ももちゃんの面白古代史

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コメ(稲作)のルーツは日本 ・説明

2017-01-07 22:30:29 | モチ米・松本神田地域...
コメ(稲作)のルーツは日本・説明2017・1・7
・コメ(稲作)のルーツは日本と考えた出土品は日本の中で縄文時代という時代の中で、絶対の権力(金・信者・権力)を持っていた「お諏訪様」の文化の中にあって、縄文時代の文化の繁栄を支えたものは単に土器を作っていただけではなかった。その一つが製鉄技術であり(諏訪大社上社)コメ(稲作)によって食文化の覇者(諏訪大社下社)だったことがあげられると考えます。その実証としての出土品や遺跡。その中で岡谷市橋原遺跡から多量の炭化米の出土から納得できるものですが、橋原遺跡は弥生時代中期頃に時代設定されています。その件について以下もう少し突っ込んで検討してみました。
・さてジャポニカ米のルーツと筆者が考えた「岡谷・橋原遺跡」に無理な依頼をして発掘報告書の写しを送っていただいて感謝です。その中19号住跡から櫛描波状紋の埋甕出土、他の住趾も埋甕炉で出土土器は櫛描波状紋・櫛描単線文・同心円文・簾状文などの模様と他、炭化物の出土する場合も多い。赤い土器も幾つかの住跡から出土している。
・13号住跡は若干の縄文土器以外は弥生土器片。内外器面に刷毛目痕土器も出土。口縁内部に籾痕のある破片が出土している。
・大阪・上野山遺跡水飲み場跡でも籾痕の土器(下の写真・右コピー) 
<埋甕炉・時代推定>埋甕炉
・岡谷・橋原遺跡の炉は判明しているのは埋甕炉が出土している。橋原遺跡から多量の炭化米が出土しているが、田の遺構は未だ出土がないことからコメの他からの持ち込みも考えられるが、縄文時代中期頃と推定されるこの時代に、この量と半数以上の住居跡からの出土は近辺の地から持ち込まれたと考えられる。橋原遺跡は天竜川河口の水辺の遺跡で、近くの温泉水で育った可能性が強い等条件が揃っているので近辺で栽培されたと考えられている。
・岡谷橋原遺跡の炉跡は分かっている全てが埋甕炉のようだが、埋め甕の模様は櫛描波状紋・櫛描単線文・同心円文・簾状文などの模様の出土と他、炭化物出土も多い。赤い土器も幾つかの住跡で出土している。
・竜安寺川西遺跡(山梨県)
・縄文時代中期前半(約4,500年前)の竪穴住居跡(4号住居跡)から埋甕炉を発見した。埋甕炉は住居の床面を掘り、下半部を打ち欠いた土器を埋め内側で火を焚く施設で、縄文時代中期によく見られる炉の形で、埋甕炉は竪穴住居跡の中央部からやや北寄りにあり、土器の縁の部分がほぼ完全な形で残っている。埋甕炉の周辺には赤く焼けた石が散乱していたから、本来は土器の周囲を石で囲った石囲い埋甕炉であった可能性も考えられる。(ネットコピー情報)
・鬼釜遺跡・鬼釜古墳(飯田市上久堅)
・縄文時代の竪穴住居跡には住居の出入口に土器(埋甕)が設置されていた。縄文時代の竪穴住居跡の炉は炉の中に何重にも土器片を重ねてあり、炉の縁には比較的小さな破片、炉の中央に大きな破片が設置してある。炉の縁には火で焼けた痕跡(赤い部分)が見える。(ネットコピー情報)

・北代縄文館(富山県富山市北代)(第76号)
・広場の整備で遺跡南西部を調査。竪穴住居跡1棟(第76号)を確認。住居は縄文時代中期前葉のもので、床は固く叩きしめられ、埋甕炉があった。埋甕炉は深鉢形土器の下半を使用し底部を抜いて利用していた。甕の中には焼土・炭化物のほか、小石位の大きさの焼けた粘土の固まりが多数入っていた。写真は出土した埋甕炉
  ・・・
・以上幾つかの遺跡の埋甕炉の時代は縄文時代中期前葉とか中期によくみられる炉の形として時代設定されている。
<櫛描波状紋>
・では埋甕炉から出土土器の模様や時代は何時か、他の遺跡などの土器と比較した。
朝日遺跡・名古屋

弥生中期・・Ⅱ期は同じ壷に二枚貝施紋、沈線紋が施され、二枚貝施紋の卓越、遠賀川系類似土器の伴出など。Ⅲ期に施紋が櫛描紋となり、単純口縁細頸壷が定着。
 弥生中期4期・・壷には、沈線文に櫛描紋帯と研磨帯を交互に施す手法が確立した。流水紋もみられるがこの時期の半ばには消失する。
・中期5期・・壷は研磨手法と櫛描紋が分離する特徴がみられ、甕は条痕調整が消失 し、ハケ調整の甕が優勢となる。台付甕はこの時期の後半に出現すると考えられる。
・岡谷橋原遺跡・・埋甕炉の模様は櫛描紋等で時代は弥生時代中期後半とされている。
・櫛描波状紋・櫛描単線文のある朝日遺跡や橋原遺跡では時代が弥生時代中期から後期に時代設定され紀元後1世紀頃の時代が与えられている。
・埋甕炉の時代は縄文中期前半から後半として時代設定されている。縄文中期前半から後半は紀元前3500年-紀元前4000年頃で出土各住跡で埋甕炉が出土するから一般的な風習だった。埋甕炉に使われた甕は弥生時代に時代設定されている。(筆者は火を囲う技術の一つ→進歩と考えるので風習というより技術の一つと考えている)
・問題は埋甕炉と埋甕炉に書かれた模様との時代差が3000年前後のずれがあるという事実。また当時の土器模様は勢力なり部族のシンボルの一つと考えられるので、弥生土器とされる土器が共伴出するなら、弥生土器とされた土器の時代設定、又は埋甕炉という風習の時代設定のどちらかに間違いはないだろうか。このズレがその後の日本史を混乱させた大元の原因のようだ。
・何故この時代のズレを見過ごしているか。それは稲作(米)のルーツは中国で、弥生時代に日本板付遺跡など九州に伝来したという学説(根拠は不明確)に拠っていると解ります。
・問題はもう一つ。気象学として弥生時代は日本は寒冷化が進んだ時代で、温暖気候を好む「稲作」が、寒くなった弥生時代に東北の青森まで伝播すだろうか?。今のように品種改良が進んでいない時代に寒冷化の強くなった東日本・北日本に稲作文化が伝わるはずがない。気象学を信じるなら、温暖だった縄文時代の中期後半頃までには稲作文化は日本の北の果ての青森までも伝播して行っていたと推定できます。だから弥生時代という寒冷化時代は東日本の文化は沈滞し、西日本で銅鐸や銅鏡文化など活発な文化時代を迎えたと推定できます。
・縄文文化だった信州山岳地帯は縄文文化勢力が強かったから弥生時代まで縄文文化が存在し、紀元後2世紀頃にやっと赤い弥生土器文化が伝来したという時代設定が行われたようだ。だが逆に縄文文化が活発だったから新文化の稲作の交流が早くからあった可能性が強い。赤い弥生土器文化は信州では何処よりも早い時代に地元の長野方面から発達した文化だ。赤い土器文化は遠賀川式土器というが、その前に名古屋の朝日遺跡のパレススタイル土器や長野の栗林式・箱清水土器は縄文中期には開発され流行を生んでいた感が強い。何故なら写真のように縄文模様の赤い土器が出土していることで言える。
・埋甕炉の時代は考古学上は縄文中期に時代設定されている。
・橋原遺跡は埋甕炉が多くの住跡から出土する。だがこの橋原遺跡の時代設定は炭化米が出土するから、常識としてコメは日本に中国から伝来し九州板付け遺跡などに入った。だから信州まで伝来するには時間がかかり、赤い土器も出土しているから櫛描波状紋等は縄文中期後半模様だが、コメ伝来説重視した結果、橋原遺跡を弥生中期から後期に時代設定したのが事実ではないか?。弥生時代のコメが九州から遠い信州での出土は伝来が遅れて弥生中期後半時代として時代設定してしまったということらしい。
・だが気象学上では弥生時代は今より3-4度は低温だったという定説がある。高地で低温の信州の松本や長野等で稲作文化が根付くだろうか。気象学上では長野県の稲作文化は弥生時代に伝来は(極言すれば)有りえない。一方長野では赤い土器や黒色土器等と共伴出して稲作の遺跡が多く出土している。
・ここで土器模様から見て縄文中期後半であるべき遺物=稲作は、常識を検証することなく解明されていない説=稲作は弥生時代に旧習に中国等から伝来した・という常識になっていた説に左右され疑問を残したまま朝日遺跡や橋原遺跡など弥生土器の時代を設定してしまった。ということではないのか。
・橋原遺跡は判明・出土している炉は埋甕式炉だという事実。埋甕炉は上記したように他の遺跡では縄文中期頃の炉として時代設定されている。橋原遺跡は土器模様も炉の形式も本来の時代設定では縄文中期の出土品と言えると考えられる。長野県や名古屋の朝日遺跡等では弥生時代中期に位置付けられていることに大きな疑問が残された。
    縄文模様の赤い土器。
<結論>
・以上から岡谷・橋原遺跡出土炭化米の時代は縄文中期の時代と言える。稲作文化のルーツ地は「藤原氏のルーツを追って・彩流社」で書いたように伊那谷にあると新説を主張するが、岡谷・橋原遺跡は水稲稲作のルーツ地(正確には諏訪大社に奉納する米の稲田がルーツ地)と言うことになる。
・後に時代設定をした人(研究者や学者)が事実に基づかない非科学的で勝手に決めた時代設定だと考えますが?!。櫛描紋土器が他の遺跡では縄文中期に時代設定されたり弥生時代に時代設定されたり、有り得ないことだと考えます。
・以上岡谷市・橋原遺跡出土の炭化米の実時代は①土器模様から②埋甕炉の時代の検討から③気象学的にみて、縄文時代中期から中期後葉頃に時代設定できる。ゆえに日本の稲作・コメ文化は紀元前3000年頃(5000年程前)の出現と言えるだろう。
・また世界的なコメのルーツにまで検討は及ばないので、ジャポニカ米のルーツは日本伊那谷・稲作のルーツは岡谷市橋原遺跡と周辺地域という結論だといって大きな間違いはないと考えました。写真を載せられなくてすみません