますし、久女の死後、同人除名の理由を明らかにしないまま、除名処分を正当化する様な、久女たたきとも思える文章を発表しつづけたのも納得できます。
これは私だけが推測しているのではなく、そう感じている研究者は少なからずおられるようですし、当時ささやかれていたことでもあったようです。
又、久女の長女、石昌子さんも「久女記」のなかで『ホトトギス』の大先輩から言われた言葉として「久女さんの文学者として俳句の道を歩もうとするその姿勢に、虚子先生が不安を抱かれたのです。立子さんの大きな影となって、立子さんがその陰に隠れてしまうことを恐れられたのです」と聞かされたと書いておられます。
続けて昌子さんは、〈虚子先生ほど骨肉の情愛の深い方はいないということは、虚子先生に接した人ならだれも否定する人はいないと思う、なので私にもこの言葉にはうなずけるものがあった〉と、述べておられます。
昌子さんは、〈虚子先生は骨肉の情愛が深い〉と言っておられますが、研究書などによると、このことを「身内偏重」と表現しているようです。
(写真はネットよりお借りしました)