二日市教会主日礼拝説教 2023年1月8日(日)
主の洗礼日
イザヤ42:5、10~13,使徒10:34~43,マタイ3:13~17
今は決断の時
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
改めて、明けましておめでとうございます。
ところで今年の干支は兎ですが、聖書に兎は出てくるのか。調べてみたらいました。旧約聖書の箴言の30章26節の岩狸という動物が兎の仲間だと分かったからです。正式名はハイラックス。アフリカや中東に生息。耳が大変短いので狸と見えなくもないが兎です。長崎は西海市のバイオパークで飼育されているので、日本でも聖書の兎を見ることができる。そういうことが分かりました。
ところで、いま読んだイザヤ書42章は、新年早々の私たちにふさわしいという気がいたします。すなわち「主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ、地とそこに生ずるものを繰り広げ、その上に住む人々に息を与え、そこを歩く者に霊をあたえられる」。年の初めの私たちも、まず天地創造の神を思うことから始めたいからです。
さて、本日のイザヤ書は、さらに「新しい歌を主に向かって歌え」と呼び掛けていました。ただ、神を思うだけでなく、その思いを歌にする。私たちも本日そのようにしているのであります。
ところで、イザヤ書といえば、イエスがイザヤ書を読んだという話が出てきます。それは、ルカによる福音書4章の16節以下に書かれています。ある安息日に彼は礼拝のためナザレの会堂に行きます。すると人々から聖書を読むよう求められたのでイザヤ書を読んだというのです。
なお、イエスが読んだ個所はこう書かれていました。「主の霊が私の上におられる。……主がわたしに油をそそがれたからである」。ところで「主が油を注ぐ」は今の洗礼にあたります。それでは、イエスが油注がれるすなわち洗礼を受けるとどうなるのか、それもルカ4章には書かれています。すなわち、「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を、圧迫されている人を自由にする」というのでした。つまり、そういうことも預言者イザヤは言っていた、今それがイエスの洗礼で実現するとルカは言うのでした。
ところで、クリスチャンの作家、三浦綾子は、若い頃洗礼を受けて、とても熱心な教会生活を送っていましたが、ある日とてもショッキングな体験をしました。それは、礼拝の中で誰かが聖書の朗読を聞いていた時でした。というのも、その時朗読されていた聖書が今私たちが考えているルカ福音書4章の個所だったのですが、普段の自分だったらそこは軽く聞き流していたと思うのだが、その日だけは違っていたからでした。
どういうことかというと、彼女はイエスがイザヤ書の朗読をしたという箇所に引っかかってしまったからです。なお、彼女も彼女なりのキリスト教の基礎知識はあって、イエスの時代の聖書といえば旧約聖書しかなかったことは知っていました。しかしまた彼女が知るイエスは、子どもの時から人一倍聖書に親しんでいたのでした。しかし、子どものイエスが読んでいたのが旧約聖書だったとは、彼女はこの時まで考えたこともなかったのでした。
さて、それまでの彼女は、誰かから「あなたは聖書を読んでいますか」と聞かれたら、ためらわず「はい、読んでいます」と答えるクリスチャンでした。しかし、読んでいるはずの聖書の内の旧約聖書は、もうしわけ程度の読み方しかしていなかったのでした。
まるで雷に撃たれるような衝撃が彼女を襲った。そして彼女は決心した。あとは、さすが三浦綾子というべきか、旧約聖書に真剣に取り組み始めたのでした。ところで話は変わりますが、三浦綾子は1999年に77歳で亡くなりました。その時までに本をたくさん書いていたのはもちろんです。なお、流行作家と言われるほどその死後は、その作家の本は書店の店頭からあっという間に消えてしまいます。しかし、三浦綾子の主要作品のいくつかは今もロングセラーとして棚に並べられています。そしてその中の一つに三浦綾子著『旧約聖書入門』という本もあるのです。
ところで、その本は光文社という出版社の文庫に入っています。調べると、この本の初版が出たのは1984年です。ところが今私の手元にあるのは、2021年発行で37刷となっているのです。さて、このことがどんなにすごいことかは、長年出版社で働いてきた自分にはよくわかるのです。というのも、文庫本の世界は出版各社同士の熾烈な戦いが日々繰り広げられているからで、その戦いに勝つためには少しでも売れなくなった本はすぐ引っ込めねばならないからです。ところが三浦綾子は死んでもう20年以上。それでも書店の棚に残っているのは例外中の例外の夏目漱石とか松本清張等々、そこに三浦綾子の『旧約聖書入門』も並んでいるからです。
つまりそのことは、彼女が雷に撃たれる体験をしたのち渾身を込めて書いた本が、日本人の心をいかにつかみ続けて来たかの証明となっているのです。それでは、その本のいちばん最初の部分だけ読んでみたいと思います。
さて、旧約入門ですから創世記から始まっています。従って、天地創造を取り上げるのですが、彼女はこう考えるのでした。神は人間を造ったのだが、その人間は神に似ていたと書かれている。なぜ聖書はそういう書き方をするのか。
そこで彼女は考えました。私たちだって、生まれた子どもが自分にそっくりと言われたら、ものすごい愛着の気持ちが湧くのではないだろうか。だから神も、生まれた人間がご自分にそっくりなのを見て、思わず目を細め、いとしく思われたということなのである。つまり聖書の天地創造は、神のそういう思いと表情が思い浮かんでくるような書き方がされているのである。
この年も私たちは、天地創造の神を仰ぎ見つつ各自歩みを進めてゆきたいものでございます。
主の洗礼日
イザヤ42:5、10~13,使徒10:34~43,マタイ3:13~17
今は決断の時
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
改めて、明けましておめでとうございます。
ところで今年の干支は兎ですが、聖書に兎は出てくるのか。調べてみたらいました。旧約聖書の箴言の30章26節の岩狸という動物が兎の仲間だと分かったからです。正式名はハイラックス。アフリカや中東に生息。耳が大変短いので狸と見えなくもないが兎です。長崎は西海市のバイオパークで飼育されているので、日本でも聖書の兎を見ることができる。そういうことが分かりました。
ところで、いま読んだイザヤ書42章は、新年早々の私たちにふさわしいという気がいたします。すなわち「主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ、地とそこに生ずるものを繰り広げ、その上に住む人々に息を与え、そこを歩く者に霊をあたえられる」。年の初めの私たちも、まず天地創造の神を思うことから始めたいからです。
さて、本日のイザヤ書は、さらに「新しい歌を主に向かって歌え」と呼び掛けていました。ただ、神を思うだけでなく、その思いを歌にする。私たちも本日そのようにしているのであります。
ところで、イザヤ書といえば、イエスがイザヤ書を読んだという話が出てきます。それは、ルカによる福音書4章の16節以下に書かれています。ある安息日に彼は礼拝のためナザレの会堂に行きます。すると人々から聖書を読むよう求められたのでイザヤ書を読んだというのです。
なお、イエスが読んだ個所はこう書かれていました。「主の霊が私の上におられる。……主がわたしに油をそそがれたからである」。ところで「主が油を注ぐ」は今の洗礼にあたります。それでは、イエスが油注がれるすなわち洗礼を受けるとどうなるのか、それもルカ4章には書かれています。すなわち、「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を、圧迫されている人を自由にする」というのでした。つまり、そういうことも預言者イザヤは言っていた、今それがイエスの洗礼で実現するとルカは言うのでした。
ところで、クリスチャンの作家、三浦綾子は、若い頃洗礼を受けて、とても熱心な教会生活を送っていましたが、ある日とてもショッキングな体験をしました。それは、礼拝の中で誰かが聖書の朗読を聞いていた時でした。というのも、その時朗読されていた聖書が今私たちが考えているルカ福音書4章の個所だったのですが、普段の自分だったらそこは軽く聞き流していたと思うのだが、その日だけは違っていたからでした。
どういうことかというと、彼女はイエスがイザヤ書の朗読をしたという箇所に引っかかってしまったからです。なお、彼女も彼女なりのキリスト教の基礎知識はあって、イエスの時代の聖書といえば旧約聖書しかなかったことは知っていました。しかしまた彼女が知るイエスは、子どもの時から人一倍聖書に親しんでいたのでした。しかし、子どものイエスが読んでいたのが旧約聖書だったとは、彼女はこの時まで考えたこともなかったのでした。
さて、それまでの彼女は、誰かから「あなたは聖書を読んでいますか」と聞かれたら、ためらわず「はい、読んでいます」と答えるクリスチャンでした。しかし、読んでいるはずの聖書の内の旧約聖書は、もうしわけ程度の読み方しかしていなかったのでした。
まるで雷に撃たれるような衝撃が彼女を襲った。そして彼女は決心した。あとは、さすが三浦綾子というべきか、旧約聖書に真剣に取り組み始めたのでした。ところで話は変わりますが、三浦綾子は1999年に77歳で亡くなりました。その時までに本をたくさん書いていたのはもちろんです。なお、流行作家と言われるほどその死後は、その作家の本は書店の店頭からあっという間に消えてしまいます。しかし、三浦綾子の主要作品のいくつかは今もロングセラーとして棚に並べられています。そしてその中の一つに三浦綾子著『旧約聖書入門』という本もあるのです。
ところで、その本は光文社という出版社の文庫に入っています。調べると、この本の初版が出たのは1984年です。ところが今私の手元にあるのは、2021年発行で37刷となっているのです。さて、このことがどんなにすごいことかは、長年出版社で働いてきた自分にはよくわかるのです。というのも、文庫本の世界は出版各社同士の熾烈な戦いが日々繰り広げられているからで、その戦いに勝つためには少しでも売れなくなった本はすぐ引っ込めねばならないからです。ところが三浦綾子は死んでもう20年以上。それでも書店の棚に残っているのは例外中の例外の夏目漱石とか松本清張等々、そこに三浦綾子の『旧約聖書入門』も並んでいるからです。
つまりそのことは、彼女が雷に撃たれる体験をしたのち渾身を込めて書いた本が、日本人の心をいかにつかみ続けて来たかの証明となっているのです。それでは、その本のいちばん最初の部分だけ読んでみたいと思います。
さて、旧約入門ですから創世記から始まっています。従って、天地創造を取り上げるのですが、彼女はこう考えるのでした。神は人間を造ったのだが、その人間は神に似ていたと書かれている。なぜ聖書はそういう書き方をするのか。
そこで彼女は考えました。私たちだって、生まれた子どもが自分にそっくりと言われたら、ものすごい愛着の気持ちが湧くのではないだろうか。だから神も、生まれた人間がご自分にそっくりなのを見て、思わず目を細め、いとしく思われたということなのである。つまり聖書の天地創造は、神のそういう思いと表情が思い浮かんでくるような書き方がされているのである。
この年も私たちは、天地創造の神を仰ぎ見つつ各自歩みを進めてゆきたいものでございます。