二日市教会主日礼拝説教 2023年1月15日(日)
顕現後第2主日
イザヤ49:1~7,Ⅰコリ1:1~9,ヨハネ1:29~42
自分の役割を明確に
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
本日礼拝の最後で歌う「主われを愛す」は、明治の生まれで「赤とんぼ」を作曲した山田耕筰も幼い頃歌いました。7つ上の姉がキリスト教の学校で習ったのを家でも歌ったので呂律の回らぬ弟も覚えたからです。ただ姉の「主われを」は英語だったので、実に奇妙な物真似となり、家中いつも大爆笑でした。
さて、本日の福音はヨハネによる福音書1章29節から42節まででした。話が二つあり、最初がイエスとバプテスマのヨハネ、もう一つはイエスと弟子たちの話でしたが、全体的にはヨハネが目立つ内容でした。
ところで、ヨハネは預言者でした。そして預言者たちの本来の場所は旧約聖書なのです。けれども聖書が旧約から新約になるとき、その間に断絶があってはならないので、ヨハネが橋渡し役として登場したのでした。
ところで、バプテスマのヨハネがなした最大のことは、イエスに洗礼を授けたことでした。ただしそのため、後世の人に良くない印象を与えました。というのも、洗礼を授けた人は洗礼を受けた人よりも偉いと考えがあり、そうなるとイエスに洗礼を授けたヨハネがイエスより上になりますが、それはとんでもないと腹を立てる人が出てきたからです。
しかしそういう「どっちが偉い」の議論は、イエスが禁止しており、「人の上になりたい者は他者に仕える者になれ」と教えていました。それに本日のヨハネもイエスは「私にまさる」と言っています。二人は自分の役割をよくわきまえ、「どっちが」の論争に首を突っ込むことはしませんでした。
ところで、今読んだのはヨハネ福音書でした。このヨハネ福音書は先週の西日本新聞でも取り上げられました。8日の日曜版ですが、その記事の見出しは「苦難と希望―私を支えた言葉」でした。北朝鮮に拉致された横田めぐみさんのお母さん、横田早紀江さんに新聞記者がインタビューした際のお話を載せたもので、記事にはさらに、大きな活字で聖書の「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもない」というイエスの言葉も載せていました。
ところで、拉致事件なら日本の人は誰でも知ることですが、新聞のテーマは「私を支えた言葉」で、事件当事者の横田さんを困難の中で支えた言葉にスポットライトを当てていました。つまり彼女は「それはヨハネによる福音書の9章3節にあるイエスさまの言葉です」と答えたので、新聞もその言葉「この人が罪をおかしたからでもなく、両親が罪を犯したからでもない」を大きく紹介したのでした。ただそれだけでは一般読者はピンと来ませんから、横田さん自身の解説も載せたのでした。
それによると、早紀江さんは、めぐみさんの失踪直後は日本海に身を投げて死ぬことばかり考える日々でした。娘は寒空の下で生きているのか死んでいるのか。毎日胸が締め付けられていたが、そうい時期彼女を次々と訪ねてきたのが宗教団体の人たちで、「ご先祖の祭りかたが足りない」、「因果応報だ」と言うので、それが彼女の胸をえぐるのでした。
しかしある日娘の友人の母親が教えてくれた聖書が、イエスとの出会いのきっかけとなります。そこでは、イエスの弟子たちが、路上の生まれつきの盲人を指して「盲目なのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と聞いたとき、イエスが「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもない」と言っていました。
早紀江さんはこの言葉で「めぐみの罪でもない、私の罪でもない」という励ましを受け、不思議ななぐさめと喜びを得ます。そして後日夫の滋さんと共に洗礼を受けました。でも、めぐみさんの事件以来四十年以上、今も解決していません。それでも早紀江さんは「悲嘆と自責の念に駆られる日々に触れた聖書は心の支えになっている」とインタビューに答えたのでした。
ところで人は何か不幸があると、それを「神の罰」に結び付けたり「何々のたたり」とか「何とかの呪い」と責めたりする傾向があります。しかし、考えてみればそれらはどれも解釈に過ぎません。なのに思い込みがすごくなると絶対的な解釈になり、周囲も巻き込み、抜け出せなくなります。
ところで、早紀江さんのヨハネ福音書9章2節では、弟子たちが世間を代表するように「生まれつき盲人なのは、本人が罪を犯したためか、両親が罪を犯したためか」を口にしました。しかし、それは今考えたように一つの解釈、ただ当時の大多数がその考えだったから、絶対的な解釈となっていました。早紀江さんに、「ご先祖の祭りかたが足りない」「因果応報だ」と言う宗教団体の人間も同じで、それを言うので当事者はますます苦しめられたのでした。
そのような、問題だらけの解釈の中で、イエスは自分の新しい解釈を示したのでした。それが今のヨハネ9章3節にある「神の業がこの人に現れるためである」でした。横田さんは正直な人で「その言葉の意味は理解できなかった」と言っています。そんなことより、イエスが彼女を呪いやたたりから解き放っでくれたことのほうが大事でした。
つまり、呪いやたたりを説く人たちが早紀江さんの苦しみを倍増させたのに対して、イエスは「神のわざ」という解釈で彼女と対面したのでした。その対面は彼女の人生に新しい解釈をもたらし、立ち直らせました。言葉自体の意味がよくわからなくても、彼女が立ち直ってしまったことのほうが重要だと言えるのです。イエスとの出会いとはそういうことなのです。
顕現後第2主日
イザヤ49:1~7,Ⅰコリ1:1~9,ヨハネ1:29~42
自分の役割を明確に
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
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本日礼拝の最後で歌う「主われを愛す」は、明治の生まれで「赤とんぼ」を作曲した山田耕筰も幼い頃歌いました。7つ上の姉がキリスト教の学校で習ったのを家でも歌ったので呂律の回らぬ弟も覚えたからです。ただ姉の「主われを」は英語だったので、実に奇妙な物真似となり、家中いつも大爆笑でした。
さて、本日の福音はヨハネによる福音書1章29節から42節まででした。話が二つあり、最初がイエスとバプテスマのヨハネ、もう一つはイエスと弟子たちの話でしたが、全体的にはヨハネが目立つ内容でした。
ところで、ヨハネは預言者でした。そして預言者たちの本来の場所は旧約聖書なのです。けれども聖書が旧約から新約になるとき、その間に断絶があってはならないので、ヨハネが橋渡し役として登場したのでした。
ところで、バプテスマのヨハネがなした最大のことは、イエスに洗礼を授けたことでした。ただしそのため、後世の人に良くない印象を与えました。というのも、洗礼を授けた人は洗礼を受けた人よりも偉いと考えがあり、そうなるとイエスに洗礼を授けたヨハネがイエスより上になりますが、それはとんでもないと腹を立てる人が出てきたからです。
しかしそういう「どっちが偉い」の議論は、イエスが禁止しており、「人の上になりたい者は他者に仕える者になれ」と教えていました。それに本日のヨハネもイエスは「私にまさる」と言っています。二人は自分の役割をよくわきまえ、「どっちが」の論争に首を突っ込むことはしませんでした。
ところで、今読んだのはヨハネ福音書でした。このヨハネ福音書は先週の西日本新聞でも取り上げられました。8日の日曜版ですが、その記事の見出しは「苦難と希望―私を支えた言葉」でした。北朝鮮に拉致された横田めぐみさんのお母さん、横田早紀江さんに新聞記者がインタビューした際のお話を載せたもので、記事にはさらに、大きな活字で聖書の「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもない」というイエスの言葉も載せていました。
ところで、拉致事件なら日本の人は誰でも知ることですが、新聞のテーマは「私を支えた言葉」で、事件当事者の横田さんを困難の中で支えた言葉にスポットライトを当てていました。つまり彼女は「それはヨハネによる福音書の9章3節にあるイエスさまの言葉です」と答えたので、新聞もその言葉「この人が罪をおかしたからでもなく、両親が罪を犯したからでもない」を大きく紹介したのでした。ただそれだけでは一般読者はピンと来ませんから、横田さん自身の解説も載せたのでした。
それによると、早紀江さんは、めぐみさんの失踪直後は日本海に身を投げて死ぬことばかり考える日々でした。娘は寒空の下で生きているのか死んでいるのか。毎日胸が締め付けられていたが、そうい時期彼女を次々と訪ねてきたのが宗教団体の人たちで、「ご先祖の祭りかたが足りない」、「因果応報だ」と言うので、それが彼女の胸をえぐるのでした。
しかしある日娘の友人の母親が教えてくれた聖書が、イエスとの出会いのきっかけとなります。そこでは、イエスの弟子たちが、路上の生まれつきの盲人を指して「盲目なのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と聞いたとき、イエスが「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもない」と言っていました。
早紀江さんはこの言葉で「めぐみの罪でもない、私の罪でもない」という励ましを受け、不思議ななぐさめと喜びを得ます。そして後日夫の滋さんと共に洗礼を受けました。でも、めぐみさんの事件以来四十年以上、今も解決していません。それでも早紀江さんは「悲嘆と自責の念に駆られる日々に触れた聖書は心の支えになっている」とインタビューに答えたのでした。
ところで人は何か不幸があると、それを「神の罰」に結び付けたり「何々のたたり」とか「何とかの呪い」と責めたりする傾向があります。しかし、考えてみればそれらはどれも解釈に過ぎません。なのに思い込みがすごくなると絶対的な解釈になり、周囲も巻き込み、抜け出せなくなります。
ところで、早紀江さんのヨハネ福音書9章2節では、弟子たちが世間を代表するように「生まれつき盲人なのは、本人が罪を犯したためか、両親が罪を犯したためか」を口にしました。しかし、それは今考えたように一つの解釈、ただ当時の大多数がその考えだったから、絶対的な解釈となっていました。早紀江さんに、「ご先祖の祭りかたが足りない」「因果応報だ」と言う宗教団体の人間も同じで、それを言うので当事者はますます苦しめられたのでした。
そのような、問題だらけの解釈の中で、イエスは自分の新しい解釈を示したのでした。それが今のヨハネ9章3節にある「神の業がこの人に現れるためである」でした。横田さんは正直な人で「その言葉の意味は理解できなかった」と言っています。そんなことより、イエスが彼女を呪いやたたりから解き放っでくれたことのほうが大事でした。
つまり、呪いやたたりを説く人たちが早紀江さんの苦しみを倍増させたのに対して、イエスは「神のわざ」という解釈で彼女と対面したのでした。その対面は彼女の人生に新しい解釈をもたらし、立ち直らせました。言葉自体の意味がよくわからなくても、彼女が立ち直ってしまったことのほうが重要だと言えるのです。イエスとの出会いとはそういうことなのです。