NEST OF BLUESMANIA

ミュージシャンMACが書く音楽ブログ「NEST OF BLUESMANIA」です。

音曲日誌「一日一曲」#452 メンフィス・スリム「Nobody Loves Me」(Miracle)

2024-07-01 07:40:00 | Weblog
2024年7月1日(月)

#452 メンフィス・スリム「Nobody Loves Me」(Miracle)




メンフィス・スリム、1949年リリースのシングル曲(B面)。ピーター・チャットマン(メンフィス・スリム)の作品。

米国のブルースシンガー/ピアニスト、メンフィス・スリムことジョン・レン・チャットマンは1915年9月テネシー州メンフィス生まれ。

彼はピアノを習得、30年代よりウェストメンフィス、アーカンソー州、ミズーリ州南東部の酒場、ダンスホール、賭博場で演奏して生計を立てるようになる。

1939年、シカゴに移住、その地のリーダー的存在だったビッグ・ビル・ブルーンジー(1893年生まれ)と組んで活動する。

翌40年、オーケー(Okeh)レーベルで初レコーディング。この時よりピーター・チャットマンという自分の父親の名前で作曲するようになる。

同年と翌41年、ブルーバードレーベルでレコーディング。同レーベルのプロデューサー、レスター・メルローズの命名により、出身地にちなんだメンフィス・スリムの芸名を使うようになる。

同レーベルの常連セッション・ミュージシャンとして、サニーボーイ・ウィリアムスンI、ウォッシュボード・サム、ジャズ・ジラムらのバッキングもつとめる。

第二次大戦終了後、リズム・セクションを含むジャンプ・ブルースのバンドを作り、シカゴの独立系のレーベルで活動する。

ハイトーンレーベルを経て、46年秋にミラクルレーベルと契約。初レコーディング曲の「Rockin’ Boogie」からとってメンフィス・スリム&ザ・ハウス・ロッカーズを名乗る。

このレーベルからリリースした4枚のシングルが連続ヒットして、メンフィス・スリムはある程度の商業的成功を収め、名前も知られるようになる。

本日取り上げた一曲はそれらヒット曲のひとつ、「Angel Child」(49年リリース、R&Bチャート6位)のB面に収録された「Nobody Loves Me」である。

この曲は音源を聴けば、みなさん、すぐにお分かりいただけるだろう。そう、ブルース・スタンダード中のスタンダード、「Every Day I Have the Blues」そのものである。

この曲のオリジナルは、実は1935年に世に出ている。歌い手はパイントップ・スパークス。彼は1910年生まれで30年代にセントルイスで活躍したピアニストだ。35年、25歳の若さで亡くなっている。

彼と実の兄弟ミルトン・スパークスにより作られた本曲は、パイントップとギターのヘンリー・タウンゼントのふたりでレコーディングされた。パイントップの繊細なファルセット・ボーカルが、なんとも特徴的な一曲である。

このオリジナル・バージョンはヒットに至らなかったのだが、当時南部で活動していた頃のメンフィス・スリムには、相当強烈な印象が残ったと思われる。

10年以上の歳月を経て、彼はこの曲のリメイクに着手する。歌詞は冒頭の1コーラスは残したが、あとは自分で書き直した。彼が新たに加えた部分の歌詞「Nobody Loves Me」が新しいタイトルとなり、また歌はファルセットではなく、通常の音域で歌われた。演奏はホーン・セクションも含むハウス・ロッカーズ。

こうやってリリースされたメンフィス・スリムのB面バージョンは、チャートインすることはなかった。しかし、同業者に注目されることになる。ローウェル・フルスン(1921年生まれ)である。

フルスンは翌50年に、ロイド・グレン楽団をバックにレコーディング、これが見事にヒットしてR&Bチャートの3位にランクインしたのである。

フルスンのシングルでは、タイトルは「Everyday I Have the Blues」を使ったが、クレジットはチャットマンの方になっている。つまり、歌詞はメンフィス・スリム版を採用したのだ。

以降、本曲は「Everyday I Have the Blues」というタイトル、歌詞はメンフィス・スリム版でカバーされることがもっぱらとなった。「メンフィス・スリムの曲」として定着したのだ。

カバーしたアーティストは膨大な数になるのでここで逐一上げるのはやめておくが、とりわけB・B・キング、ジョー・ウィリアムズ(ジャズ歌手の方)のふたりは、本曲を十八番として何度となく歌い、曲をさらに世に広めたシンガーとして挙げておきたい。

現在でも世界各地で、プロ・アマ、ライブ・ジャムセッションを問わず、毎晩演奏されているキラー・チューン。「ブルースをほぼ知らない人でも、この曲だけは知っている」とさえ言われる有名曲となり、75年もの長きにわたって愛されている。

もし、メンフィス・スリムによって聴きやすい形にリメイクされることがなければ、おそらくそんな風にはなっていなかったはずだ。

もちろん、原曲の良さ、ブルースな日常をとらえた歌詞の秀逸さもあってこその人気だろうが、2番以下の新しい歌詞の持つ、強い魅力は無視できない。

「誰も私を愛してくれない、誰も気にしてくれない」、これほどまでに聴き手の心を抉り、掴んでくる歌詞はそうそうにあるものではないと、筆者は思うのである。

ピアノの落ち着いたテンポでの演奏、少し高めの声で歌われるメンフィス・スリム版は、スピーディな演奏スタイルのBBあたりとはまたひと味違った、大人っぽい円熟したムードを持っている。

文字通りブルースらしさを一曲で体現したブルース。ブルース中のブルース。この一曲を堂々たる完成品に磨き上げた功績だけでも、メンフィス・スリムは一流のミュージシャンであると評価していい。

その後の彼の活躍についてはここでは触れずにおくが、ぜひみなさんの方で、50年代から80年代末に至るまでの、その膨大な作品群のほんの一部だけでもいいので聴いてみてほしい。






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音曲日誌「一日一曲」#451 ジョニー・シャインズ「Sweet Home Chicago」(Testament)

2024-06-30 08:00:00 | Weblog
2024年6月30日(日)

#451 ジョニー・シャインズ「Sweet Home Chicago」(Testament)





ジョニー・シャインズ、1966年リリースのアルバム「The Johnny Shines Band」からの一曲。ロバート・ジョンスンの作品。

米国のブルースマン、ジョニー・シャインズことジョン・ネッド・シャインズは1915年4月、テネシー州フレイザー生まれ。幼少期、母親からギターを習い、メンフィス周辺の酒場や路上でスライド・ギターを弾いていた。

1932年、17歳の頃アーカンソー州ヒューズに移住、3年間農場で働いた。35年頃、旅回りのブルースマン、ロバート・ジョンスン(1911年生まれ)と出会ったことで、再びミュージシャンの道に戻る。ジョンスンと共にシカゴ、テキサス、ニューヨーク、カナダ、ケンタッキー、インディアナなどを旅することとなる。

ジョンスンとは彼が亡くなる1年前の1937年に別れ、南部全域で演奏活動を行う。昼間は建設工事の仕事、夜は酒場での演奏という生活を続ける。

20代半ば、41年にシカゴに移住、その地でプロミュージシャン達との交流が始まる。46年にコロムビアレーベルで初のレコーディングを行ったが、レコード化はされなかった。

30代半ばの50年10月にはチェスレーベルでリトル・ウォルターらのバッキングを得て、シュー・シャイン・ジョニーの芸名でレコーディングしたが、これもリリースに至らなかった(のちに70年リリースのコンピレーション・アルバム「Drop Down Mama」にその2曲が収められて、ようやく日の目を見ることになる)。

1952年、JOBレーベルでの初アルバムがようやくリリースされる。内容はベストな演奏だったが、セールス的には全く振るわず、以後のリリースもなかった。音楽業界に不満を抱いたシャインズは、機材を売却して再び建設工事の仕事に戻ってしまう。実質的なプロ引退である。

60年代の半ば、50代に差しかかっていたシャインズは、シカゴのブルースクラブにいたところ、偶然発見されて業界に引き戻されることになる。

66年、ヴァンガードレーベルが企画したアルバム・シリーズ、「Chicago/The Blues/Today!」の第3巻にジョニー・シャインズ・ブルース・バンドの演奏が収められて、シャインズは再び注目されるようになる。メンバーはシャインズのほか、ハープのビッグ・ウォルター・ホートン、ベースのフロイド・ジョーンズ、ドラムスのフランク・カークランド。

その時期から、主にビッグ・ウォルターをフィーチャーしたメンツでレコーディングやライブを行うようになる。本日取り上げた一曲「Sweet Home Chicago」が収められたアルバム「The Johnny Shines Band」(マスターズ・オブ・モダン・ブルースというシリーズの1枚)もまたそんな一枚である。レーベルは63年創設の、新興のテスタメント。

レコーディング・メンバーは、ボーカル・ギターのシャインズ、ハープのビッグ・ウォルター、ピアノのオーティス・スパン、ベースのリー・ジャクスン、ドラムスのフレッド・ビロウ。チェス時代に知り合った旧友も含むラインナップである。

このメンツで主にシャインズ自身のオリジナルをやっているのだが、実際にはマディ・ウォーターズをはじめとするデルタ・ブルースマンの代表曲を歌詞だけ変えた、いわば本歌取りしたようなものがほとんどである。

「Sweet Home Chicago」はいうまでもなく、ロバート・ジョンスンの代表曲、というかブルース・スタンダード中のスタンダードである。歌詞も過去の数曲から影響を強く受けており、ジョンスンのオリジナルというよりは、ある意味トラディショナル・ナンバーに近いとも言える。

オリジナルは37年にジョンスンひとりの弾き語りでレコーディングされたが、58年にリトル時代のジュニア・パーカーがアップテンポのシャッフルにアレンジしてシングルリリース、大ヒットしたあたりから、そのスタイルが一般化する。

そして、67年にマジック・サムが再びカバーしたバージョンが、現在に至るスタンダードなスタイル(例えばブルース・ブラザーズ)になったと言えるだろう。

シャインズはマジック・サムに1年先立つかたちでこの曲をレコーディングしたことになる。テンポやアレンジは概ねジュニア・パーカー版に準じたものであるが、シャインズのギター・プレイは正統派のシカゴ・ブルースというよりは、どこかデルタ・ブルースの匂い、すなわちロバート・ジョンスンからの流れを強く感じさせるものがある。

シャインズとジョンスンとの交流は約30年前の過去のものであったが、20歳になったばかりの若いシャインズにの目には、ジョンスンの特異なギターの才能が、強烈なものに映ったに違いない。その古い記憶が、シャインズのギター・プレイに終生、影響を与え続けたのではないだろうか。

ここでもうひとつ、シャインズによる本曲のプレイを聴いていただこう。アコースティック・ギターによる演奏バージョンである。これはDVD「Legends of Delta Blues」に収められた映像であるが、歌にせよ、ギター・プレイにせよ、完全にロバート・ジョンスン・スタイルである。

シャインズにとって見れば、「Sweet Home Chicago」という曲は、まず自分が間近に目撃したロバート・ジョンスンの演奏がデフォルト・バージョンなのである。バンドでの演奏にも、その影響が濃く出るのは必然であった。

その後シャインズはウィリー・ディクスン率いるシカゴ・オールスターズのメンバーに抜擢される。つまり、シカゴ・ブルースの代表アーティストとして、認められたのである。

また、ロバート・ジョンスンの後継者ともいえるロバート・ジュニア・ロックウッドとも共演して、ツアーに出るようになる。

こうしてシャインズは70年代には音楽活動が軌道に乗り、コンスタントにアルバムをリリース出来るようになる。だがそうなってからも、シャインズはアコースティック・ギター、デルタ・ブルース・スタイルでのレコーディングを時折り行っている。自らの出発点を、忘れる事なく守り続けたのである。

シャインズは1991年、76歳でアルバム「Back to rhe Country」をリリースするまで、現役ミュージシャンであり続け、翌年4月に亡くなっている。

その堅実で確実なギター・テクニック、そして野太く力強いボーカル。華々しいスポットライトが当たることはほとんどなかったが、彼こそは、ブルースマン中のブルースマンであると、筆者は思う。

ひとつのこと、ひとつのスタイルを死ぬまでとことんやり切る、この一途な生き方がシャインズを「本物」にした。

伝説のブルースマン、ロバート・ジョンスンと共に各地を旅した男、ジョニー・シャインズもまた、ブルース100年の歴史を支えた、最重要人物のひとりである。ぜひ、奇跡的カムバックを遂げた頃の歌とギターを、じっくり聴いてほしい。






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音曲日誌「一日一曲」#450 リトル・ウィリー・ジョン「Fever」(King)

2024-06-29 07:44:00 | Weblog
2024年6月29日(土)

#450 リトル・ウィリー・ジョン「Fever」(King)




リトル・ウィリー・ジョン、1956年5月リリースのシングル・ヒット曲。ジョン・ダヴェンポート(オーティス・ブラックウェル)、エディ・クーリーの作品。ヘンリー・グローヴァーによるプロデュース。

米国のR&Bシンガー、リトル・ウィリー・ジョンことウィリアム・エドワード・ジョンは1937年11月、アーカンソー州カレンデール生まれ。10人兄弟のひとりであった。4歳の時、父親が仕事を見つけるため、一家がミシガン州デトロイトに転居。

40年代後半、彼を含む年長の子供たちはゴスペルグループを結成し、タレントショーにも出て、人気シンガーのジョニー・オーティスやプロデューサーのヘンリー・グローヴァーに見出される。

55年、わずか17歳でキングレーベルと契約。小柄なジョンは「リトル・ウィリー」という芸名で呼ばれることになる。

初のシングルは、同年リリースのジャンプ・ナンバー「All Around the World」。これはR&Bシンガー、タイタス・ターナーの自作曲のカバーだったが、いきなりR&Bチャート5位のスマッシュ・ヒットとなり、以来彼の快進撃が始まる。

続いて56年、ゴスペル調のバラード「Need Your Love So Bad」でR&Bチャート5位と連続ヒット。この曲はジョン自身と実弟マーティス・ジョン・ジュニアの共作。ジョンは曲作りも手がけていたのである。この曲は68年にフリートウッド・マックによりカバーされ、ピーター・グリーンが名唱を残している。

さらに同年5月、R&Bチャートで3週連続1位、全米でも24位というジャンルを超えた大ヒットを出す。それが本日取り上げた一曲「Fever」である。

この曲はソングライターのオーティス・ブラックウェルとエディ・クーリー(共にシンガーでもある)が組んで作られた。契約の関係でブラックウェルはジョン・ダヴェンポートという別名を使っている。

ジョンはマイナー調のソウルナンバーであるこの曲を当初は気に入らず、録音を躊躇したようだが、レーベル社長らの説得を受けて3月にレコーディングした。

メンバーはジョンのほか、ピアノのジョン・トーマス、ギターのビル・ジェニングス、ベースのエドウィン・コンリー、ドラムスのエデイスン・ゴア、テナーサックスのレイ・フェルダー、ルーファス・ゴア。

リリースされるや反響は大きく、瞬く間に100万枚を売り上げてしまう。放送音楽協会(BMI)から最優秀R&B楽曲賞も獲得している。

この曲はポップチャートにも食い込んだことで、他ジャンルのアーティストからも注目され、カバーされるようになる。その代表例は、なんといっても白人女性シンガー、ペギー・リーによるカバー・バージョンだろう。

リーはオリジナルリリースの翌々年である58年6月にシングルリリース、全米8位の大ヒットとなり、彼女最大のヒット曲ともなった。テンポはジョンのオリジナルより少し遅めである。

この曲ではリー自身により歌詞が大幅に書き直されており(クレジットはなし)、女性の心理によりフィットした内容にリメイクされているのが特徴である。

その後、この歌詞がオリジナルよりも、むしろスタンダードとなる。例えば60年のエルヴィス・プレスリーによるカバーも、リーの歌詞を用いている。

リー版の「Fever」は59年のグラミー賞において、3部門にノミネートされた。「Fever」といえば、ペギー・リーの曲とまでなったのである。筆者も、彼女のバージョンでこの曲を初めて知ったという記憶がある。

その後93年3月、マドンナが久しぶりにカバーシングルをリリースして、ダンス・クラブ・チャートで1位のヒットとなっている。マドンナ以外でもクリスティーナ・アギレラ、ビヨンセもカバーしており、女性シンガーの支持度が意外と高い一曲といえる。

「Fever」で見せるジョンの歌唱力は、なかなかのものだ。ただ若くて勢いがあるだけでなく、少しハスキーな声で高めのキーに挑戦してなんとか歌い切るところに、歌い手としての強い色気を感じさせる。モーン(呻き)の箇所の表現も、いい感じである。

このビッグ・ヒットにより、ジョンの将来は安泰そのものかと思われた。しかし、現実には必ずしも順風満帆とはいかなかったのである。

ジョンは60年代の初頭まではR&Bチャートのトップテン級のヒットを出していた。例えば「Talk to Me, Tail to Me」(58年)、「Let Them Talk」(59年)、「Sleep」(60年)などである。

しかし、彼のオフステージのすさんだ行動がそれらの名誉を台無しにしてしまう。アルコールに溺れ、癇癪もちの性格からしょっちゅう喧嘩沙汰となり、麻薬、詐欺、重窃盗といった犯罪で何度も逮捕されるようになる。

そしてこれらの悪行に業を煮やしたキングレーベルから、ついに63年に契約を解除されてしまうのである。

とどめは64年にシアトルで起こした殺人事件であった。前科持ちのならず者に絡まれての正当防衛だったとはいえ、人を刺し殺してしまったことで彼の人生は詰んでしまった。

68年5月、服役していたワシントン州刑務所内で、ジョンは心臓発作によりこの世を去ることになる。

若くして得た名声も、血の気の多い性格が災いして、全てフイにしてしまったリトル・ウィリー・ジョン。

有り余る歌の才能、表現力を持っていただけに、その末路は本当に残念なものがあった。

ジョンに影響を受け、その才能を高く評価していたジェイムズ・ブラウンは、彼の死後ただちにトリビュート・アルバム「Thinking About Little Willie John and a Few Nice Things」をリリースしている(68年12月)。そのくらい、ジョンはソウルのパイオニアとして、重要な存在であったのだ。

その後、96年にロックの殿堂入りを果たし、また2014年、16年にはR&B音楽の殿堂入りするなど、彼の功績は讃えられて、名誉も回復した。2008年には亡くなる前にレコーディングされたアルバム「Nineteen Sixty Six」もリリースされている。

多くのアーティストにカバーされる名曲をいくつも持つ、悲劇のR&B/ソウルシンガー、リトル・ウィリー・ジョン。ぜひこの機に思い出して、その名唱をかみしめてくれ。






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音曲日誌「一日一曲」#449 サント&ジョニー「Sleep Walk」(Canadian-American)

2024-06-28 07:26:00 | Weblog
2024年6月28日(金)

#449 サント&ジョニー「Sleep Walk」(Canadian-American)




サント&ジョニー、1959年8月リリースのシングル・ヒット曲。サント・ファリーナ、ジョニー・ファリーナ、アン・ファリーナの作品。レナード・ジマーによるプロデュース。

米国のインストゥルメンタル・ロック・デュオ、サント&ジョニーは実の兄弟、サント・アンソニー・ファリーナとジョン・スティーヴン・ファリーナのふたりである。サントは1937年10月、ジョンは41年4月、ニューヨーク州ブルックリンにてイタリア系米国人として生まれている。

父親は第二次世界大戦時に陸軍に従軍、駐留地のオクラホマでラジオから流れるハワイアンのスティールギターを聴き、「息子たちにこの楽器を習わせたい」と思い立ったという。

父親は復員後、ハワイアンを演奏出来る音楽教師を見つけて息子たちにスティールギターを習わせた。サントはアコースティックギターを改造して、ラップスティールとして弾くようになる。

さらにはギブソン製の6弦スティールギターも入手、サントは10代の半ばにはアマチュアショーで演奏するまでの腕前になる。彼は曲を作り、ギタリスト、ドラマーと共にトリオを結成して地元のダンスパーティなどで、オリジナル曲、ハワイアンの曲をとり混ぜて演奏する。

サントはそのギャラでついに3本ネックのフェンダー製スティールギターを購入して、さらに腕を磨いていく。

また、弟のジョニーも53年、12歳でエレキギターを入手して兄の伴奏をつとめるようになる。ふたりはサント&ジョニーという名でデュオを組み、学校、さらには地域のイベントなどで人気を獲得していく。

彼らはプロデビューを夢見てデモテープを録音し、レコード会社に送るなどしていた。だが、すぐにはその願望は叶わなかった。

59年、サント21歳、ジョニー18歳の時、ついにチャンスが訪れる。ある日、ライブを終えた後、興奮で眠れなかったふたりはジャムセッションを始めて、一編の曲を作り上げ、デモ録音した。これはイケる、という感覚が彼らに生まれた。

これを元にきちんとしたメロディを加えて完成させたのが、本日取り上げた一曲「Sleep Walk」である。

マンハッタンのトリニティ・ミュージックのスタジオで、兄弟とドラムス担当の叔父マイク・ディーの3人により録音され、新興レーベルのカナディアン・アメリカンより本曲がシングル・リリースされたのが同年の8月。

これにさっそく火が付いた。ロックンロールのDJとしてあまりに有名なアラン・フリードが紹介したことも手伝って、8月17日付けのビルボードでトップ40入りとなった。そして9月の最後の2週で連続1位という、大ヒットとなったのである。全英22位、カナダ3位、またゴールド・ディスクも獲得している。

クレジットには、当時すでに結婚していたサントの妻、アンも名前を連ねているが、実際には兄弟ふたりだけで作曲したという。

まったく無名のデュオが、デビュー曲(しかもインスト)でこれだけのビッグ・ヒットを飛ばすことはごく稀であったが、それもひとえに、この曲のハワイアン・フレーバー漂うメロディの美しさと、それを奏でるスティールギターの音色の強い魅力によるものだろう。

サント&ジョニーは、一夜にして時代の寵児となった。さっそく「Sleep Walk」を含む12曲を収めたデビュー・アルバム「Santo &Johnny」をリリース、またその中からシングル・カットされた「Caravan」(昨日本欄で取り上げたばかりの曲だ)も、全米48位のヒットとなった。

その後彼らは、60年代はコンスタントにアルバムをリリースし続けるが、ノンボーカルのインスト、しかもハワイアン色が強いそのサウンドは、次第に時代の流行からもズレてしまい、70年代以降はリリースもほぼ途絶える。

「過去の人」となってしまったサント&ジョニーだったが、それでもいわゆるインスト・バンドの走りとして、彼らが後のロックミュージシャンたちに与えた影響は結構大きい。

例えばインスト・ロックの代表格、英国のザ・シャドウズである。彼らは61年に本曲をカバー、ライブのレパートリーとしても長らく演奏することになる。

曲自体のカバーではないが、そのゆったりとした演奏スタイルは、フリートウッド・マックの「Albatross」やビートルズの「Sun King」に引き継がれることとなる。

時代は下って80年代にはフュージョン・ギタリストのラリ・カールトンがアルバム「Sleepwalk」(81年リリース)のタイトル・チューンとしてカバー。

その他、ジェフ・ベックやブライアン・セッツァーといったベテラン・ギタリストたちもカバーしており、本曲は完全にロック・スタンダード、インスト・スタンダードとなったと言える。

ただ、面白いのはいずれもエレクトリックギターによるカバーであり、オリジナルのスティールギターによるものではないことだ。スティールギター・サウンドの流行は、やはり一過的なもので、残念ながらロックの標準楽器にはなれなかったのである。

その後の英米のロックに強い影響を与えた、独自のサウンド。不思議な浮遊感がある彼らの音世界は、間違いなく唯一無二のものだ。

ヒットしてはや64年。ふたりの息の合った名演奏を、もう一度味わって見よう。






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音曲日誌「一日一曲」#448 チェット・アトキンス・アンド・レス・ポール「Caravan」(RCA Victor)

2024-06-27 07:58:00 | Weblog
2024年6月27日(木)

#448 チェット・アトキンス・アンド・レス・ポール「Caravan」(RCA Victor)




チェット・アトキンス・アンド・レス・ポール、1976年リリースのアルバム「Chester And Lester」からの一曲。デューク・エリントン、アーヴィング・ミルズ、フアン・ディゾルの作品。チェット・アトキンスによるプロデュース。

いうまでもなく、米国のトップ・ギタリスト二人によるコラボレーション・デュオである。

それぞれについて簡単に紹介しておこう。チェット・アトキンス、本名チェスター・バートン・アトキンスは1924年6月テネシー州ラトレル生まれ。高校中退後、プロのギタリストとなり、46年、22歳で人気カントリー・シンガー、レッド・フォーリーのバンドに加入、ナッシュビルで活躍する。

49年、カーター・シスターズのバッキングで名を上げ、54年、シングル「Mister Sandman」で初ヒット。55年からはギター・メーカーのグレッチ社と組んでカントリー・ジェントルマンという名モデルを生み出した。

一方、レス・ポールことレスター・ウィリアム・ポルスファスは1915年6月ウィスコンシン州ウォキショー生まれ。10代前半でセミプロのギタリストとなり、高校を中退してミズーリ州セントルイスのラジオ局でプロのカントリーバンドに参加する。

1934年にシカゴに移住、昼はカントリー、夜はジャズを演奏する。37年にギタリストのジム・アトキンス(チェットの異母兄)らとトリオを結成、ニューヨークへ移る。ビング・クロスビー、アンドリュース・シスターズらのバッキングなどもつとめる。

40年代からエレクトリック・ギターの自作に注力し、52年にギブソン社からレス・ポール・モデルを出し、以降さまざまな改良を加えていくことになる。

ざっとこんなところだが、とにかく二人の共通点はギターという楽器をこよなく愛して、とりわけ新時代のアイコン、エレクトリック・ギターの改良のために労を惜しまなかったこと、そしてレコーディング技術にも重きを置いて、エコーや多重録音などの手法を発展させたことである。

キャリア的には、9歳年上のポールの方が大先輩で、アトキンスはその演奏スタイルにも影響を受けている。いわばポールは「頼れるアニキ」的な存在だったのだろうな。

さて、レス・ポールは1964年にデュオの相方であった妻、メアリー・フォードと離婚してデュオも終了、新しいロックの流行もあって、ポピュラー音楽シーンでの存在感がどんどん薄くなっていった。

半ば引退状態にあった彼に声をかけたのが、旧知の仲の後輩、アトキンスだった。時にポール59歳、アトキンス50歳。

彼らは久しぶりに一緒にスタジオ入りして、2日間のレコーディングを行った。そしてリリースされたのがこの「Chester And Lester」である。

演奏、録音された10数曲は、彼らの手に馴染んだナンバーばかり。大半が1930年代から50年代に流行した、ジャズ、カントリー、ポップスのヒット曲群である。

70年代半ばに、時代の流行とはまるで関係のないスタンダード・ナンバーを、あくまでも彼らのスタイルで演奏する。完全に、彼ら自身の「趣味120パーセント」の企画だったが、これがリスナーには逆に新鮮に映った。

本盤はカントリーチャートで11位を獲得しただけでなく、全米チャートでも172位と善戦した。78年には続編「Guitar Monsters」もリリースして再び話題となったこともあり、本盤も再度カントリーチャートで27位まで上昇している。

そして、アルバムの高い完成度が評価されて、1976年度のグラミー賞では最優秀カントリーインストゥルメンタルパフォーマンス賞を受賞している。

さて、本日の一曲「Caravan」は説明するまでもなくジャズ・スタンダード中のスタンダード、デューク・エリントンの代表的ナンバーだ。

オリジナル・バージョンは1936年にバーニー・ビガード&ジャズピアーズによりレコーディングされた。以来、作曲者のエリントン・バージョン(37年)をはじめ350以上のバージョンがあるという。もちろん、レス・ポール、チェット・アトキンスも、それぞれ50年代にレコーディングしている。

この76年バージョンのレコーディング・メンバーは、二人のほかにギターのレイ・イーデントン、ピアノのランディ・グッドラム、ベースのヘンリー・ストルゼレッキ、ドラムスのラリー・ロンディン。

本アルバムはオーバーダビングはほぼ使わず、一発録りのスタイルでレコーディングされたという。

お馴染みのエキゾチックなメロディを、それぞれのお得意のスタイルで、伸び伸びと弾きまくるポールとアトキンス。

長年弾き続けて来ただけあって、その余裕あるプレイはさすがのキャリアを感じさせるね。

このアルバムがきっかけで、彼らはテレビ出演などもするようになり、しばらく実質引退状態だったポールも、人前でのパフォーマンスを再開するようになる。

良き後輩のおかげで、ベテランの先輩も第一線にカムバック出来たというわけだ。その後、レス・ポールは2009年に94歳で亡くなるまでライブ活動を続ける。

もちつもたれつの、和気藹々としたムードを、二人の活気ある演奏に感じとってほしい。






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音曲日誌「一日一曲」#447 ハービー・ハンコック「Watermelon Man」(Blue Note)

2024-06-26 07:50:00 | Weblog
2024年6月26日(水)

#447 ハービー・ハンコック「Watermelon Man」(Blue Note)





ハービー・ハンコック、1962年リリースのシングル・ヒット曲。ハンコック自身の作品。アルフレッド・ライオンによるプロデュース。

米国のジャズ・ピアニスト、ハービー・ハンコックことハーバート・ジェフリー・ハンコックは、1940年4月イリノイ州シカゴ生まれ。父親は政府の役人だった。7歳からピアノを習い、幼少期よりその才能を認められる。

クラシックをマスターする一方で、ジャズにも興味を持ち、エロール・ガーナー、オスカー・ピータースン、ビル・エヴァンスらを愛聴する。20歳でアイオワ州の大学を卒業して、シカゴでドナルド・バードやコールマン・ホーキンスらの元で演奏活動を始める。

そんな早熟の天才ハンコックが、弱冠22歳で名門ジャズレーベル、ブルーノートで初リーダーアルバムをレコーディング、62年10月にリリースする。それが本日取り上げた一曲「Watermelon Man」を含む「Takin’ Off」である。

レコーディング・メンバーはピアノのハンコックのほか、トランペットのフレディ・ハバード、テナーサックスのデクスター・ゴードン、ベースのブッチ・ウォーレン、ドラムスのビリー・ビギンズというクインテット構成。いずれもハンコックより年上で、中でもゴードンは1923年生まれという大先輩だった。

居並ぶ先輩連中をハンコックはリーダーとして見事に仕切り、一枚のアルバムを完成させた。収録曲はカバー曲なし、全てハンコックの作品であった。当時のジャズ・アルバムとしてはかなり異例の作品だと言える。

そのサウンドは、上記の顔ぶれから予想出来るように、当時全盛を誇っていたハード・バップのスタイルであった。

そして本アルバムより、一枚のシングルがカットされ、全米ポップチャートのトップ100にランクインする。それが「Watermelon Man」である。

60年代はインスト・ジャズの世界でも、曲の流行を狙ってシングルリリースすることが時々あった。例えば、キャノンボール・アダレイの「Mercy, Mercy, Mercy」(66年)、ラムゼイ・ルイスの「The ‘In’ Cloud」(64年)が大ヒットしている。「Watermelon Man」はそれに先立ってヒットした例と言える。

本曲は16小節の変形ブルース進行で、シカゴの裏通りや路地を巡回するスイカ売りの叫び声をモチーフとした曲である。ピアノ・プレイにゴスペルやR&Bの影響も強く、黒人であるハンコックならではのファンキーなセンスが感じられる。

予想以上のヒットとなったこともあって、この曲をカバーしてみたいと考えるミュージシャンが現れた。キューバ出身、ラテンジャズバンドのリーダーにしてパーカッショニスト、モンゴ・サンタマリア(1917年生まれ)である。

ニューヨークのナイトクラブで、ハンコックはチック・コリアが脱退したばかりのサンタマリア・バンドの臨時代役を務めたことがあった。その時、メンバーのドナルド・バードに勧められて、ハンコックは「Watermelon Man」を演奏して、観客やサンタマリアの好評を得たという。そのいかにもダンサブルな曲調が、踊りたい観客の好みにぴったりフィットしたのである。

その後、サンタマリアからハンコックに「あの曲をレコーディングしてもいいか」という打診が来る。そこでハンコックは、アルバム収録のバージョンは7分余りの長尺だったので、改めてシングル向きの3分程度のバージョンを録音してサンタマリアに送ったという。

サンタマリアのバンドがレコーディングした「Watermelon Man」は63年2月にバトルレーベルよりリリースされて、全米10位というオリジナルを上回る大ヒットとなる。

サンタマリア・バージョンは彼のパーカッションを全面的にフィーチャーすると共に「Watermelon Man」というボーカル・コーラスを入れて連呼させることにより、よりキャッチーでダンサブルなナンバーとして仕上がっている。

これでヒットしない方がおかしい、そのぐらい完璧なポップ・チューンだ。

そしてこの重ねてのカバー・ヒットによって、本曲はジャズ・スタンダードとしての地位を不動にした。

その後は、多くのジャズ・ミュージシャン(中にはアルバート・キングのようなブルース系もいた)によりカバーされたのである。

ハンコック自身もこのデビュー・ヒットへの思い入れはひときわ強かったのだろう、オリジナル版のリリースから11年後の1973年10月リリースのアルバム「Headhunters」において、セルフカバーバージョンを披露している。

レコーディング・メンバーは各種キーボードのハンコック、ソプラノサックスのベニー・モービン、パーカッションのビル・サマーズ、ベースのボール・ジャクスン、ドラムスのハーヴェイ・メイスン。

こちらではハード・バップから一転、エレクトリック・ピアノやシンセサイザーを導入して、当時最新のファンク・サウンドを展開している。リズムも大きく異なり、テーマが始まるまでは、まるで別の曲じゃないかと思ってしまうほど。

さすがの天才、同じことは二度やらないのである。

ハービー・ハンコックは84歳となった現在も、精力的に活動を続けている。60年以上にわたるプロミュージシャンとしてのキャリアで彼の生み出した作品数はとてつもない。

とは言え、20歳過ぎのデビュー期に生み出した作品に、すでにしてその卓越した音楽センスは嗅ぎ取れる。

メロディ、リズム、ハーモニー、どれをとっても天賦の才能が横溢した一曲、「Watermelon Man」。

ジャズ・ナンバーで踊りまくるのも、なかなかオツなもんでっせ。




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音曲日誌「一日一曲」#446 セルジオ・メンデス&ブラジル’66「Mas que Nada」(A&M)

2024-06-25 07:31:00 | Weblog
2024年6月25日(火)

#446 セルジオ・メンデス&ブラジル’66「Mas que Nada」(A&M)




セルジオ・メンデス&ブラジル’66、1966年リリースのシングル・ヒット曲。ジョルジ・ベンの作品。ハーブ・アルパート、ジェリー・モスによるプロデュース。

ブラジルのピアニスト/コンポーザー、セルジオ・メンデスは1941年2月リオデジャネイロ生まれ。父親は医師で、幼少期からピアノを習い、クラシックの奏者を目指して音楽学校に通う。

メンデスは10代に入るとジャズに興味を持つようになり、50年代後半、アントニオ・カルロス・ジョビン、ジョアン・ジルベルトらにより台頭してきたボサノバにも大きく影響を受けて、そういった曲をクラブで演奏するようになる。

61年、ボッサ・リオ・セクステットを結成、ヨーロッパと米国をツアーし、キャノンボール・アダレイ、ハービー・マンら米ジャズ・ミュージシャンとも共演する。

64年に米国に移住、活動の拠点を移す。65年、セルジオ・メンデス&ブラジル’65としてレコードを2枚リリースする。

翌66年、グループ名をブラジル’66と変えて出したアルバムが全米7位、ジャズチャート2位と大ヒットして、世界的なボサノバ・ブームの牽引役となった。

本日取り上げた一曲「Mas que Nada」は、そのアルバムからシングル・カットされて全米47位、イージーリスニングチャート4位、カナダ54位のスマッシュ・ヒットとなり、アルバムの売り上げ拡大にも大きく貢献したナンバーだ。

日本でもよく聴かれて、メンデスの特徴あるヒゲ面は、われわれ日本人にもお馴染みのものとなった。今考えてみれば、当時メンデスはまだ25歳。これには驚く。筆者も含めてリスナーは彼のことを、年齢よりだいぶんアダルトな人だと錯覚していたわけだ。

のちにメンデス自身が「ポルトガル語の曲が米国や世界中でヒットしたのはこれが初めてだった」と語ったように、本曲のヒットは、ブラジル産のローカルな音楽が、世界中に認められた最初の一歩だったのである。

この曲のレコーディング・メンバーは、ピアノ・コーラスのメンデスのほか、女声リードボーカルのラニ・ホール(1945年米国生まれ)、同じくコーラスのビビ・フォーゲル、ベース・コーラスのボブ・マシューズ、パーカッション・コーラスのホセ・ソレアス、ドラムスのジョアン・パルマという、ブラジル・米国人混成の構成であった。アレンジはメンデスが担当。

本曲はもともとブラジルのシンガーソングライター、ジョルジ・ベン(現地発音ではホルへ)が、63年にシングルリリースした自作曲だ。

ベンは39年リオデジャネイロ生まれ。63年にアルバム「Samba Esquema Novo」でレコードデビュー、その中から本曲が同時にカットされたのである。

オリジナル版は本国ブラジルでも大ヒットとはならなかった。だが、この曲の強い魅力に目を付けたメンデスが、その存在を地味なままでは終わらせなかった。

軽快なアレンジと流麗な歌、コーラスにより、「Mas que Nada」(原意は「それ以上」)は、ポップ・チューンとしてその装いを新たにして、華麗に甦ったのである。

その哀感を含む独特なメロディラインが、米国のポピュラー・ソングにはなかった味を持つ一曲。

しかし、現地のボサノバ・サウンドをそのまま紹介しただけでは、おそらくヒットには繋がらなかったに違いない。

米国のジャズをしっかりと学び、知悉したセルジオ・メンデスだったからこそ、ボサノバとファンキーなジャズを完璧に融合させて、米国人にもアピールする音楽へと昇華出来たのである。

以降、メンデスはブラジル音楽を紹介する一方で、ジャズ、ロック、ポップスなどさまざまなスタイルの音楽をボサノバとして料理していく。

そのアレンジの巧みさで、60年代後半のポップ・シーンをリードした男、セルジオ・メンデス。とても20代青年の仕業とは思えない妙技を、最初のクリーン・ヒット曲で味わってほしい。




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音曲日誌「一日一曲」#445 バディ・ホリー「That’ll Be the Day」(Brunswick)

2024-06-24 07:43:00 | Weblog
2024年6月24日(月)

#445 バディ・ホリー「That’ll Be the Day」(Brunswick)





バディ・ホリー、1957年7月リリースのシングル・ヒット曲。ジェリー・アリスン、バディ・ホリー、ノーマン・ペティの作品。ノーマン・ペティによるプロデュース。

米国のシンガーソングライター、バディ・ホリーは1936年9月テキサス州ラボック生まれ。本名はチャールズ・ハーディン・ホリー(綴りはHolley)。バディは幼少期からのニックネームだった。

4人兄弟の末っ子で、全員音楽好きであった。ホリーは10代初めにアコースティック・ギターを弾き始める。

彼はカントリー・ミュージックに熱中して、友人のボブ・モンゴメリーと一緒に演奏を始める。53年頃、ふたりで地元ラジオ局KDAVの番組に出演したり、ライブをしたりする。

カントリーだけでなくR&Bも好んで聴くようになったホリーは次第にロックンロールへと自らの音楽性を変化させていく。55年、地元でエルヴィス・プレスリーのライブを観た影響も大きかった。

同年10月、ホリーはビル・ヘイリーの前座をつとめ、これが高く評価されて、デッカレーベルとの契約をはたす。

契約時に名前のスペルをHolleyでなく、Hollyと誤記されたことにより、それが以後の芸名となる。

デビュー・シングルは1956年4月にリリースされた「Love Me」だった。これはホリーと友人のスー・パリッシュの作品で、ややカントリー色の強いナンバー。続いて12月には「Modern Don Juan」をリリース。

しかし、いずれも宣伝不足もあってかまったくヒットせず、デッカは以降のシングルリリースを渋るようになる。

そこでホリーはデッカからではなくデッカ傘下のR&B中心のレーベル、ブランズウィックから、また契約上の縛りもあるのでアーティスト名もザ・クリケッツとして、次のシングルを出すことにする。それが本日取り上げた「That’ll Be the Day」である。

この曲は最初は前年の56年7月、バディ・ホリー・アンド・ザ・スリー・チューンズ名義でレコーディングされた。メンバーはホリー、ギターのサニー・カーティス、ペースのドン・ゲス、ドラムスのジェリー・アリスン。しかし、デッカの判断によりレコード化はされなかった。

57年2月にクリケッツとして再度レコーディングされた時のメンバーは、ホリー、ベースのジョー・B・モールディン、ドラムスのアリスン、そしてニキ・サリバンをはじめとするバックコーラス4名であった。

同年7月にシングルリリース。これが見事にヒットして全米1位、全英1位となった(最終的には100万枚のセールスとなる)。

この様子をみて手のひらを返したのがデッカレーベルで、9月には以前レコード化をためらっていたスリー・チューンズ版の「That’ll Be the Day」を急遽シングルリリースしたのである。

ただ、こちらの方は思惑が外れてヒットせず、二匹目の泥鰌とはならなかった。これには笑ってしまうね。

まあこのことにより、ホリーはデッカからのシングルリリースが再開したことが、一番の収穫だったといえそうだ。同9月にはのちに代表曲と呼ばれることになる「Peggy Sue」もリリースされて、いよいよホリーのヒットメーカーとしての快進撃が始まるのである。

ともあれ、この「That’ll Be the Day」は、バディ・ホリーという新人シンガーのフレッシュなイメージを決定づけるナンバーとなった。

前2曲の古臭い、どこか既存のアーティスト(例えばプレスリー)の面影を漂わせる曲調とは異なり、ホリーならではのオリジナリティを、聴く者に強烈に感じさせたのである。

軽快なビート、コーラスに乗って歌われる本曲は、プレスリーのようなソロ・ボーカル中心の従来のロックンロールから、複数人のコーラス中心のロックへの移行を予感させるものだった。

このヒットは米国のみならず英国のバンドにも多大の影響を与えた。その代表例はザ・ビートルズである。彼らがメジャーデビューする前のクォーリーメン時代、58年に本曲をデモ・レコーディングしているのだ。彼らはメインのメロディも、複数メンバーで歌っているのが特徴だ。

後の時代にも何度となくカバーされるが、一番ヒットしたのは、76年8月にピーター・アッシャーのプロデュースによりリリースされたリンダ・ロンシュタットのシングルだろう。これは全米11位のスマッシュ・ヒットとなっている。

黒縁眼鏡をかけた特徴あるルックス、独特の唱法で甘く歌うニュースター、バディ・ホリーがその存在を全世界に知らしめた一曲。

もしこの起死回生のヒットが生まれなければ、当然その後のホリーのシングルリリースも途絶えたことであろう。

そう考えてみると、この曲の有無によっては、英米のロックの歴史も、だいぶん違ったものにもなっていたかも知れないね。






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音曲日誌「一日一曲」#444 ジ・エヴァリー・ブラザーズ「Bye Bye Love」(Cadence)

2024-06-23 08:12:00 | Weblog
2024年6月23日(日)

#444 ジ・エヴァリー・ブラザーズ「Bye Bye Love」(Cadence)




ジ・エヴァリー・ブラザーズ、1957年3月リリースのシングル・ヒット曲。フェリース・ブライアント、ブードロー・ブライアントの作品。

米国のロック・デュオ、ジ・エヴァリー・ブラザーズはドン・エヴァリーとフィル・エヴァリーの2人組。世にはブラザーズと称していても、ウォーカーやらライチャスやらといった、他人同士の寄り集まりの場合も結構あるが、こちらは正真正銘、モノホンの兄弟である。

ドンは本名アイザック・ドナルド・エヴァリーで、1937年2月ケンタッキー州ブラウニー生まれ。フィルは同じくフィリップ・エヴァリーで、1939年1月イリノイ州シカゴ生まれ。2歳違いである。

父親アイクはギタリストだった。母マーガレットも歌い、息子たちと共にエヴァリー・ファミリーとして、40年代アイオワ州フェナンドーのラジオ局に出演していた時期もある。

一家は、兄弟が10代半ばとなった53年にテネシー州ノックスビルに移住し、ふたりは同地のウェスト高校に通った。

51年より兄弟デュオを組むようになり、ノックスビルで演奏活動を行い、地元のテレビ局のショーにも出演して有名なカントリー・ギタリスト、チェット・アトキンス(1924年生まれ)に見出される。56年より自分たちの曲を書き、レコーディングを開始する。

最初のシングルはアトキンスが周旋したコロムビアレーベルから56年にリリースされた「Keep a-Lovin’ Me」だった。これはドンの作品だが、まったりとしたワルツの曲調がまるでウケず、不発。

翌57年には、再度アトキンスが知人エイカフ・ローズやアーチ・プレイヤーに彼らを紹介したことにより、ケイデンスレーベルとの契約を果たす。

心機一転、同レーベルで最初にリリースしたシングルが大ヒットしてエヴァリー・ブラザーズはスターダムに躍り出る。それが本日取り上げた一曲「Bye Bye Love」である。

この曲は彼らのオリジナルではなく、プロのソングライティングチーム、ブライアント夫妻の手によるものである。

夫ブードローは1920年生まれ、妻フェリースは25年生まれ。45年に結婚して以来共作を続け、48年、カントリー・シンガー、リトル・ジミー・ディケンズのために書いた「Country Boy」で初ヒットを出している。

レコーディング・メンバーはボーカル、アコースティック・ギターのふたりのほか、エレキギターのチェット・アトキンス、ペースのフロイド・ライトニン・チャンス、ドラムスのバディ・ハーマン。

プロへの作曲依頼という戦略がみごと図にはまり、「Bye Bye Love」は全米2位、カントリー・チャート1位、R&Bチャート5位、さらには全英6位、カナダ2位という、国やジャンルを超えたスーパー・ヒットとなった。

本曲は曲調はデビュー曲とうって変わって、リズミカルで溌剌としており、当時20歳と18歳だったふたりにぴったりの、若さにあふれたものだった。

イケメン・ボーイズにこのキラー・チューン。ヒットしないわけがないよなって感じ。

その勢いで、ブライアント夫妻に再び依頼して書かれた「Wake Up Little Susie」(邦題・起きろよスージー)が57年9月にリリースされる。

この曲も全米1位・全米2位・全豪3位という前作を上回る大ヒットとなり、彼らの人気を決定付けたのであった。

以降ふたりは「All I Have to Do Is Dream」、「Bird Dog」、「Problems」、「Let It Be Me」、「Cathy’s Clown」といったヒット曲を60年代前半まで出し続けたのである。

それらの中でも、初ヒットの「Bye Bye Love」は、ずば抜けてカバー・バージョンが多い。おおよそ30組くらいのアーティストによって、レコーディングされている。

中でも印象に残っているのは、1970年にリリースされたサイモン・アンド・ガーファンクルのヒット・アルバム「Bridge Over Troubled Water」に収録されているライブ・バージョンだろう。

これは69年11月にアイオワ州エイムズで開かれたコンサートの模様を収めたもの。観客の猛烈な反応がビビッドに伝わって来るライブだ。

筆者としてはこのバージョンではじめて本曲を知り、以後その元ネタであるエヴァリー・ブラザーズ版を聴くようになったという、記念すべき一曲である。

もう一つ印象深かったのは、ジョージ・ハリスン。74年のアルバム「Dark Horse」に収められたバージョン。楽器演奏は全てハリスンという、セルフ・レコーディングだ。

こちらはややマイナー調にメロディをフェイクして歌った「変調Bye Bye Love」とでもいうべきものだ。妻パティと別れて、友人エリック・クラプトンに譲ったプライベートの苦い思い出を、そこに反映させて歌ったもののようだ。

これはちょっと面白い試みではあったが、原曲の良さであるアッパーな雰囲気は完全に失われてしまい、陰鬱さだけがこの曲を占めているような気もする。曲の新解釈としては、イマイチかな。

恋人との別れの歌という湿っぽいテーマながら、切ない気持ちをあえて明るく元気なムードで歌いあげるところにこそ、この曲の真骨頂がある。

若いドンとフィルの、パワーに満ちたハーモニーで、失恋のどん底にある心を元気づけてくれる「Bye Bye Love」。

聴く人は間違いなく、生きていく勇気を得られる一曲。エヴァグリーンなコーラスを楽しんでくれ。






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音曲日誌「一日一曲」#443 リンダ・ロンシュタット「You’re No Good」(Capitol)

2024-06-22 08:25:00 | Weblog
2024年6月22日(土)

#443 リンダ・ロンシュタット「You’re No Good」(Capitol)




リンダ・ロンシュタット、1974年11月リリースのシングル・ヒット曲。クリント・バラード・ジュニアの作品。ピーター・アッシャーによるプロデュース。

米国の女性シンガー、リンダ・ロンシュタットは1946年7月、アリゾナ州ツーソン生まれ。ロンシュタットという姓はドイツ系だが、他にメキシコ、英国、オランダの血を引いている。父親が元シンガーだったこともあり、歌好きな音楽一家だった。

10代半ば、60年代のフォーク・ブームに影響を受け、ジョーン・バエズに憧れて、兄姉とのトリオでコーヒーハウスなどで歌い始める。ツーソンのフォークシンガー、ボビー・キンメル(40年生まれ)に才能を認められ、65年、彼に誘われてカリフォルニア州ロサンゼルスへ移住する。

ロンシュタットはLAでキンメル、ケニー・エドワーズと共にフォーク・グループ、ザ・ストーン・ポニーズを結成する。このグループでキャピトルレーベルと契約して、67年1月にレコードデビュー。

同年6月リリースしたセカンド・アルバムからのシングル「Different Drum」(邦題・悲しきロックビート)が全米13位のヒットとなる。

この曲はモンキーズのマイク・ネスミスの作品で、彼らのテレビショーで放映されたもののカバー・バージョンだ。ロンシュタットのボーカルに、スタジオ・ミュージシャンのみでレコーディングされており、実質的には彼女のソロ作品だった。

まったく無名のグループの楽曲がヒットしたのは、まずは元の楽曲の良さと知名度、そしてロンシュタットの新人らしからぬ高い歌唱力によったものと言える。

この後彼女は、多くのカバー・ヒットを持つことになるが、それはこの曲が初ヒットとなった時点で、既に運命づけられていたということになるだろう。

このヒットにより、音楽業界からの注目も集まるが、グループとしてというよりは、その中心にいて華のあったロンシュタットにもっぱら関心が集中したのは言うまでもない。

伸びやかな歌声、美形ではないが野性味を感じさせるチャーミングなルックス。時代がまさに彼女を必要としていたのだ。

翌68年リリースされたサード・アルバムは実質的に彼女のソロ作になった。その制作中にグループは消滅してしまったのだ。

その流れでソロとしてのデビューもすんなりと決まった。69年3月にアルバム「Hand Sown…Home Grown」をチップ・ダグラスのプロデュースによりリリース。

このアルバムではロンシュタット自身は曲を作らず、ボブ・ディラン、ランディ・ニューマンら他のアーティストのカバー曲を歌っている。この時、彼女は22歳であった。

初アルバムはチャートインさえしなかったものの、セカンド(70年4月)、サード(72年1月)、4th(73年10月)とリリースを重ねていくうちに、チャートランクが上がっていく。

長い雌伏の期間を経て、ついに大ブレイクしたのは、ソロ・デビューして約5年半が経った74年11月であった。

ロンシュタットは前作にして4rhアルバム「Don’t Cry Now」の途中から、担当プロデューサーが変わっている。

レコードプロデューサーのジョン・ボイラン、そしてその後、プライベートでは交際もしていたシンガー・ソングライターのJ・D・サウザーが制作担当をしていたのだが、これが昨日も取り上げたピーター・アンド・ゴードンの片割れ、ピーター・アッシャーに変わったのである。

アッシャーの元で次作の「Heart Like a Wheel」も作られたわけだが、これがロンシュタットに大きな成功をもたらした。

アルバムリリースと同時にシングルカットされた一曲が、それまでの全てのソロ・シングルを抜いて(最高位は1970年リリースの「Long, Long Time」で全米25位だった)、全米1位に輝いた。

それが本日取り上げた「You’re No Good」(邦題・悪いあなた)である。

本曲はもともと1963年に作られて、黒人女性ソウルシンガー、ディー・ディー・ワーウィックによりリリースされたソウル・ナンバーである。全米117位にチャートインしている。

作者のクリント・バラード・ジュニアはシンガーソングライターで、ウェイン・フォンタナの大ヒット曲「Game of Love」(65年)も彼が書いている。

またワーウィック(1942年生まれ)は、その名で分かるようにディオンヌ・ワーウィック(1940年生まれ)の実妹であり、姉を追うかたちでデビュー、「I Want to Be With You」(66年)のヒットがある。

ワーウィックのバージョンをさっそくカバーして同年11月にシングル・リリースしたのが、同じく女性ソウルシンガーのベティ・エベレット(1939年生まれ)だ。これが見事ヒットして、全米51位となった。

両者を聴き比べてみると、ワーウィックの方はいささか野太く、大味な感じであるのに対して、エベレットの方は繊細でよりチャーミングである。後者がより多くのリスナーにウケたのも、納得である。

そして、ロンシュタットによる74年の再度のカバーも、どちらかといえばエベレット・バージョンの方を意識しているように感じられる。

レコーディングはLAのサウンド・ファクトリーにて行われた。メンバーは以下の通り。ギター、エレクトリック・ピアノ、ドラムス、パーカッションのアンドリュー・ゴールド、ギターのエディ・ブラック、ベースのケニー・エドワーズ、コーラスのクライディ・キング、シャーリー・マシューズ、そしてストリングス(アレンジはグレゴリー・ローズ)。

実力派揃いのバッキング・ミュージシャンを従えて、ロンシュタットはスローなテンポで貫禄たっぷりに、この曲を歌い切った。

このヘビーなアレンジは、実は当初のアイデアではなかったと言う。本採用されたテイクの数日前に、別のメンバーで録音された本曲は、ずっとテンポの速いものだった。と言うのは、録音より前からライブでこの曲をレパートリーとしており、そのスタイルで録ろうとしたのだ。

しかしあえてそれを没にして、新たなテイクを録って、世に出した。それが結果的に功を奏したのである。

もし、この曲がその従来のライブ・スタイルのままリリースされていたら、これほどのヒットになったとは思えない。やはり、この「重たさ」こそが、曲の歌詞内容とうまくシンクロして、リスナーの心にグッと来るのである。

不実なダメ男と関わってしまい、疲弊してしまった女の感情をこれほどシンプルかつストレートに描いた曲はそうない。

ストリングスやギターソロ、アカペラ部分も含めて、完璧なアレンジが素晴らしいが、何よりもロンシュタットの表現力がピカイチだ。

彼女くらい切ない気持ちを歌えるシンガーは、アメリカン・ミュージック・シーン広しといえど、滅多に見掛けない。

ひとの曲、自分の曲とか関係なく、すべての楽曲に最もふさわしい表現を与えることの出来るシンガー、リング・ロンシュタットこそは至高のディーバである。彼女の魅力のすべてが詰まった佳曲、聴くべし。






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音曲日誌「一日一曲」#442 ピーター・アンド・ゴードン「A World Without Love」(Columbia)

2024-06-21 06:18:00 | Weblog
2024年6月21日(金)

#442 ピーター・アンド・ゴードン「A World Without Love」(Columbia)





ピーター・アンド・ゴードン、64年2月リリースののシングル・ヒット曲。ジョン・レノン、ボール・マッカートニーの作品。ノーマン・ニューウェルによるプロデュース。

英国のポップ・デュオ、ピーター・アンド・ゴードンは1962年結成。

1944年6月ミドルセックス州ウィルズデン生まれのピーター・アッシャー(眼鏡のほう)、1945年6月スコットランド、アバディーンシャーのブレイマー生まれのゴードン・ウォーラーのふたりが、ミドルセックスにあるウェストミンスター・スクールに入学して知り合った。ふたりとも父親は医師で、いわゆるミドルクラスの子弟であった。

ピーターはもともと子役俳優として8歳の頃から活躍しており、その妹ジェーン(1946年4月生まれ)もまた子役時代からずっと女優活動を続けていた。

同級生となったピーターとゴードンは意気投合、共にギターを弾いてカフェなどで歌い始める。

彼らにとってのビッグ・チャンスは、コンテストのようなものでなく、偶然から生じた。62年メジャーデビュー以来、すでにビッグスターとなっていたビートルズのポール・マッカートニーと、ピーターの妹ジェーンが、63年4月以来交際することになったのである。

この縁で、近所に住んでアッシャー家に入り浸るようになったポール・マッカートニーは、彼らのために曲を書くことになる。それが本日取り上げた一曲「A World Without Love(邦題・愛なき世界」である。

クレジット上はレノン=マッカートニーの作品となっているが、これは当時の彼らの取り決めで、どちらか一方だけが書いた曲でも共作名義にするということになってていたから。実質的にはマッカートニーひとりの作品である。

フォーク調のポップ・バラードである本曲は、そのメロディの完璧さ、爽やかなハーモニーもあってたちまちヒット、リリースして2か月後にはビートルズの「Can’t Buy Me Love」を追い抜いて全英1位(2週連続)となった。

遅れて4月にリリースされた全米でも1位を獲得、ビートルズ以外のブリティッシュ・インベイジョン勢では初めてのナンバーワン・ヒットとなったのである。

続くセカンド・シングルの「Nobody I Know」、そしてサードの「I Don’t Want See You Again」は同じくレノン=マッカートニー、実質マッカートニーの作品だったので、デビューヒットの余波や作曲者のネームバリューで、それぞれ全英10位、全米12位・全米16位とヒットした。

4thシングルの「I Go to Pieces」は、マッカートニーの楽曲提供から離れて初めてのリリースだった(作曲はデル・シャノン)が、全米9位と健闘。

その後も「True Love Ways」、「To Know Him Is To Love Him」、「Woman」(この曲のみバーナード・ウェッブというマッカートニーの変名による作品)、「Lady Godiva」といったヒット曲群を66年頃までは生み続けた。

有名アーティストから曲をプレゼントされるという、極めてラッキーなスタートを切ったアーティストは、概ね後続のヒットが続かないものだが、マッカートニーの協力から離れた後も、ピーターとゴードンは彼らなりに頑張ったと言える。

ただ、常に他のアーティストの楽曲に頼らざるをえなかったこと、そして英国のポップ、ロック・シーンが短期間に大きく変化を遂げて、彼らのようなまったりとしたポップスは時流から外れつつあったことが重なり、ピーター・アンド・ゴードンは次第に流行から遠ざかっていった。

そして、マッカートニーとジェーン・アッシャーの交際が破局を迎えたのと同じ68年、彼らも解散となった。

ピーターはアーティストサイドからプロデュースサイドに転身、アップルレーベルのA&R部門の責任者となり、シンガーソングライター、ジェイムズ・テイラーを見い出して育てることになる。その後はリンダ・ロンシュタットやシェールらとの仕事で、成果を出している。

一方、ゴードンはミュージシャン側にとどまり、ソロシンガーとして活動したが、かつてのような大きな成功は得られず、2009年に64歳で亡くなっている。

人生のごくごく若い時期、20歳前後の約4年というごく短い期間に、世界最高の栄光に浴したピーターとゴードン。

縁故という「運」にかなり助けられた面はあったものの、彼らを評価して協力したポール・マッカートニーの、判定眼は確かだったと思う。

ふたりは、そのいかにも「いいとこのお坊ちゃん」風のキャラクター、毒のまるでないおっとりとした歌声も含めて、当時の時代が求めていたものであった。

時代が求めた寵児として、彼らは世界の人々から十二分に愛されたのだ。それだけでも、彼らは至福の人生を歩んだのだと言える。

「運もまた実力のうち」。この言葉を聴くたびに、筆者はいつもピーター・アンド・ゴードンのふたりを思い起こすのである。

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音曲日誌「一日一曲」#441 エスター・フィリップス「What A Difference A Day Makes」(Kudu/CTI)

2024-06-20 08:18:00 | Weblog
2024年6月20日(木)

#441 エスター・フィリップス「What A Difference A Day Makes」(Kudu/CTI)



エスター・フィリップス、1975年リリースのシングル・ヒット曲。マリア・グレヴァー、スタンリー・アダムスの作品。クリード・テイラーによるプロデュース。

米国の女性シンガー、エスター・フィリップスことエスター・メイ・ワシントンは、1935年12月テキサス州ガルベストン生まれ。両親は彼女が10代の頃に離婚して、同州ヒューストンに住む父親と、カリフォルニア州ロサンゼルスに住む母親との間を行き来することになる。

エスターは教会でゴスペルを歌いながら育つ。49年、13歳の時姉の強い勧めがあり、本人は乗り気でなかったが、ロサンゼルスのブルースクラブのコンテストに参加することになる。

それがシンガー、ジョニー・オーティスの経営するバレルハウス・クラブで開かれたアマチュア・タレント・コンテストだった。エスターは優勝して、オーティスの世話によりモダンレーベルと契約、1950年にわずか14歳でレコードデビューを果たす。

それがジョニー・オーティス・クインテットとロビンズをバックに従えたシングル「Double Crossing Blues」である。これがたちまちR&Bチャート1位となった。

デビュー時の芸名はリトル・エスター。オーティスは自分の旅回りのレビュー「カリフォルニア・リズム&ブルース・キャラバン」の一員に彼女を加える。

つまり、昨日取り上げたエッタ・ジェイムズより3年ほど早く、彼女は同じジョニー・オーティスによりその才能を見出され、プロデュースされてたちまちナンバーワン・ヒットを出したということになる。オーティスの目利きたるや恐るべし、である。

同年、シングル「Mistrutin’ Blues」で再びR&Bチャート1位を獲得、安定した実力と人気を印象づけた。その年はなんと、たて続けに7枚ものトップテン・ヒットを出す。

その後、オーティスの傘下を離れて、フェデラルレーベルに移籍したリトル・エスターだったが、これが吉とならず、ヒットはほとんど出なくなってしまう。

さらに問題となったのは深刻なドラッグ依存症だった。彼女はヘロイン中毒に陥ってしまう。突然の成功による生活の激変は心を蝕み、ひとに薬物への依存をもたらすということだろうか。

10代末の54年には父のいるヒューストンに戻って、小さなクラブでシンガーとして働き、ケンタッキー州レキシントンの病院に通う生活を送る。

62年、再び転機がエスターに訪れる。人気シンガーのケニー・ロジャーズが、ヒューストンのクラブで歌っているエスターを発見して、彼の兄リラン・ロジャーズが経営するレノックスレーベルとの契約を手助けしたのである。

同年、シングル「Release Me」でカムバックを果たす。このカントリー・バラード(レイ・プライスのヒットで有名)が全米8位、R&Bチャートで1位のヒットとなり、エスターは息を吹き返す。芸名もエスター・フィリップスと変わったのである。

翌63年以降もポップ・チャートを中心に活躍が続く。代表的なヒットには「I Really Don’t Want to Know」(63年)、「And I Love Him」(65年、ビートルズのカバー)、「When a Man Loves a Woman』(66年、パーシー・スレッジのカバー)などがある。主に当時のヒット曲をカバーするスタイルで、手堅くコンスタントにヒットを出していったのである。

しかし、70年代に入るとその手法もなかなか通用しなくなり、シングルヒットも難しくなってくる。

そこで大きく方針を変更、アルバム中心の制作スタイルに変えていくことになる。

アトランティックから移籍、名プロデューサー、クリード・テイラー率いるCTIレーベルの傘下、クドゥに所属したエスターは、またもや新たな境地を開拓する。

それは、クロスオーバー・サウンドである。

本日取り上げた一曲「What A Difference A Day Makes」は、クドゥでの6枚目にあたる同題のアルバムに収められたナンバーであり、シングル・カットもされた。

これが見事に当たって、全米20位、R&Bチャート10位という、「Release Me」以来ひさびさの大ヒットとなったのである。その波は他国にも波及して、全英6位、全豪38位も獲得した。

本曲は極めて古いナンバーで、1934年にメキシコのソングライター、マリア・グレバーによって書かれている。同年オルケスタ・ペドロ・ヴィアが初録音している。

これに米国の作詞家、スタンリー・アダムズが同年英語詞をつけてジミー・エイグ、ドーシー・ブラザーズなどがレコーディングしている。

その四半世紀後、1959年に人気ジャズシンガー、ダイナ・ワシントン(1924年生まれ)がこの曲をリバイバル・ヒットさせる。全米8位、R&Bチャートで4位となり、最優秀R&Bパフォーマンスのグラミー賞の栄誉を勝ち取ったのである。また、98年には彼女のバージョンで本曲はグラミーの殿堂入りを果たしている。

ダイナ・ワシントンという、エスターにとって11年年上の先輩シンガーは、もちろん大きな目標であった。

ジャズ、ポップス、ブルースといった多くのジャンルをそつなく歌いこなすダイナは、ブルースを出発点としながらも、カントリーやポップスで常に新分野を開拓していったエスターにとって、常に意識する存在であった。

その大先輩の代表作品を、エスターは大胆にアレンジして、カバーしてみせた。

レコーディングメンバーは、当時のクロスオーバー界において新進気鋭のミュージシャンが勢揃いであった。

ギターのジョー・ベック、スティーヴ・カーン、ベースのウィル・リー、トランペットのランディ・ブレッカー、テナー・サックスのマイケル・ブレッカー、アルトサックスのデイヴィッド・サンボーン、キーボードのドン・グロルニック、ドラムスのクリス・パーカーなどなど。

アレンジはジョー・ベックが担当、70年代半ば流行のディスコ・サウンドで往年の名バラードが、華々しく甦ったのである。

エスターの歌声は、かなり個性的でクセが強く、聴く者を選ぶものがある。ひとによってはそのアクの強さがいいというだろうし、それゆえに受け付けないひとも少なからずいる。

筆者もこの曲を初めてFMで聴いた時は、「うわ、えげつないビブラートだな」と若干引いてしまった、正直な話。

でも、何度も聴いているうちに、それが好み、クセになってくるのだな。

その色っぽい囁き(喘ぎ?)も相まって、リスナーを虜にしていく、魔性の歌声なのである。

レコーディング当時、エスターは39歳。まさにオンナ盛りであった。こんな見事に熟した女性に「たった一日でこんなにも変わったわ」なんて迫られたら、若いオトコはイチコロかも?

個人的によく思い出すのは、日本を代表するブルースシンガー、永井ホトケ隆さんがエスターの大ファンで彼女に米国まで会いに行って「好きです』と伝えたら、ファンとしてでなく女性として好きだと取られてしまったというこぼれ話だ。いいよね、こういうエピソードって。

日本では、中年女性の恋愛はあまり歌や文学の題材になりにくいけれど、海の向こうでは普通にそれらのテーマとなり、多くの作品が生まれている。

アラフォーのエスター・フィリップスの、このセクシーなパフォーマンスも、彼の地では特に違和感なく受け入れられたのである。文化の違いが感じられるね。

エスター・フィリップスはその後もコンスタントにアルバムをリリースしていったが、結局長年にわたる薬物中毒がたたり、1984年、48歳の若さでこの世を去っている。早逝が本当に惜しまれる。

唯一無二の個性的な歌声を聴いて、彼女の卓抜した歌の才能を、もう一度確認してみてほしい。




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音曲日誌「一日一曲」#440 エッタ・ジェイムズ「Roll With Me, Henry」(Modern)

2024-06-19 07:52:00 | Weblog
2024年6月19日(水)

#440 エッタ・ジェイムズ「Roll With Me, Henry」(Modern)




エッタ・ジェイムズ、1955年リリースのシングル・ヒット曲。ジョニー・オーティス、ハンク・バラード、ジェイムズ本人の共作。

米国の女性シンガー、エッタ・ジェイムズことジェイムゼッタ・ホーキンスは1938年1月カリフォルニア州ロサンゼルス生まれ。母親は黒人だが、父親は特定できていない。ジェイムズ本人の推測では、ブロのビリヤード選手、ミネソタ・ファッツ(白人)らしい。幼少期は里親や祖父母により育てられ、バプテスト教会に通い始める。

5歳でゴスペル合唱団に所属し、才能を認められ幼くしてソロシンガーとなった。

1950年、12歳の時に養母がなくなり、実母と共にサンフランシスコに移住。その地でドゥーワップを愛聴するようになり、自分も友人2人とクレオレッツという女性ボーカルグループを結成する。

52年、14歳の時、白人人気シンガーにしてバンドリーダー、ジョニー・オーティスと知り合う。彼の口利きによりジェイムズらはモダンレーベルと契約を果たし、グループ名もピーチズと変更になる。エッタ・ジェイムズという芸名も、オーティスによるものだ。

54年、16歳の時、最初のレコーディングを行う。それが本日取り上げた一曲「Roll With Me, Henry」である。

この曲はいわゆるヒット曲のアンサー・ソングであり、その元ネタは同年2月に人気黒人シンガー、ハンク・バラード&ザ・ミッドナイターズがリリースし、R&Bチャートで7週連続1位の大ヒットとなったナンバー「Work With Me, Annie」である。

この曲は歌詞が露骨に性的なものであったことで、大きな反響を呼び、同年のミッドナイターズによる「Annie Had a Baby」をはじめとする多くのアンサー・ソングが作られた。

オーティスはこの曲に注目して、そのメロディを活かしながら歌詞の異なる、女性側からのアンサー・ソングを作ろうと考えていた。その歌い手として、ジェイムズに白羽の矢が立ったのである。

54年後半にエッタ・ジェイムズとザ・ピーチズは「Roll With Me, Henry」をレコーディングする。レコードにクレジットされてはいないが、黒人男性シンガー、リチャード・ベリー(1935年生まれ)が加わり、ヘンリー役で彼女たちに絡んでいる。

この曲も元ネタ同様、性的な歌詞を含んでいた。タイトルであり重要な歌詞でもある「Roll With Me, Henry」は、明らかに性的な行為の比喩であった。このまま世間に出すには、刺激的すぎるタイトルだ。

そのため、翌55年のシングルリリースにあたっては「The Wallflower」という無難なタイトルに変更されることとなった。

それでも曲を聴けば、際どい内容であることは丸わかりだ。当然の如く大きなセンセーションを呼んで、本曲はR&Bチャートで4週連続1位の大ヒットとなったのである。

そして、新人シンガー、エッタ・ジェイムズの名も、瞬く間に全米に知られるようになる。

次のシングルはいかにも「2匹目の泥鰌」的な「Hey Henry」。しかし、これはヒットするに至らなかった。さすがに狙いが安易すぎた(笑)。

3枚目のシングルで、他のヒット曲にあやかるかたちでなく、際どい歌詞にも頼らず、ようやく本来の実力を発揮してヒットを出す。

それが同年リリースの「Good Rockin’ Daddy」である。この曲はR&Bチャートで6位を獲得した。

しかし、その勢いが続くことはなかった。モダン、そしてその後のケントレーベルではこの2曲に続くヒットはまるで出なかった。実力は十二分なジェイムズのような歌い手であっても、ヒットチャートの世界はひと筋縄ではいかないのである。

彼女がようやく安定した人気を得て、コンスタントにヒットに出すようになったのは、60年、チェスレーベルに移籍してからのことであった。

しかしながら、デビュー曲にして初ヒット「Roll With Me, Henry」において、ジェイムズはすでに大歌手となる片鱗を見せている。

その伸びやかでパンチの効いた歌声は、ストレートにリスナーの心を掴んで離さない。

また、そのきわめて特徴あるルックスも、一目見たら忘れられないものがある。

白人にも黒人にもない、唯一無二の個性、魅力を持つシンガー、エッタ・ジェイムズ。

2012年1月に73歳で亡くなるまで第一線で歌い続けたディーバの、力強いファースト・ステップをこの曲で感じ取ってくれ。




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音曲日誌「一日一曲」#439 ジミー・ジョンスン「You Don’t Know What Love Is」(Alligator)

2024-06-18 07:58:00 | Weblog
2024年6月18日(火)

#439 ジミー・ジョンスン「You Don’t Know What Love Is」(Alligator)




ジミー・ジョンスン、1985年リリースのアルバム「Bar Room Preacher」からの一曲。フェントン・ロビンスンの作品。仏レーベル、ディスク・ブラック&ブルーによるプロデュース。83年録音。

米国のブルースマン、ジミー・ジョンスンは、1928年11月ミシシッピ州ホリースプリングス生まれ。本名はジェイムズ・アール・トンプスン。10代の頃はピアノを主に弾き、ゴスペルグループで歌っていた。1950年に家族でシカゴに移住、溶接工として働くかたわら、ギターを弾くようになる。近所にはマジック・サムも住んでいた。

家族にはミュージシャンが多く、中でも有名なのは弟のシル・ジョンスンである。彼は36年生まれの8歳下で、本名シルヴェスター・トンプスン。ブルース、そしてソウル・シンガーとして30代から人気を集める。また、マジック・サムのバックでベーシストとなるマック・トンプスンも弟のひとりである。

プロミュージシャンとしてのスタートは、弟のシルがレコード・デビューを果たした59年、スリム・ウィリスのバックギタリストとしてである。この時、弟がジョンスン姓を芸名としたのに合わせて、ジミー・ジョンスンを名乗った。

ジョンスンはシカゴでフレディ・キング、アルバート・キング、マジック・サム、オーティス・ラッシュ、エディ・クリアウォーターらと共に演奏活動をした。

その後、60年代には当時台頭していたソウルに力を入れるようになり、オーティス・クレイやデニス・ラサールなどのバックをつとめる一方で、60年代半ばには自身のバンドでも初レコーディングを行う。

70年代半ばにはブルースに回帰して、ジミー・ドーキンスやオーティス・ラッシュらとの活動を行う。75年にはラッシュのバックで来日を果たす。

アルバムのレコーディングは40代後半の75年に初めて行う。フランスのMCMレーベルから75年、78年に1枚ずつリリースしたが出来はイマイチで評判とはならなかった。

79年にデルマークレーベルより「Johnson’s Whacks」をリリース、これがジョンスンの評価を高めて、ソロ・アーティストとして注目されるようになる。

以降デルマークやアリゲーターなどでアルバムをリリースしていく。本日取り上げた一曲「You Don’t Know What Love Is」を収録したアルバム「Bar Room Preacher」は85年にリリースされた。

これはもともとフランスのレーベル、ブラック&ブルーで制作され83年にリリースされた音源を、米国でアリゲーターから出し直したアルバムである。レコーディング・メンバーはボーカル、ギターのジョンスン、キーボードのジーン・ピケット、ベースのラリー・エクサム、ドラムスのフレッド・グラディ。

「You Don’t Know What Love Is」はテンポの速いマイナー・ファンク・ブルース。作曲者は、フェントン・ロビンスンである。先日彼の「Somebody Loan Me A Dime」を本欄でも取り上げたが、その曲も含む同題のアルバム(74年リリース)にオリジナルバージョンが収録されている。

両者を聴き比べてみよう。オリジナルのロビンスン版は、ジョンスン版よりかなり遅めのテンポである。ボーカルを中心にした4分弱の構成で、彼の看板であるメロウなギターソロも軽めにフィーチャーされている。終わり方もあっさりとしている。

これに対して、ジョンスンの方は5分あまりの尺に彼の歌、そしてギタープレイがたっぷりと詰め込まれており、彼の気合いの入れ方がハンパでないのが分かる。

ジョンスンの歌声は、ブルースシンガーとしてはかなり高めで、パワーには欠けるものの、その分繊細な表現には適した声質だと思う。フェントン・ロビンスンがよく作るメロウな曲調のナンバーには、実にフィットしている。

ギタープレイの方も、そのクリーンでシャープなトーンや、よく歌うスクィーズ・スタイルがいかにも「正統派ブルースギター」という感じで、個人的には好みである。

ジョンスンの生み出す音は、まさに彼ならではの「小味な」ブルースなのだ。

この後、88年にジョンスンは深刻な交通事故に見舞われ、バンドメンバー2名を失い、自身も負傷してしばらくは音楽活動を休止するという不幸に陥る。94年にようやく現場復帰して、レコーディングも再開する。

それからの四半世紀、ジョンスンは90代に至るまで精力的に活動を続ける。2002年には弟シルとの共演盤もリリースしている。2016年にブルースの殿堂入り。

2019年、90歳でアルバム「Every Day Of Your Life」をリリース。同年6月17日、シカゴ・ブルース・フェスティバルでの演奏中に、シカゴ市長より公式にこの日を「ジミー・ジョンスンの日」とすると宣言がある。

翌20年にはリビング・ブルース誌より「ベスト・ブルース・ギター奏者」と表彰される。21年にはブルース・アーティスト・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。

2022年1月31日、ジョンスンはイリノイ州ハーベイの自宅で93歳で亡くなった。6日後、弟シルがその後を追うように亡くなっている。

やや遅咲きではあったが、90代まで現役ブルースマンを続けて生ける伝説となった男、ジミー・ジョンスン。

センセーションとは無縁でごく地味。でもしぶとく、ひとつごとを追究していく。まさに彼の生きざまそのものが、ブルースであった。

そんな「全身ブルースマン」なジミー・ジョンスンの個性が50代半ばに開花した一曲。じっくりと味わってほしい。




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音曲日誌「一日一曲」#438 サム・クック「You Send Me」(Keen)

2024-06-17 07:57:00 | Weblog
2024年6月17日(月)

#438 サム・クック「You Send Me」(Keen)




サム・クック、1957年9月リリースのシングル・ヒット曲。クック自身の作品。バンプス・ブラックウェルによるプロデュース。

米国のシンガー、サム・クックことサミュエル・クックは1931年1月、ミシシッピ州クラークスデイル生まれ。牧師を父として、8人兄弟の5番目に生まれる。

33年に家族がシカゴに移住。クックは父の教会の聖歌隊で歌い、6歳の時に兄弟と共にシンギング・チルドレンというグループに所属する。

14歳でゴスペル・グループ、ハイウェイQC’Sに参加してリードシンガーとなる。

19歳で人気ゴスペル・グループ、ザ・ソウル・スターラーズのリードボーカルの座を、R・H・ハリスより継ぐ。同グループで「Jesus Gave Me Water」(スペシャルティ)を初レコーディング。

テキサス州トリニティを拠点としたスターラーズは、女性を中心に若いオーディエンスを集めており、ルックスのよいクックはその人気の中心だった。

56年、ゴスペル以外の曲をソロでスペシャルティより初リリース。ゴスペルナンバー「Woderful」をリメイクしたポップ・バラード「Lovable」だった。レコーディングはニューオリンズにて行われた。

このシングルはゴスペル・ファンを遠ざけないよう、デイル・クックという別名でリリースされたが、その特徴ある歌声でクック本人だとすぐ分かってしまったという。

当時所属のスペシャルティレーベルのオーナー、アート・ループの思惑と、クックと担当プロデューサー、バンプス・ブラックウェルが追求しようと考えるポップ・ミュージック像にズレがあり、両者は決裂。クックたちは同レーベルを去る。

57年、彼らはロサンゼルスで設立されてまもない独立系レーベル、キーンに移籍、そこで新たなスタートを切った。

本日取り上げた一曲「You Send Me」は同レーベルでのファースト・シングルである。それまでクックは「Sam Cook」と名乗っていたが、この曲以来eを付けて「Sam Cooke」の芸名を使うようになった。

作曲はクック自身であったが、彼の弟(32年生まれ)のLC・クックの名前でクレジットされている。曲は55年にはすでに書かれており、その年の冬にはギター伴奏のみのデモ版が作られ、最初のスタジオ録音は56年に「Lovable」と共に行われている。57年6月、再びロサンゼルスで録音されて、この曲はようやく日の目を見た。

曲調は「Lovable」同様、ゆったりとしたテンポのラブ・バラード。クックのちょっと鼻にかかったようなソフトな歌声が印象的な本曲は、小レーベルからのリリースにもかかわらず、全米で火がつく。

当初はカップリング曲の「Summertime」と両A面的扱いだったようだが、ラジオでオンエアされたのは圧倒的に「You Send Me」の方だった。瞬く間に全米で2週連続1位、R&Bチャートでも1位、約150万枚というスーパー・ヒットとなったのである。

このヒットによりたちまちクックは、老若男女を問わず米国中から注目を浴びるスター・シンガーとなった。いうところのオーバーナイト・センセーションであった。

当時、R&Bチャートでヒットするような黒人アーティストが、ポップチャートの首位にまで進出することは珍しかったが、クックは初手からその垣根を易々と超えて、白人層にも強くアピールしたのである。

本曲のヒットが、ソウル・ミュージックが全米を席巻するきっかけとなったのだ。

以降、クックはポップ、R&B両方のチャート常連となった。代表的なヒットには「Woderful World」「Chain Gang」「Cupid」「Twistin’ the Night Away」「Another Saturday Night」などがある。

不幸な事件によって64年12月に33歳で他界するまでの約7年、サム・クックはトップ・スターであり続けた。

その影響力の物凄さは、彼の曲をカバーするアーティストの数を見ただけで一目瞭然である。

デビュー・ヒットの「You Send Me」一曲に限っただけでも、ナット・キング・コール、ドリフターズ、エヴァリー・ブラザーズ、フォー・シーズンズ、ボール&ポーラ、ホセ・フェリシアーノ、アレサ・フランクリン、オーティス・レディング、サム&デイヴ、パーシー・スレッジ、シュープリームス、マンハッタンズ、ホイットニー・ヒューストン、スティーヴ・ミラー・バンド、ロッド・スチュワート、ヴァン・モリスン、マイケル・ボルトンといった具合であり、書き出すと際限がない。

ソウル・ミュージックを作った男、あるいはソウルの王様。呼称はいろいろとあるが、とにかく顔よし、声よし、曲よし(自作も多い)と三拍子揃った、希代のモテ男サム・クック。

彼のファーストヒットに、すでに凝縮されていたその才能と魅力を確認してみてくれ。




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