NEST OF BLUESMANIA

ミュージシャンMACが書く音楽ブログ「NEST OF BLUESMANIA」です。

音曲日誌「一日一曲」#467 ジェフ・ベック・グループ「You Shook Me」(EMI Columbia)

2024-07-16 07:10:00 | Weblog

2024年7月16日(火

#467 ジェフ・ベック・グループ「You Shook Me」(EMI Columbia)




ジェフ・ベック・グループ、1968年7月リリースのデビューアルバム「Truth」からの一曲。ウィリー・ディクスン、J・B・ルノアーの作品。ミッキー・モストによるプロデュース。


英国のロック・バンド、ジェフ・ベック・グループは、元ヤードバーズのギタリスト、ジェフ・ベックをリーダーとして、1967年初頭にロンドンで結成された。

前年、アメリカツアーの途中から嫌気がさして演奏に加わらなくなり、そのまま脱退したベックは、新たなメンバーを探して自分のバンドを作ることにしたのである。

当初メンバーは流動的だった。ボーカルはショットガン・エクスプレスにいたロッド・スチュアート、リズム・ギターはサンタバーバラ・マシーンヘッドにいたロニー・ウッド。だがベースはジェット・ハリス(元シャドウズ)、デイヴ・アンブローズ、ドラムスはクレム・カッティーニ、ヴィヴ・プリンス(元プリティ・シングス)など、しばしばメンバーが変わっていた。

結局、ベースはロニー・ウッドが担当することになり、ドラムスはエインズレー・ダンバーに落ち着いた。

プロデューサーのミッキー・モストとマネジメント契約、67年から68年にかけて3枚のシングルをリリースする。

その後、ダンバーが脱退、スチュアートの推薦によりスチームパケットにいたミッキー・ウォーラーが代わりに加入して、固定メンバーとなる。

この4人で最初のアルバム「Truth」をレコーディング、68年5月にリリースし、全米15位の好セールスとなる。本日取り上げた一曲「You Shook Me」はその中に収められた。

この曲はもともと、マディ・ウォーターズが1962年にリリースしたシングル・ヒット曲である。初めてボーカルをオーバーダビングした実験的なナンバーであり、バックのアール・フッカーによるスライドギターが非常に印象的だった。

この60年代のモダン感覚のシカゴ・ブルースが、白人ロックミュージシャンの注目を引くことになる。6年後、この曲はジェフ・ベック・グループの名演によって、蘇ることになる。

ベックのトリッキーなギター、そしてスチュアートの迫力充分のハスキーボイスが、この曲の持つ攻撃的な(性的な意味も含む)魅力を最大限に引き出している。バンドに混じってゲストで参加しているハモンドオルガンは、レッド・ツェッペリンのメンバーとなるジョン・ポール・ジョーンズだ。

アルバムでは2分半の短尺であったが、ライブではより長く演奏して、彼らの人気曲のひとつとなった。

これに目をつけたのが、彼らのステージを観ていたジミー・ペイジであった。ペイジは、自身が立ち上げようとしていたバンドで、この曲をさらにドラマティックな構成して、主要なレパートリーにすることを考えたのだ。

同年10月、レコーディングが行われ、翌69年1月、新バンド、レッド・ツェッペリンのデビュー・アルバム「Led Zeppelin」がリリースされた。

その中で「You Shook Me」は新たなアレンジにより、リスナーに衝撃を与えたのである。ロバート・プラントの、男性の通常声域を大きく超えたハイトーン・ボーカルが聴くもの全員のハートを揺るがした。

以降この曲は、最初のリメイクを行ったベックたちよりも、ZEPのバージョンの方でより語られるようになってしまった。真似した方が、より有名になってしまったのは、実に皮肉である。

その後、ジェフ・ベック・グループは69年にセカンド・アルバム「Beck Ola」をリリースして前作同様全米15位のヒットとなったものの、バンド内の人間関係はうまく行かず、解散することとなる。スチュアートとウッドは、スモール・フェイセズに合流して、後にフェイセズとなるのは、皆さんご存知の通りである。

ベック版「You Shook Me」を改めてじっくりと聴いてみて感じるのは、黒人ブルースを白人ロックの感覚で調理するというアイデアは悪くなかったのだが、いまひとつ練り込みが足りないという気がする。

この曲の良さは、長尺にして、ヤマや谷を作ってこそ初めて引き出せるのではないだろうか。その意味で、後発ゆえのアドバンテージはあるにせよ、ZEPのメンバーが練り上げたサウンドは、格別の出来映えだったなと感じる。

ともあれ、ベックはその後もいくつもバンドを作って試行錯誤を続けていく。サウンドの模索者、ジェフ・ベックならではの意欲的な一曲、もう一度チェックしてみてくれ。

※筆者の個人的事情により、本欄の更新はしばらくお休みいたします。ご了承ください。






音曲日誌「一日一曲」#466 ルーサー・タッカー「Mean Old World」(Antone’s)

2024-07-15 07:34:00 | Weblog
2024年7月15日(月)

#466 ルーサー・タッカー「Mean Old World」(Antone’s)




ルーサー・タッカー、1994年リリースのアルバム「Sad Hours」からの一曲。ウォルター・ジェイコブス(リトル・ウォルター)の作品。デレク・オブライエン、マーク・カザノフによるプロデュース。

米国のブルースマン、ルーサー・タッカーは1936年1月テネシー州メンフィス生まれ。父親は大工で、タッカーのために最初のギターを作ってくれたという。一家は彼が9歳の時に、イリノイ州シカゴに移住。

ブギウギ・ピアノを弾く母親が買ってくれたギターで本格的に練習を始める。また彼女は、タッカーに知人のビッグ・ビル・ブルーンジー、ロバート・ジュニア・ロックウッドを紹介してくれた。

その後、タッカーはロックウッドを生涯の師と仰いでギターを学び、そのプレイを引き継いでいくことになる。また、10代の頃のタッカーには、フレディ・キング、マジック・サム、オーティス・ラッシュといった仲間がいた。

そういう恵まれた音楽環境の中、52年、ギターの腕を磨いた16歳のタッカーは、すでにエルモア・ジェイムズのバックで活動していたおじのサックス奏者、J・T・ブラウンと共に演奏するようになる。また、ロックウッドがミュージシャンのユニオンに話をして、年若いタッカーが問題なくプロ活動を出来るよう、取り計らってくれた。

タッカーとロックウッドのコンビは、リトル・ウォルター、サニーボーイ・ウィリアムスンIIのバックを務めた。またジミー・ロジャーズ、マディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフらのレコーディングにもタッカーは参加して、歴史的な名曲の誕生にも関わるようになる。

60年代後半、マディ・ウォーターズ・バンドで一緒にプレイしていたハーピスト、ジェイムズ・コットンを中心に、ベースのボビー・アンダースン、ドラムスのサム・レイなどのメンバーでジェイムズ・コットン・ブルース・バンドを結成する。

タッカーは68年から73年まで同バンドに在籍、この時期のプレイにより、彼の名前は広く知られるようになる。単なるセッション・ミュージシャン、サイドメン的な存在から、人気バンドのメンバーへとワンステップ進んだのである。

コットン・バンドの脱退後は、活動の拠点を西海岸に移し、ジョン・リー・フッカーのバンド、サックス奏者テリー・ハンク率いるグレイスン・ストリート・ハウスロッカーズなどでギターを務める。フェントン・ロビンスン、フレディ・キング、ジミー・リードらのバックを務めたこともある。

その後、タッカーは自ら歌も務めるルーサー・タッカー・バンドを結成して、サンフランシスコのベイエリア、あるいはテキサス州オースティンのブルースクラブで長らくライブ活動を行う。

タッカーは1993年、57歳の若さで心臓発作のため、カリフォルニア州グリーンブレイで亡くなっている。

このように数多くのバンド、アーティストの元でギターを弾きながらも、実は生前、彼自身のアルバムは一枚もリリースされていなかった。レコーディングはしていたものの、それが日の目を見ることはなかったのである。

ようやく、初のアルバム「Sad Hours」がタッカーの追悼盤として、死より1年経った94年にリリースされた。本日取り上げた一曲、「Mean Old World」はそこに収録された、リトル・ウォルターのカバー曲だ。

レコーディングは90年。タッカーがしばしば出演していたオースティンのブルースクラブ、アントーンズのオーナーにして同名のレコード会社の創設者、クリフォード・アントーンがレコーディングの機会をくれたのである。

メンバーはボーカル&ギターのタッカーのほか、ギターのデレク・オブライエン、ピアノのメル・ブラウン、オルガンのリース・ワイナンス、ベースのラッセル・ジャクスン、ドラムスのジョージ・レインズ、トニー・コールマン、そしてトランペットのキース・ウィンキングをはじめとするホーン・セクション。これにゲストハーピストとして、ファビュラス・サンダーバーズのキム・ウィルスンが加わっている。

普段一緒にバンドをやっている連中と共に、リラックスした演奏を繰り広げるさまが、そこに感じ取れる。

「Mean Old World」という曲は、クレジット上はエルモア・ジェイムズの作品となっているが、もともとは1942年にT・ボーン・ウォーカーが作り、レコーディングしたナンバーだ。レコードは45年にようやくリリースされている。

これをリトル・ウォルターが52年に取り上げる。歌詞も何か所か書き直されて、バックにジ・エイシズ(マイヤーズ兄弟とフレッド・ビロウ)を従えて、アレンジもシカゴ・ブルース流に大きく変わっており、ほぼリトル・ウォルターのオリジナルと言ってよい仕上がりになっている。本バージョンはR&Bチャートで6位というヒットになった。

タッカーはそのウォルター版を直接カバーしたということになる。ただし、ハープをメインにフィーチャーしているウォルター版とは大きな違いがあって、こちらはタッカーのスライド・ギターを主役としている。キム・ウィルスンのハープも参加しているものの、あくまでも雰囲気作りのための脇役に徹している。

タッカーの弾くスライド・ギターには、先輩であるエルモア・ジェイムズの影響が強く感じられる。実際、アルバム「Sad Hours」には、「Luther’s Tribute To Elmore」というタイトルのオリジナル曲も収録されてるいるぐらいだから、タッカーがいかにエルモア好きだったかは、まる分かりであるね。

そして、タッカーのソリッドで無駄のないギタープレイも素晴らしいのだが、着目すべきなのは、彼の歌声だろう。専業シンガー的なテクニカルな歌というのではないのだが、力強く、なかなか味わい深い歌いぶりなのだ。ソウルを感じさせる声と言いますか。

同アルバムは、半分以上はタッカーのオリジナル曲で占められているが、残りはアイク・ターナーやエディ・ボイドといった彼が影響を受けたブルースマンのナンバー、タッカーがステージで十八番とした「Sweet Home Chicago」などが収められている。

翌95年には、亡くなった93年にレコーディングされた、ザ・フォード・ブルース・バンドとの共演アルバム「Luther Tucker & The Ford Blues Band」もリリースされた。

生前はまとまったアルバム一枚すら出なかったタッカーであったが、こうやって2枚のアルバムで、今後ずっと彼の音を聴き続けることが可能になった。これがタッカーへの、一番の供養なのだろうな。

地味な裏方のままで終わったのでは実にもったいない、小味でピリッとした音楽センスを持ったルーサー・タッカーの歌声とギター・プレイ。ぜひ、聴き直してみてほしい。




音曲日誌「一日一曲」#465 トニー・ジョー・ホワイト「Rainy Night In Georgia」(Monument)

2024-07-14 08:19:00 | Weblog
2024年7月14日(日)

#465 トニー・ジョー・ホワイト「Rainy Night In Georgia」(Monument)




トニー・ジョー・ホワイト、1969年リリースのアルバム「…Continued」からの一曲。ホワイト自身の作品。ビリー・スワンによるプロデュース。

米国のシンガーソングライター、トニー・ジョー・ホワイトは1943年7月ルイジアナ州オークグローヴ生まれ。農家に育ち、幼少期よりカントリー、ゴスペルに親しみ、ギターを弾き始める。

高校のダンスパーティで演奏し、卒業後はテキサス、ルイジアナのナイトクラブに出演するようになる。当時のレパートリーは、エルヴィス・プレスリーやジョン・リー・フッカーなどの曲であった。

20代半ばの1967年、テネシー州ナッシュビルのモニュメントレーベルと契約、カントリー系シンガーソングライターのビリー・スワン(1942年ミズーリ生まれ)がプロデューサーとなって、レコーディングが行われる。

68年に初シングル「Georgia Pines」をリリースしてデビュー。その後、ファースト・アルバム「Black and White」を同年にリリース。

その中に収録されている「Polk Salad Annie」を同年6月にシングルリリースしたが、しばらくはヒットせず、レーベルからは失敗作とみられていた。

しかし、なんとリリースしてから9か月後に火が付く。ナッシュビルのクラブでの地道な演奏活動が実を結んだのだろう、「Polk Salad Annie」はチャートをジリジリと上昇し、全米8位となった。

これによりホワイトは、ついに全国的な知名度を得たのだった。

その大ヒットより少し前、セカンド・アルバムが69年初頭にリリースされた。「…Continued」である。プロデュース担当は前作同様、ビリー・スワン。

このアルバムからは「Roosebelt and Ira Lee」がシングルカットされたが、全米44位と地味なヒットに終わった。アルバムも全米183位止まり。

しかし、収録曲のひとつが、のちに注目されるようになる。それが本日取り上げた「Rainy Night In Georgia」である。

ホワイト本人のコメントによると、この曲は「Polk Salad Annie」同様、ホワイトが高校卒業後、ジョージア州マリエッタに移住した頃の生活がベースとなって生まれたナンバーだという。

この哀愁味溢れるバラード・ナンバーに着目したのは、ソウルシンガーのブルック・ベントン(1931年サウスカロライナ生まれ)であった。

ベントンはもともとナット・キング・コールやクライド・マクファターなどのソングライターとして活躍した後、自らの歌でも50年代末にブレイク、「It’s Just a Matter of Time」「Hotel Happiness」をはじめとするヒット曲を連発していたが、60年代後半からはヒットも途絶えていた。

そんな「過去の人」になりかけていたベントンが、移籍したコティリオンレーベル(アトランティック傘下)より69年12月にリリースした「Rainy Night In Georgia」のカバーバージョン・シングルが、久しぶりの大ヒットとなった。

R&Bチャートで1位、全米4位、アダルトコンテンポラリーチャートで2位という、輝かしい成績を収めたのである。

ホワイト自身はシングルリリースしようとしなかった地味な曲が、これにより大きくクローズアップされることとなり、「Polk Salad Annie」のヒットと共にホワイトの評価を大いに高めることになったのだ。

翌70年には、エルヴィス・プレスリーが「Polk Salad Annie」がライブのレパートリーに取り上げて、ライブ・アルバム「On Stage」(70年6月リリース)に収録した。これもまた、ホワイトの名を大きく高めることに寄与する。このプレスリー・バージョンは、英国とアイルランドではシングル化され、ヒットしている。

その後のホワイトは、3枚のシングルでマイナー・ヒットを出していくが、ヒットの勢いはそこで止まる。アルバムもコンスタントに出し続けるが、ファースト、セカンド(それぞれ全米51位、183位)を超えるようなヒット作は、結局出せなかった。

ホワイトがクローズアップされたのは、つまるところ69年からの数年ということになるが、彼はその状況にも心屈することなく、我が道を歩み続けた。

そしてもう一度、花を咲かせる。89年、ホワイトはダン・ハートマン、ロジャー・デイヴィスらと共に、人気女性シンガー、ティナ・ターナーのアルバム「Foriegn Affair」のプロデュースに携わり、4曲を提供する。

そのうち「Steamy Windows」と「Foriegn Affair」がシングルリリースされて、ヒット。前者は全米39位、後者はドイツで35位となった。アルバムも、本国でこそ成功しなかったが、ヨーロッパでは好評で、特に全英で初の1位を獲得している。

これが起爆剤となってホワイト本人も、91年に久しぶりにレコーディングしたアルバム「Closer to the Truth」をリリース、その中でターナーに提供した2曲「Steamy Windows」「Undercover Agent for the Blues」をセルフ・カバーしたのであった。

同アルバムは、ヨーロッパとオーストラリアを中心に売れて、25万枚以上のセールスとなった。

ホワイトは2018年10月、75歳でナッシュビルで亡くなっている。日本には1979年と2007年に2度公演で訪れている。

彼の生み出した音楽は、スワンプ・ロックとも呼ばれて、一つのカテゴリーともなっている。黒人音楽、白人音楽が完全に融合したサウンドは、唯一無二のものだ。

その歌声やギタープレイは、派手で目立つようなものでもないし、技巧をひけらかすようなものでもないが、心にじんわりと染み込んで来るような、深い味わいがある。

オルガンやストリングスの響き、そしてホワイトの聴くものの耳と心を包み込むような歌声が、絶品な一曲「Rainy Night In Georgia」。

音楽を広く、そして深く知る者でなくしては到底達しえない境地が、そこにはある。ぜひ、オリジナル・バージョンで、本曲の真髄を知ってもらいたいものだ。




音曲日誌「一日一曲」#464 ビージーズ「Lonely Days」(Polydor)

2024-07-13 07:37:00 | Weblog
2024年7月13日(土)

#464 ビージーズ「Lonely Days」(Polydor)




ビージーズ、1970年11月リリースのシングル・ヒット曲。バリー・ギブ、ロビン・ギブ、モーリス・ギブの作品。ロバート・スティグウッド、ビージーズによるプロデュース。

英国のロック・グループ、ビージーズは、バリー(46年9月生まれ)、ロビン、モーリス(共に49年12月生まれの双子)のギブ兄弟により1958年に結成され、2012年にロビンが亡くなるまで、半世紀以上にわたって活動を続け、数々のヒット曲を残している。

特に筆者の世代の記憶に残っているのは、70年代後半にディスコ・サウンドを大胆に導入、映画「Saturday Night Fever」の音楽を担当、「Night Fever」をはじめとするヒットを飛ばして、一大ブームとなったことだろう。

だが、その全盛期に至るまでには、いろいろと紆余曲折があり、決して穏やかな道のりばかりではなかった。

グループの歴史を結成当時から紐解き出すと、本欄の1回分の量を大幅に超えてしまうので、それはあえて書かない。

とりあえず、69年時点のビージーズについて、見ていこう。

67年の「New York Mining Disaster 1941」のヒット以来、彼らは2年間で全世界的なヒット曲を数多く出し、押しも押されもしない、そんなトップ・グループに成長していた。未来は順風満帆に見えた。

しかし、問題点はあった。3人兄弟のコーラスが売りのビージーズではあったが、メインボーカルに誰がフィーチャーされるかを、ロビンは非常に気にしていた。多くのヒット曲でリードを取ってきた彼は、自分の声に自信があったからだ。

ところが、彼らのプロデューサー、ロバート・スティグウッドは、長兄のバリーをフロントマンとみなして制作していた。これに対するロビンの不満が高まっていったのだ。また、メンバー間の確執もいろいろとあったという。

同年2月には初の2枚組アルバム「Odessa」をリリース。ロビンはテレビのショー番組への出演を最後に、ライブに登場しなくなる。そして、3月後半にビージーズからの脱退を宣言して、ソロ活動に入ってしまう。

6月にはベスト・アルバム「Best of Bee Gees」をリリース。バリーとモーリスはふたりで次作「Cucumber Castle」のレコーディングを9月まで続ける。ふたりによる先行シングル「Don’t Forget to Remember Me」は英国ではヒットしたが、米国では不発。続く2曲も米国ではウケず、世界のトップ・グループの面影は、もはやなかった。

ロビン抜きのビージーズは、魅力が半減してしまった。その厳しい現実が、これでよく分かる。

70年4月にアルバム「Cucumber Castle」をリリース。全英57位、全米94位という残念な結果となってしまう。

これにより、グループはいよいよ崩壊の危機に晒される。ついにバリーとモーリスも別々の道を歩むようになり、それぞれソロ・アルバムのレコーディングに入ってしまう。ともにリリースされるまでには至らなかったが、バリーはシングル1枚のみリリースしている。これはチャートインしなかった。

一方、ロビンは同年2月にファースト・アルバム「Robin’s Reign」をリリースする。すでに前年6月リリースのシングル「Saved by the Bell」が全英2位のヒットとなっており、それを含んでいたものの、商業的にはヒットしなかった。ロビンの方も、世界的シンガーからローカル・スターレベルに落ちてしまったのだ。

分裂により、いわば一挙両損の状況となってしまったビージーズ=ギブ兄弟は、その後どうしたか。

グループを抜けたロビン本人が、休暇でスペインに滞在していた兄バリーの元に電話をかけてきて「またやろう」と言ったのである。そして、3人で充分に話し合い、再結成を決め、8月21日に発表となった。

これにより、20年以上生活を共にしてきた彼らは、わだかまりなく、再び合流できたのである。やはり、血の絆は何よりも強いものだね。

空中分解状態から脱出した3兄弟は、さっそくレコーディングに入る。そして完成したのが本日取り上げた一曲「Lonely Days」である。

再結成が決まるや、バリーの家の地下室ですぐに書かれたという本曲は、ロンドンのIBCスタジオでレコーディング、11月にリリースされた。

3人のコーラスによる、ゆったりとしたヴァースで始まる。一転してテンポチェンジ、力強いピアノに乗ったユニゾンコーラス、そしてあの強力無比なハーモニーが復活する。これぞ、ビージーズだ!

誰がメインとかいうのでなく、全員がフィーチャーされているのがいい。後半のバリーと、ロビン&モーリスの掛け合いも、ソウルフルでカッコよい。

本曲は前3曲とは違ってたちまち大ヒット、全米3位、全英33位に輝いた。

その後も「How Can You Mend a Broken Heart」を翌71年5月にリリース、彼らとしては初めて全米1位を獲得した。

この2曲は70年11月リリースのアルバム「2 Years On」(全米32位)に収められている。

2年という暗中模索日々を経て、ひとつにまとまったギブ3兄弟。その後は別れることなく活動を続け、70年代後半には過去以上の栄光を掴むこととなる。

兄弟の固い絆が生み出した名曲、「Lonely Days」。このリユニオンなくしては、77年のサタデー・ナイト・フィーバーの熱狂もまたなかった。

彼らの黄金のハーモニーに、70年代ポップの真髄を感じ取ってほしい。

音曲日誌「一日一曲」#463 エルトン・ジョン「Rocket Man」(DJM)

2024-07-12 07:24:00 | Weblog
2024年7月12日(金)

#463 エルトン・ジョン「Rocket Man」(DJM)




エルトン・ジョン、1972年4月リリースのシングル・ヒット曲。エルトン・ジョン、バーニー・トーピンの作品。ガス・ダッジョンによるプロデュース。バリ録音。

英国のシンガーソングライター、エルトン・ジョンは本名レジナルド・ケネス・ドワイト。1947年3月、ロンドン郊外のピナーに生まれる。両親は不仲で彼が15歳の時に離婚している。

4歳の頃からピアノを弾き始め、幼くして才能を顕す。王立音楽院に合格して、卒業寸前まで約6年間在籍していた。バッハ、ショパンなどを弾く一方で、R&B、ソウルにも興味を持ち、バンド活動を活発に行う。

レコード会社のオーディションに落ちたことがきっかけで、作詞家のバーニー・トーピンを紹介してもらう。以来、長きにわたるトーピンとの共作が始まる。

67年以来、エルトン・ジョンと名乗り、68年トーピンとのチームでDJMレーベルにソングライターとして契約。他のシンガーに曲を提供する一方、同年初のシングル「I’ve Been Loving You」をリリース。

70年4月、セカンド・アルバム「Elton John」をリリース。そこから10月にカットしたシングル「Your Song(邦題・僕の歌は君の歌)」がいきなり全英7位、全米8位の大ヒットとなり、エルトン・ジョンはスターシンガーへの道を歩み始める。

その頃はピアノの弾き語り、あるいはベース、ドラムスを加えたトリオ編成での演奏が中心で、楽曲も叙情的、内省的なものが多く、いわゆるポップ・ミュージックらしさはあまり感じられなかった。

しかし、大ヒットを出して全世界的にアピールしたこと、他の有名ミュージシャン達(例えばジョン・レノン、マーク・ボラン)とも積極的に交流したことにより、彼の性格、音楽的指向性もかなり変化していく。

ロックスターとして、人前で目立つことに快感を感じるようになり、サウンドもポップ志向になっていくのだ。

それが顕著に現れたのが、本日取り上げた一曲、72年3月にリリースしたシングル「Rocket Man(I Think It’s Going to Be a Long, Long Time)」であると、筆者は思う。

このバラード・ナンバーはその後5月リリースされたアルバム「Honky Chateau」に収録されるが、先行シングルとして出したところ、全英2位、全米6位と2年前の「Your Song」を上回る大ヒットとなった。

アルバムの方もその勢いに乗り、全英2位、全米1位と記録破りのビッグヒットとなっている。彼の人気が一過的なものではないことを、見事に証明してみせたのであった。

このアルバムからは、それまでのボール・バックマスターによるストリングス・アレンジに代わって、バックがシンセサイザーを多用したポップなサウンドに変化している。

「Rocket Man」もまさにその好例で、それまでのエルトンのイメージを大きく変える一曲に仕上がっている。バックバンドのメンバーに、ギタリストのデイヴィー・ジョンストンを加えたことにより、ロックっぽさも大幅にアップした。

歌詞内容としては、宇宙飛行士の仕事、生活ぶりを、サラリーマンの日常になずらえた、ユニークな視点が面白い。ちょっと皮肉めいた、でもどこか暖かいユーモアが感じられる。当時の米ソによる宇宙開発時代を、如実に反映しているとも言える。

よりポップに一皮剥けたエルトンは、同アルバムより、まさに破竹の進撃を開始することになる。

翌73年リリースの「Don’t Shoot Me I’m Only the Piano Player」で全英・全米両方で1位をついに獲得、その後75年の「Rock of the Westies」に至るまでの5枚のアルバムは全て全米1位に輝いている。

72年から75年までの約4年間は、まさにエルトン・ジョンの人気シンガーとしての黄金時代であったのだ。

その後も数々のヒットを40年間にわたって出し続けた、ピアノ・ロックのパイオニアにして完成者、エルトン・ジョン。

彼の歴史的覚醒ポイントとも言える名曲を、70年代当時の、あなたの想い出と一緒に、もう一度味わってみて。

音曲日誌「一日一曲」#462 シスター・ロゼッタ・サープ「That’s All」(Decca)

2024-07-11 07:33:00 | Weblog
2024年7月11日(木)

#462 シスター・ロゼッタ・サープ「That’s All」(Decca)






米国の黒人女性シンガー/ギタリスト、シスター・ロゼッタ・サープ、1938年リリースのシングル・ヒット曲。ワシントン・フィリップスの作品。

シスター・ロゼッタ・サープは1915年3月、アーカンソー州コットンプラントにてロゼッタ・ヌービン(またはアトキンス)として生まれる。教会の歌手であった母親の強い影響でサープも6歳から歌とギターを始め、音楽の神童と呼ばれた。

1920年代半ばに母と共にシカゴに移住、ロバーツ寺院で宗教コンサート活動を行い、地方へもツアーする。1934年、19歳で説教師トーマス・サープと結婚。芸名をシスター・ロゼッタ・サープとする。38年に離婚、ニューヨークに移住する。

その地でサープの大きな飛躍が始まる。デッカレーベルと契約して、10月に初レコーディングを行う。その4曲のうちの1曲が、本日取り上げた「That’s All」である。

この曲はもともとゴスペルシンガー、ワシントン・フィリップス(1880年テキサス生まれ)が1917年に作り歌ったゴスペル・ブルース「Denomination Blues」であった。AB面にまたがる長尺の曲で、8000枚余りが売れ、当時としては結構なヒットとなった。内容はいたって宗教的なものだった。

サープはこの曲を「That’s All」と改題、歌詞も少し手直ししてレコーディングしている。デッカレーベルとしては、最初に録音したゴスペル曲だった(他の3曲「Rock Me」なども同様)。

ゴスペルとはいえ、バックにはジャズ楽団を配して、いかにも世俗的なムードのアレンジを施した本曲は、まもなくヒットして新人サープの名を大いに広めた。

サープの、ゴスペル仕込みのパンチの効いたボーカルはもちろんだが、時折り聴かれる彼女の流暢なギターフレーズが、リスナーのハートをしっかりと掴んだのである。

1930年代という、ギターはもっぱら男性が弾くべき楽器とされ、女性がギターを弾くことが極めて珍しかった時代に、サープは何の躊躇もなく、人前でその確かな腕前を披露したのだから、そりゃあ目立つ。「まるで男性のようにギターのうまい女性がいる」と評判が広まったのである。

サープのギタープレイには、都会的なブルースと、トラディショナル・フォークの両方のセンスが溶け込んでおり、その強靭なビート感覚には舌を巻く。

今聴いてみても、古さはほとんど感じさせない。38年録音というのに、50年代のロックンロールと並べてみても聴き劣りしないくらいの先進性がある。

後にこの曲は40年代に、アコースティック・ギターからエレクトリック・ギターに持ち替えたサープによって、テンポも少しアップして演奏されるようになる。

これがエルヴィス・プレスリー、チャック・ベリーーリトル・リチャードといったロックンロールのパイオニア達を大いに刺激したのである。ベリーは「オレは、キャリアを通じてずっと彼女の真似をしていただけさ」と語っていたぐらいである。

女性シンガーでは、アレサ・フランクリン、ティナ・ターナーらにも大きな影響を与えている。

歌とギター、両方でロックンロールの誕生に大きく寄与したロゼッタ・サープは、「ロックンロールのゴッドマザー」「元祖ソウル・シスター」の異名を取るようになる。

73年、58歳の若さで亡くなるまで精力的な活動を続けた、ロゼッタ・サープ。今も残っているパフォーマンス映像を観るに、そのステージは圧倒的な迫力がある。

新旧ふたつのスタジオ版、そしてライブ版の「That’s All」で、彼女というミュージシャンの桁外れのパワー、スゴさに触れてほしい。




音曲日誌「一日一曲」#461 ニック・ギルダー「Hot Child in the City」(Chrysalis)

2024-07-10 07:39:00 | Weblog
2024年7月10日(水)

#461 ニック・ギルダー「Hot Child in the City」(Chrysalis)



ニック・ギルダー、1978年6月リリースのシングル・ヒット曲。ギルダー本人、ジェイムズ・マカロックの作品。マイク・チャップマンによるプロデュース。

本欄の原稿が、ここのところずっと長文化する傾向が続いている。これは読むひともしんどいだろうし、これからはもっと短め、軽めのスタイルに切り替えていこうかなと思う。そんな第一弾。

70年代、英国から生まれたグラム・ロックのブームは、たちまち海を越えてアメリカ大陸にも押し寄せた。

ハード・ロックやらプログレやらロックンロールやら、音楽的な指向性は必ずしも同じとはいえなくても、とにかくド派手なメイク、ギラギラした衣装という煌びやかな演出は、質実剛健なロックへのアンチテーゼとして、多くのロック・バンドに影響を与えたのである。

75年、カナダのバンクーバーにて結成された5人組ロック・バンド、スウィーニー・トッドも、まさにそのひとつだった。

彼らは同年、デビュー・アルバム「Sweeny Todd」をロンドンレーベルよりリリース。そこから76年4月に「Roxy Roller」をシングルカットしたところ、カナダ国内で大ヒット、3週連続で1位となった。その勢いで米国でも6月にリリースするも、こちらは火が付かず。

この曲、聴いていただくと分かると思うが、リード・ボーカルの声が「これって男?女?」のレベルで、完全に性別不詳なのである。グラムなメイクや衣装も相まって、聴き手を混乱させる。これってもちろん、狙ってやっているよな。サウンドはいかにも、Tレックスあたりを意識して作られている感じだ。

アルバムを1枚出したところで、そのリード・ボーカリストはバンドを脱退してしまう。それが、今日の主役、ニック・ギルダー(1951年ロンドン生まれ)である。

彼はバンドのギタリスト、ジェイムズ・マカロックと共に米国を目指したのである。

レーベルもクリサリスに移籍、ソロ・アーティストとして再出発したのが77年。ファースト・アルバム「You Know Who You Are」をリリース。その中に「Roxy Roller」の再録バージョンも含まれていた。

このアルバムでは火が付かなかったものの、翌78年、ついに大ブレイクを果たす。それが、本日取り上げた一曲「Hot Child in the City」である。

ギルダーとマカロックのコンビが作った本曲は、ロサンゼルスの街中で児童売春の現場を目撃したギルダーの体験に基づいている。現在の日本で言えば、トー横キッズのような少女達の生態を、無邪気なポップ・ソングのふりをして描いたのである。

この少々毒のある背徳的な内容と、ギルダーの中性的な妖しげなムードのボーカルが見事にマッチした。本曲は少しずつチャートを上昇して、実に約5か月、21週をかけて全米1位に上りつめたのだった。そして、カナダでも、もちろん1位となる。

ギルダーはその後、大きなヒットは出すことはなかったが、80年代半ばまではコンスタントにアルバムリリースを続けた。事実上一発屋となったわけだが、それでもこの「Hot Child in the City」という曲の素晴らしさには変わりがない。

ギルダーはスウィーニー・トッド時代は「女に見えるけど、実は男でしたぁ!」みたいな出オチ芸のレベルだったが、ソロとなってからは歌声にも強さが加わって、多面的な表現力をもつボーカリストに成長した。

また、バックでギルダーを支えるマカロックの曲作りのセンス、ギタープレイもいい。本曲の中間部のソロは、70年代のポップ・ロックあまたある中でも、ベスト・プレイのひとつに入れていいんじゃないかな。

イーグルスあたりが人気を博していた時代に、一方ではこういうグラムの流れをひくポップなサウンドも、米国でしっかりと支持されていたのだ。70年代ってホント、懐が深いと思うね。






音曲日誌「一日一曲」#460 リッキー・ネルスン「Hello Mary Lou」(Imperial)

2024-07-09 08:27:00 | Weblog
2024年7月9日(火)

#460 リッキー・ネルスン「Hello Mary Lou」(Imperial)





リッキー・ネルスン、1961年5月リリースのシングル・ヒット曲。ジーン・ピットニー、カイエト・マンジャラチーナの作品。

米国のシンガーにして俳優、リッキー・ネルスンことエリック・ヒリアード・ネルスンは、1940年5月ニュージャージー州ティーネックにて、バンドリーダーの父オジー、女優の母ハリエットの次男として生まれる。

芸能一家に育ったネルスンは、8歳の時から家族と共にラジオやテレビに子役出演しており、個人としては映画「三つの恋の物語」(53年)、「リオ・ブラボー」(59年)などに出演している。

ネルスンは幼少期からカントリーに親しんでいたが、エルヴィス・プレスリーの登場に衝撃を受け、ロカビリーに熱中するようになる。クラリネット、ドラムの演奏も始める。

57年、彼は16歳の時、当時のガールフレンドにプレゼントするためのレコードを作りたいと考える。そこでネルスンは父の力添えにより、ジャズ系のヴァーヴレーベルと契約する。

テニス選手デイヴィッド・スチュアート・ジラムの書いた「A Teenager’s Romance」とファッツ・ドミノの当時のヒット曲「I’m Walkin’」をカップリングして4月にシングルリリース。

これが全米2位、同17位の両面ヒット。趣味や余技の域を大きく越える結果となってしまった。以降、ネルスンは俳優だけでなくプロシンガーとしての道も歩むごとになるのである。

ヴァーヴとは印税の条件、選曲やジャケットデザインの監修などの権利が自分に与えられていないという理由で契約を解除、インペリアルレーベルに5年契約という有利な条件で移籍する。この辺はもちろん、父オジーのバックアップあってこその収穫である。

この頃には、当初のバックバンドを解散して、ジェイムス・バートン(1939年ルイジアナ生まれ)を中心とする実力派バンドを新たに結成している。

インペリアルでの初シングル「Be Bop Baby」(57年)も大ヒット、全米5位、R&Bチャートでも6位となる。以降、同レーベルでからは「Stood Up」「Poor Little Fool」「Lonsome Town」(共に58年)といったトップテン・ヒットが続いていく。

「Poor Little Fool」では初めての全米1位を獲得、人気も沸騰、最初の黄金時代と言える時期だった。

59年から60年にかけては、ヒットを連発していたものの、ランクも下降気味で、いわば中弛み、ジリ貧の時期に差し掛かっていた。

そんな中、61年に久しぶりにナンバーワン・ヒットが復活する。4月にリリースしたシングル曲「Travelin’ Man」である。

これはシンガーソングライター、ジェリー・フラー(1938年テキサス生まれ)が書いたR&B、ソウル色の強い曲だ。元々はサム・クックに歌ってもらうつもりで作られたが、クックのマネージャーが曲を気に入らず、ネルスンにお鉢が回って来たのだった。

シングルは「Hello Mary Lou」とのカップリング(両A面)でリリースされ、「Travelin’ Man」が全米1位、「Hello Mary Lou」が同9位にランキングした。両者は全英2位にもなった。

一応、前者の方が当時はよりヒットしたわけだが、60年以上の歳月が経過した現在となっては、この曲を思い出せるリスナーはいるだろうか?

おそらく、ほとんどいないのではないだろうか。

それに対して、「Hello Mary Lou」は現在でも忘れられることなく、プロ・アマの区別なく多くの人によって歌い継がれている。えらい差である。

「Hello Mary Lou」は、1940年と奇しくもネルスンと同じ年にコネチカット州ハートフォードに生まれたシンガー、ジーン・ピットニーによって書かれた曲だ。

ピットニーは「Hello Mary Lou」以前に自作でのヒットを出しておらず、同年の「(I Wnna) Love My Life Away」で初のトップ40入りを果たすことになる。

そしてあの「Lousianna Mama」で、極東の日本にまで知られるようになる。

いわば無名のシンガーソングライターの作品だったわけだが、実は盗作ではないかと疑われた曲でもある。というのは、カイエト・マンジャラチーナが作曲し、彼のバンド、スパークスが57年にシングルリリースした「Mary, Mary Lou」という曲に酷似しているのである。

同曲はさっそく同年ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツによりカバーされ、そのバージョンがよく知られるようになる。また、翌58年にはサム・クックにもカバーされている。

「Hello Mary Lou」がリリースされた時、「Mary, Mary Lou」の出版社、チャンピオン・ミュージックが盗作で訴える。結局、マンジャラチーナを共同作曲者としてクレジットすることで、和解が成立している。

実際、「Mary, Mary Lou」と「Hello Mary Lou」を聴き比べてみると、前者が後者に与えた影響は間違いなく感じ取られ、明らかに「クロ」であるように思う。まぁ、妥当な結末であるな。

以上の経緯により、その後、本曲はふたりの名前が記されるようになったのである。

この曲はその後、国を問わず、さまざまなアーティストによってカバーされるようになる。フランスやスウェーデンでもヒットしたこともあって、その地のシンガーが歌ったバージョンも登場した。70年にはカントリーシンガー、ボビー・ルイス(1942年生まれ)がカバーして、カントリーチャートで14位となった。

われわれ日本のロックファンにおいては、なんといってもクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルのバージョンが一番知られているだろう。

72年リリースのラスト・アルバム「Mardi Gras」に収録されている本曲だが、筆者の記憶では、CCR版と並べて聴き比べるような形で、オリジナルのネルスン版もラジオでよくかかっていたという記憶がある。

個人的な記憶をさらに書いてしまうと、77年頃、筆者が大学時代に組んでいたバンドで、CCR好きな筆者がこの曲を取り上げたことがある。今となっては、懐かしいばかりである。

CCR版は、そのギターソロも含めて、オリジナルにかなり忠実に再現していた。

オリジナルのギターパートは、もちろん名手ジェイムズ・バートンが弾いている。本曲のソロフレーズは後のロック・ミュージシャン達にも大きな影響を与えており、クイーンのブライアン・メイが引用して弾いていたことでも有名だ。

その後、リッキー・ネルスンは21歳になったのを機にリック・ネルスンと改名、61年5月リリースのアルバム「Rick Is 21」よりその名義で活動するようになる。

以降はカントリー色をより濃くしたサウンドで、85年12月、45歳で飛行機事故で亡くなるまでレコードをリリースし続けた。

全盛期は57年から63年頃までであったが、当時はエルヴィス・プレスリーをもしのぐ人気があったリッキー・ネルスン。

碧い眼が特徴的な北欧系のハンサムなルックスももちろんだが、その陽性の声もまた魅力に富んでいた。

「天は二物を与えず」とはよく言われることだが、ネルスンのような例外を見てしまうと、「いやいや、世の中には、間違いなく格差と言うものがあるぜ」という確信めいた愚痴に至ってしまう。

プレスリーのような叩き上げのヒーローとはまた違う、ええとこ育ちで、スターに生まれるべくして生まれた男、リッキー・ネルスン。

その伸びやかな美声を、もう一度、彼のエバーグリーンな一曲、永遠のカントリー・ソングで堪能してみよう。








音曲日誌「一日一曲」#459 カール・ウェザーズビー「Travelin’ Man」(Bearpath)

2024-07-08 08:20:00 | Weblog
2024年7月8日(月)

#459 カール・ウェザーズビー「Travelin’ Man」(Bearpath)




カール・ウェザーズビー、2019年リリースのライブ・アルバム「Live At Rosa’s Lounge」からの一曲。アルバート・キングの作品。オソ・ブルースによるプロデュース。

米国のブルースマン、カール・ウェザーズビーことカールトン・ウェザーズビーは1953年2月、ミシシッピ州ジャクスン生まれ。幼少期は同ミードヴィルで過ごし、8歳の時に家族とともにインディアナ州イーストシカゴに移住している。

60年代後半、10代になったウェザーズビーは、ギターを弾き始める。アルバート・キングを愛聴していた彼は、そのシングル・ヒット曲「Crosscut Saw」(66年リリース)をコピーして何度も練習した成果を父親に聴かせる。

たまたまその場に居合わせた父の友人、ディーゼル整備士だという男性が「おい、この曲はそういう風には弾かないよ、俺の弾き方とは違う」と言った。

そう言った男は、なんとアルバート・キング本人だったのである。ウェザーズビーは、キングから直接ギターの手ほどきを受ける。そして、キングはウェザーズビーの熱意に深く感銘を受ける。

これがきっかけで、のちにキングはウェザーズビーを雇って、コンサートツアーでリズムギターを弾かせることになるのである。

このエピソードを聴いて驚いたのは、レコードもリリースしてヒット、知名度もそこそこあったアルバート・キングほどのミュージシャンでも、けっして音楽だけでは食べていけなかった時期があったいう事実だ。

実際、多くの有名なブルース・ミュージシャンは、レコードを出せるようになっても、何かしら兼業しないと生活を維持出来なかったケースが大半であったようだ。ブルースは他のポピュラー・ミュージック、白人系のポップスなどに比べると、なかなか商業的に大きな利益を出しにくいジャンルなのだった。

さて、ウェザーズビーも多くの例に漏れず、プロミュージシャンへの道は平坦なものではなかった。学校を卒業したのちは製鉄所の労働者、刑務所の看守、警察官など、さまざまな職業につく。また、ベトナム戦争中の1971年から77年までは、米国陸軍で兵役についていた。

戦争終了による復員後、ウェザーズビーはようやくプロミュージシャンの道を歩み出す。前述のようにキングからの引きで、彼のロードトリップに同行できるようになり、リズムギタリストとしてステージ出演する。

1979年から81年にかけてのこの経験により、ウェザーズビーはブルース・ミュージシャンとしての己れをついに確立したのである。

80年代、ウェザーズビーはほぼ同年代のブルース・ハーピスト/シンガー、ビリー・ブランチ(1951年10月イリノイ州グレートレイクス生まれ)と知り合う。ブランチはすでにサンズ・オブ・ブルース(SOB)というバンドで高い評価を得ていた。

同グループは初代のルーリー・ベル、そして二人目のカルロス・ジョンスンという優れたギタリストを擁していたが、ジョンスンが割とむらっ気なところがあり、仕事に穴を開けることもあったことで、次第にその代役がウェザーズビーに回って来るようになる。

最終的にSOBはウェザーズビーを正式のメンバーとして迎える。以来、ウェザーズビーはおよそ15年にわたってSOBに在籍することになり、ブルースミュージシャンとしての評価を大いに高めたのだ。

SOB時代の作品としては85年リリースのアルバム「Romancing the Blue Stone」、92年の「Mississippi Flashback」があり、その後2003年に「Blues Reference;As the Years Go Passing By」にも参加している。また、同時期のビリー・ブランチの何枚かのアルバムにもゲスト参加している。

歌も含めたソロでの音楽活動を強く望むようになったウェザーズビー は95年、SOBを離れて新しい道へと一歩踏み出す。時に42歳の決断であった。

エビデンスレーベルから初のソロアルバム「Don’t Lay Your Blues On Me」を96年リリースする。

以降、年に1枚程度のペースでアルバムリリースが続く。ブルース・ナンバーだけでなく、ソウルタッチのもの、バラードも含む幅広い作風でアルバムを構成しており、単にブルース一辺倒なミュージシャンではないところを見せている。これはブルース専門ではないことをアピールする、セールス面での対策だったのかもしれない。

エビデンスでのリリースは、2003年の「Best of Carl Weathersby」で終わる。翌2004年には初のソロ・ライブ・アルバム「In the House」をリリースしている。これはスイスのルツェルン・ブルース・フェスティバルでのレコーディングであり、盟友ブランチも参加している。SOB脱退後も、ブランチとの強い絆は続いており、それが2003年のSOBのアルバム参加にも表れている。

その後ウェザーズビーは、アルバムリリースごとにレーベルを変えていく。2005年にはレッドホットレーベルより「Hold On」をリリース。2009年にはマグノリアレーベルより「I’m Still Standing Here」をリリース。

それらの内容は、ブルース中心というよりは、彼のソウル系のオリジナル曲がメインで、ゴリゴリのブルースマニアなリスナー、つまり筆者などにはいささか物足りないものがあった。

もちろん、ソウル系の曲でも彼の見事にテクニカルなギターが十分聴けることには違いないのだが、SOB時代などの、かつてのダイナミックで熱いブルースギター・プレイを知っているファンにすれば、歯がゆい思いは残った。

そんなアルバムの中で、時折りブルース・ナンバーが挟まっていると、「おお!」と心躍らせてしまう。それが「I’m Still Standing Here」に収録されていた「Travelin’ Man」であった。

この曲はアルバート・キングが1973年リリースしたアルバム「I Wanna Get Funky」に収められていた一曲のカバー。元曲は、わりと軽いタッチのファンク・ブルース・ナンバーだ。

テーマは旅回りのブルースマン、つまりキング自身の日常である。彼にしては珍しく、ストラトキャスターを弾いているのが印象的だ。

ウェザーズビーはこの曲を、気合いを入れてよりホットに歌い、プレイしている。もちろん、キングが多用するスクィーズ・フレーズもしっかりと再現して、師匠へのリスペクトを隠さない。

これがライブだったら、さらに最高だろうなと感じさせる出来だった。しかし、なかなか来日のチャンスもなく、10年の日々が過ぎた。

2019年、ウェザーズビーの、なんと10年ぶりのニュー・アルバムがリリースされる。タイトルは「Live At Rosa’s Lounge」。来日とはさすがにいかなかったが、待望のライブ・アルバム(15年ぶり)である。そして、内容ももちろんブルースがメインだ。

シカゴの西部にあるブルースクラブ、ローザズ・ラウンジにて収録。プロデュース担当はテキサスで活躍する若手白人ブルースマン、オソ・ブルース。

そのオープニング・ナンバーにこの「Travelin’ Man」が選ばれ、演奏された。まことに嬉しい限りであった。

アルバート・キングという先達がいなければ、自分はプロミュージシャンになっていたかも分からない。いって見れば、ブルースマン・ウェザーズビーの運命を決めた存在であるキングの曲をトップに持ってきたのは、必然であったと言えよう。

アルバム全体は、アッパーな曲あり、静かな曲あり、ヘビーな曲あり、非ブルース的な曲ありと、バラエティ豊かではあるが、どの曲にもウェザーズビーのブルース、そして音楽への愛が満ちあふれている。

66歳という年齢のミュージシャンでなくては出せない、味わい深い歌と気合いに満ちたギタープレイが、聴く者を心の底から感動させるのだ。

ウェザーズビーがブルースという自らの原点を確認した一曲、ぜひ耳を傾けていただきたい。
Carl Weathersby - I'm Still Standing Here (2009) chờ chạy lần 2

Carl Weathersby - I'm Still Standing Here (2009) chờ chạy lần 2

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音曲日誌「一日一曲」#458 チャック・ウィリス「C.C. Rider」(Atlantic)

2024-07-07 08:08:00 | Weblog
2024年7月7日(日)

#458 チャック・ウィリス「C.C. Rider」(Atlantic)




チャック・ウィリス、1957年リリースのシングル・ヒット曲。ウィリス自身の作品。

米国の黒人男性シンガー、チャック・ウィリスことハロルド・ジェローム・ウィリスは、1926年1月(28年とも)ジョージア州アトランタ生まれ。のちにプロ活動時はターバンを巻いて異邦人ふうを装っていたが、バリバリの南部米国人である。

世に出るきっかけは、タレント・コンテスト出場だった。アトランタのラジオDJ、ゼナス・シアーズがウィリスの才能を認め、彼のマネージャーとなることを申し出たのだ。

シアーズの助けにより、ウィリスは大手コロムビアと51年に契約、プロキャリアが始まる。主にコロムビア傘下のオーケーレーベルからシングルリリース、翌52年、3枚目の「My Story」でR&Bチャート2位の初ヒット。自作曲を中心にリリースして、シンガーソングライターとしての評価も高めて行く。

53年、ファッツ・ドミノの同年の大ヒット曲「Going to the River」をカバーして、再びR&Bチャート4位のヒット。その後も「Don’t Deceive Me」(53年)、「You’re Still My Baby」「Feel So Bad」(ともに54年)と立て続けにトップテン・ヒットを出す。

ブルース色の強い「Feel So Bad」は、のちに61年にエルヴィス・プレスリーがカバーして全米5位、R&Bチャート15位のヒットとなっている。

その後は勢いが途絶え、55年はヒットが出なくなったが、翌56年、彼は息を吹き返す。

オーケーを離れて、アトランティックレーベルに移籍したウィリスは、再び精力的に作品を生み出し、ヒットを重ねていったのである。

56年に出したヒットは、まずは「It’s Too Late」。R&Bチャートで3位になったこのバラードは他のアーティストの支持も高く、カバー・バージョンもずば抜けて多かった。

オーストラリアのシンガー、ジョニー・オキーフをはじめとして、ブルースシンガー、テッド・テイラー、ザ・クリケッツ、ロイ・オービスン、レス・ポール&メアリー・フォード、オーティス・レディング、フレディ・キングなど、無数のフォロワーがいる。

われわれ世代に一番知られているのは、むろんデレク&ザ・ドミノスのバージョンだろうな。アルバム「Layla」に収められたことで、初めてこの曲の存在を知ったリスナー(筆者も含む)は多かったはずである。

56年には「Juanita」でR&Bチャート7位、「What ha’ Gonna Do When Your Baby Leaves You」で同11位のヒットも出している。

翌57年、それまでを大きく上回るヒット曲が出る。それが本日取り上げた「C.C. Rider」である。R&Bチャートで初の1位を取っただけでなく、全米12位も獲得して、人種の枠を大きく超えた、全米的大ヒットとなったのである。

もともとこの曲は、1924年に女性ブルースシンガーの先駆け的存在のマ・レイニー(1886年ジョージア州生まれ)が最初にレコーディングし、シングルリリースしている。当時のタイトルは「See See Rider Blues」。

作者はマ・レイニー、レナ・アラントとクレジットされているが、本来は黒人のボードビル巡業で生まれたとされるトラディショナル・ソングなので、完全なオリジナルとはいえない。

この曲の由来、ルーツを辿って行くと、それこそ一冊の本が出来てしまうくらいの情報量があるという。なので、あえてそこには触れないでおこう。機会があれば、別の原稿で取り上げるかもしれない。

とりあえず、この曲のテーマは、不実な恋人(男性)のことを歌ったものとだけ言っておこう。

本曲はその後、ビッグ・ビル・ブルーンジー、レッドベリーといったシンガーにより、もっぱら弾き語りのスタイルで歌い継がれるようになる。

ウィリスはこの30年以上前に生まれたブルース・ナンバーを、57年にジーン・バージのサックスをフィーチャーしたR&Bソングとして甦らせたわけだが、いきなり同郷出身のマ・レイニーからウィリスのサウンドにワープしたというよりは、ひとつの中継点を経てからであった、というべきだろう。

その中継点とは、43年にシングルリリースされた女性R&Bシンガー/ギタリスト、ビー・ブーズによる「See See Rider Blues」である。

ブーズは1912年メリーランド生まれ。ジャズピアニストのサミー・プライスの元でレコーディングされた本曲は、R&Bチャートの前身であるハーレム・ヒット・パレードで1位を獲得する大ヒットとなった。

非常にゆったりとしたテンポではあるが、ここからこの曲のR&B化が始まったと言えそうだ。

ウィリス版ではブーズ版のスロー・スタイルよりはテンポを大幅にあげて、バックにコーラスも追加、ロックンロール味の強いサウンドとなっている。

これにウィリスの力強いボーカルが乗ることで、本曲は最強のポップ・チューンとなった。

以降、この曲はマ・レイニーの曲、あるいはビー・ブーズの曲としてでなく、まずチャック・ウィリスの曲として認知されるようになるのである。

カバーバージョンも、基本的にウィリス版の歌詞を使って多数生み出され、その多くがヒットする。

例を上げれば、65年のミッチ・ライダー&ザ・デトロイト・ホイールズのカバー(メドレー中の一曲)は全米10位、66年のエリック・バードン&ジ・アニマルズのシングルも全米10位のヒットとなっている。

「Feel So Bad」をすでにカバーしていたエルヴィス・プレスリーもまた、70年に本曲を「See See Rider」のタイトルでレコーディング。72年以降は彼のコンサートのオープニング曲となった。いわば、彼の看板曲である。

プレスリー・バージョンの登場以降、本曲はもっぱらプレスリーの曲となってしまった感はあるね。

とはいえ、チャック・ウィリスがこの曲をモダナイズすることがなければ、曲そのものがこうも大きくクローズアップされることはなかったに違いない。

どこかのんびりとした雰囲気をまといつつも、そのどっしりとしたビートは逞しさと貫禄を感じさせる。ナンバーワンヒットにふさわしい、スケールの大きいナンバーである。

この曲のヒット後、ウィリスはもうひとつの大ヒット曲を翌58年に出す。「What Am I Living For」である。

この曲はフレッド・ジェイ、アート・ハリスというプロのチームが作曲し、レジー・オブレヒト・オーケストラとコーラスをフィーチャーしたバラード・ナンバー。R&Bチャートで1位、全米9位、100万枚以上のセールス、ゴールドディスク受賞という大ヒットとなった。

なお、この曲は名エンジニア、トム・ダウドが録音を担当しており、ステレオでリリースされた最初のロックンロール・レコードであった。

50年代、このような輝かしいキャリアを積んでいたウィリスであったが、58年4月に悲しい運命が彼のもとに訪れる。長年胃潰瘍に悩まされながらも、大酒をやめられなかったというウィリスは、腹膜炎を発症して亡くなった。32歳の若さであった。

亡くなったのは、その「What Am I Living For」がリリースされた直後だった。なんという、運命のいたずらだろう。

せめてもう少し、彼が自分の健康を気遣っていてくれれば、その後の活躍も十分期待出来たのに、である。

今日では、その名前さえすっかり忘れ去られてしまったチャック・ウィリスではあるが、52年からの6年間は、本当に輝いていたスターであった。

せめて、その素晴らしい作品を聴き返すことで、彼の才能や魅力を再確認してみてくれ。








音曲日誌「一日一曲」#457 エラ・フィッツジェラルド「How High the Moon」(Verve)

2024-07-06 08:29:00 | Weblog
2024年7月6日(土)

#457 エラ・フィッツジェラルド「How High the Moon」(Verve)





エラ・フィッツジェラルド、1960年リリースのライブ・アルバム「Ella in Berlin」からの一曲。ナンシー・ハミルトン、モーガン・ルイスの作品。ノーマン・グランツによるプロデュース。

米国の女性ジャズシンガー、エラ・フィッツジェラルドのプロフィールについては、今年4月の本欄でざっと紹介したので、今回は繰り返しを控えさせていただくが、とにかく20世紀の米国では、間違いなく五指に入るであろう、国民的歌手であった。

エラは50年代後半、名プロデューサー、ノーマン・グランツの元で優れた作品を数多く生み出したが、スタジオ・レコーディングだけでなく、ライブ盤でも長らく名盤と讃えられたアルバムを何枚も残している。

その代表作は58年リリースの「At The Opera House」であろうが、それと同じぐらい高い評価を得ているのが、60年リリースの「Ella in Berlin」である。

このアルバムのラストに収められた、約7分にわたる圧巻のフィナーレ曲が、本日取り上げた「How High the Moon」である。

この曲は元々、1940年初演のブロードウェイミュージカル・レビュー「Two for the Show」のために書かれた。作詞は1908年生まれの女優兼劇作家のナンシー・ハミルトン、作曲は1906年生まれのジャズ作曲家のモーガン・ルイス。劇中では俳優アルフレッド・ドレイク、フランシス・コムストックにより歌われた。

これをさっそく、ベニー・グッドマン楽団が女性シンガー、ヘレン・フォレスト(1917年生まれ)をフィーチャーして同年レコード化、ヒットした。以来歌あり、歌無しを問わず、さまざまなアーティスト(おもにジャズ)によってカバーされていく。

たとえば45年、レス・ポール・トリオはVディスク(軍人向けのレーベル)からインスト版をリリースする。48年、スタン・ケントン楽団は、のちに独立して成功する女性シンガー、ジューン・クリスティ(1925年生まれ)をフィーチャーしてシングルリリース、全米27位のスマッシュ・ヒットとなる。

そして、最も有名なバージョンは、51年3月リリースの、レス・ポール&メアリー・フォードによるシングルだろう。ポールがギターパートの全て、フォードがリードボーカルとコーラスを担当して多重録音した。最終的には12のギターパートと12のボーカルパートが含まれることになる。

この手の込んだサウンド作りが功を奏して、本曲は予想以上の大ヒットとなり、なんと9週に渡り全米1位となる。さらに再発売版もヒットして、ジュークボックスR&Bチャートでも2位となっている。彼らのバージョンは、1970年にグラミーの殿堂入りを果たし、ロックの殿堂にも入ることとなった。

さて、とんでもないビッグ・ヒットとなった本曲は、これで完全にスタンダード・ナンバーとなったが、このポール&フォード版が、究極の完成形とはならなかった。さらに進化したバージョンが生まれたのである、トップジャズシンガー、エラ・フィッツジェラルドによって。

本曲のその複雑な進行・構成に着目したエラの考え出したアイデアはこうだ。普通にコーラス部分をゆったりと歌った後はテンポチェンジ、極限にまでスピードアップして、フェイクを交えながら歌い、その勢いのまま、歌詞抜きのアドリブ・スキャットでエンディングまで突っ走る、というのである。つまり、本来なら楽器がソロをとるパートまで、全てエラの歌の独演会という、ものスゴいアレンジだ。

このエラならではの独自の歌唱スタイルが、1947年9月のカーネーギーホール公演より生まれた。

同年12月にはザ・ドリーマーズをバックにしてレコーディングされ、翌48年デッカレーベルよりリリースされた。これはシングルサイズに3分台にまとめられていたが、短いにも関わらず、中身は実に驚異的な歌唱の連続であった。

以降、ことある毎にエラはこの曲を歌い続け、「Oh, Lady Be Good!」と並ぶステージの定番曲として、その内容をさらに高めていった。

その集大成として、エラは1960年2月西ドイツ(当時)のベルリンでのコンサートをレコード化して、リスナーをさらに驚かせたのである。レコーディング・メンバーはエラのほか、ピアノのポール・スミス、ギターのジム・ホール、ベースのウィルフレッド・ミドルブルックス、ドラムスのガス・ジョンスン。

途中までは、ファースト・レコーディングにおおよそ沿った進行だが、後半からのアドリブパートは際限なく続いていく。

時には「A Tisket, A Tasket」のような自分のレパートリー、あるいはラテンのヒット曲のフレーズを挟み、ユーモアを交えながらスイングしまくる。

次第に伴奏は抜けていき、コード進行を務めるピアノも抜けて、ドラムスのみ残って、エラとのデュオ体制に入る。

こうなると、もはや元曲のコード進行さえ関係なく、エラのアドリブ・スキャットが縦横無尽、自由自在に展開されていく。

このあたりのドラムスとのやり取りが最高にスリリングで、カッコよい。

そして最後はザ・ブラターズでお馴染みの「Smoke Gets In Your Eyes」のフレーズも飛び出して、会場の興奮は最高潮を迎える。この演出は、何度聴いても鳥肌が立つなぁ。

約7分、息もつかせぬ展開で、聴く者を最高の高揚感に導く。人間のボーカルこそが、至高の楽器であることを、自らの極限のパフォーマンスによって完全証明した一曲だ。

このバージョンの「How High the Moon」は2002年、グラミーの殿堂入りとなっている。

エラ・フィッツジェラルドの畢生の名唱、歴史的名アドリブを、とことん味わいつくしてほしい。




音曲日誌「一日一曲」#456 ザ・プリティ・シングス「Rosalyn」(Fontana)

2024-07-05 07:59:00 | Weblog
2024年7月5日(金)

#456 ザ・プリティ・シングス「Rosalyn」(Fontana)




ザ・プリティ・シングス、1964年5月リリースのシングル・ヒット曲。ジミー・ダンカン、ビル・ファーリーの作品。

英国のロックバンド、ザ・プリティ・シングスは63年ケント州シドカップにて結成された5人組だ。

当初のメンバーはリードボーカル、ハープのフィル・メイ、リードギターのディック・テイラー、リズムギターのブライアン・ペンドルトン、ベースのジョン・スタックス、ドラムスのピート・キトリー。ドラムスはその後ヴィヴ・アンドリュースに代わるなど、わりと流動的であった。

そのバンド名は、米国のシンガー、ボ・ディドリーの1955年のヒット曲「Pretty Thing」(ウィリー・ディクスンとの共作)からとっている。初期は純粋なR&Bバンドで、ボ・ディドリー、チャック・ベリー、ジミー・リード、タンパ・レッドらのカバーのほか、彼らのオリジナルR&B曲をレパートリーとしていた。

バンド結成以前の歴史を紐解くと、なかなか興味深いものがある。その前身は62年結成のリトル・ボーイ・ブルー・アンド・ザ・ブルーボーイズで、メンバーにはテイラー(1943年1月生まれ)やシドカップ・アート・カレッジの同級生、キース・リチャーズ、ミック・ジャガーらがいたのだ。

その後62年6月、ブライアン・ジョーンズがバンドメンバーを募集していた時、上記の3人が参加してローリング・ストーンズが結成された。ギタリストが多かったのでテイラーはベースに転向したが、結局脱退することになる。

ロンドンのデザイン学校に入ったテイラーは、シドカップ時代の同級生、メイに新バンドの結成をするようアドバイスされ、冒頭に書いた5人のメンバーを集めて、プリティ・シングスがスタートした。

つまり、プリティ・シングスは、ローリング・ストーンズのメンバーたちと日常的に交流のあった、言わば仲間であり、良きライバルであったのだ。

ロンドンのライブハウスで演奏活動を開始、64年初頭にはフォンタナレーベルと契約を結ぶ。この時点でドラムスはさらにプロ経験のあるヴィヴ・プリンスに交代する。

そして初レコーディング、5月にシングルリリースされたのが、本日取り上げた一曲「Rosalyn」というわけである。

本曲は、彼らの同級生だったブライアン・モリスンと共にバンドの共同マネージャーを務めていたソングライターのジミー・ダンカン、そしてバンドがレコーディングしていたスタジオのオーナー、ビル・ファーリーの共作である。

曲調は、聴くとすぐお分かりいただけると思うが、明らかに彼らが大きく影響を受けてそのバンド名にもしたボ・ディドリーのサウンドそのまんまである。

いわゆるボ・ディドリー・ビートに乗って、トレモロを効かせたリズムギター、そしてうねるようなスライド・ギターに、エッジィで攻撃的なシャウトが絡む。デビュー期のストーンズも連想させるような、ワイルドな音である。これを彼らはライブハウスで、当時としてはとんでもない大音量で演奏していたという。

ストーンズのレコードデビュー(63年6月)に遅れること約1年。遂に彼らも世に登場して、その存在をアピールしたのだった。

本曲は7月には全英チャートで41位にランクイン。無名のバンドとしては、まずまずの成績を収めた。

その後、英国のバンド、ザ・フェアリーズのロードマネージャー、ジョニー・ディーが書いた曲である「Don’t Bring Me Down」をセカンド・シングルとしてリリース、これが見事全英10位のスマッシュ・ヒットとなった。この曲もまた、典型的なR&Bチューンである。

この2曲連続ヒットにより、プリティ・シングスは英国内での知名度を大いに上げて、後の長いバンド活動(第1期のみに絞っても約13年、復活後も含めると50年以上)への道を開いたのである。

翌65年3月には、テイラー作曲によるサード・シングル「Honey, I Need」をリリース、全英13位となる。

また同月ファースト・アルバム「The Pretty Things」をリリースして、全英6位に輝く。

このアルバムは米国でもリリースされたが、その内容は英国とはかなり異なり、「Roadrunner」を含むシングル曲4曲は全て収録、カバー曲を減らして、彼らのオリジナル曲を増やしている。

米国においてはまだブレイクしていなかったことも考慮して、ヒット性を高めるための戦略だったのだろう。まぁ、それでも米国ではなかなか火が付かなかったのだが。

その後プリティ・シングスは年代によって、さまざまなサウンドへと変化を遂げるようになる。当初のブルース、R&B路線から、サイケデリック・ロック、プログレッシブ・ロックへと進化・変容を遂げていき、76年でいったん解散する。

しかし、初期の彼らのサウンドは、他のミュージシャンたちに意外と大きな影響を与えていた。その好例のひとつが、70年代グラム・ロックの巨星、デイヴィッド・ボウイが73年10月リリースした、全編カバー曲というアルバム「Pin Ups」である。

この中でボウイは、「Rosalyn」と「Don’t Bring Me Down」の2曲をカバーしているのだ。レコーディングメンバーはボウイのほか、ギターのミック・ロンスン、ベースのトレバー・ホルダー、ドラムスのエインズレー・ダンパー。

それら2曲は、少し70年代風なアレンジを施しているものの、オリジナルのラフでストレートなサウンドをなるべく残すように演奏されている。

これはまさに、ボウイの原点回帰ともいうべき、自らのルーツを探る試みなのであった。

同アルバムではほかにゼム、ザ・ヤードバーズ、ザ・フー、ピンク・フロイド、ザ・キンクスの初期ナンバーが取り上げられており、66年デビューのボウイが、いかに同時代のミュージシャンたちに触発されて自分自身のサウンドを作り上げてきたかが、よく分かる。

ボウイに代表されるグラム・ロックというスタイルは、70年代に入って突如沸き起こって来たかのように思われがちであるが、実は10年近く前からさまざまなビート・バンドが試みて来た、ロック・サウンド実験の延長線上にあるのだ。

ベースはあくまでもシンプルなR&Bやロックンロール。それに時代の変化に応じた装いをまとうことによって、70年代のビート、すなわちグラム・ロックが誕生した。

デビュー当初のプリティ・シングスの荒々しいパフォーマンスに、その後大きく発展する、ブリティッシュ・ロックの芽生えを感じとってくれ。








音曲日誌「一日一曲」#455 ロニー・ブルックス(ギター・ジュニア)「Family Rules(Angel Child)」(Goldband)

2024-07-04 07:52:00 | Weblog
2024年7月4日(木)

#455 ロニー・ブルックス(ギター・ジュニア)「Family Rules(Angel Child)」(Goldband)





ロニー・ブルックス、1958年リリースのシングル曲(B面)。リー・ベイカー、エディ・シューラーの作品。

米国のブルースマン、ロニー・ブルックスことリー・ベイカー・ジュニアは、1933年12月ルイジアナ州セントランドリー教区デュビュイスンの生まれ。

子供の頃はバンジョーを弾く祖父からブルースの演奏を学ぴ、ギターを弾き始めるが、特にプロミュージシャンを目指してはいなかった。

50年代初頭にテキサス州ポートアーサーに移住。その地で活躍するゲイトマウス・ブラウン、T・ボーン・ウォーカー、B・B・キングらの演奏を直に聴いて、ベイカーはプロを目指すようになる。アコーディオン奏者クリフトン・シェニエと知り合い、彼の引きでバンド入りする。

その後50年代後半、ソロ活動に入り、ベイカーは芸名としてギター・ジュニアを名乗るようになる。

彼はルイジアナ州レイク・チャールズに拠点を置く独立系レーベル、ゴールドバンドと契約、58年に「I Got It Made(When I Marry Shirley Mae)」をリリース、これが小ヒットとなる。本日取り上げた一曲は、そのB面にあたる「Family Rules(Angel Child)である。

この曲はゴールドバンドの創設者、エディ・シューラーとベイカーの共作である。ゆっくりしたテンポのブルース・バラードだが、現在ではA面の「I Got It Made」よりも、こちらの方がスワンプ・ポップ(南部ルイジアナ、テキサス独自のスタイル)の定番曲として知られるようになっている。

ゴールドバンドでは他にも「The Crawl」「Made In the Shade」」というシングルもリリースして、ヒットしている。2曲はのちにザ・ファビュラス・サンダーバーズがカバーしている。

ローカルで一定の成功を収めたベイカーは60年、次のステップを踏み出す。ブルースの都、本場中の本場、イリノイ州シカゴに進出したのである。

シカゴではギター・ジュニアというそれまでの芸名を変えざるを得なかった。というのは、彼より年下(1939年生まれ)のルーサー・ジョンスンが、ギター・ジュニアの通名を既に使っていたためだ。新参者のベイカーは遠慮して新たな芸名を選ぶ。それが現在に至るロニー・ブルックスである。

60年代、ブルックスはシカゴのウェストサイドをはじめ、近郊のブルースクラブで定期的に演奏をして、名前を売っていった。そしてチェス、マーキュリーをはじめとする多くのレーベルでシングルをリリースしていく。ジミー・リードのサポートを務めたのもこの頃である。

地道な活動を積み重ねた結果、69年にようやくファースト・アルバム「Broke an’ Hungry」を大手キャピトルレーベルからリリース。このアルバムはエディ・シューラーの息子、ウェイン・シューラーがプロデュースしている。

74年には複数のアーティストと共にヨーロッパ・ツアーに参加、フランスのレーベル、ブラック&ブルーでレコーディング、翌75年にアルバム「Sweet Home Chicago」をリリースする。

その後はシカゴに戻って、サウスサイドのクラブで定期的に出演する。これが新興のアリゲーターレーベルの創設者、ブルース・イグラウアーの目に止まり、78年に同社との契約を果たす。

以後、1990年代末に至るまで約20年の長期に渡って、アリゲーターレーベルより数多くのアルバムをリリースするようになる。これが、ロニー・ブルックスのブルース界における評価を大いに高めたと言っていい。

特に79年リリースの「Bayou Lightning」はその完成度の高さにより、80年のモントルー・ジャズ・フェスティバルでグランプリ・デュ・ディスク賞を受賞している。

86年のアルバム「Wound Up Tight」ではブルックスの熱烈なファンであるジョニー・ウインターと共演している。

88年のライブ盤「Live from Chicago-Bayou Lightnig Strikes」では、彼の息子であるギタリスト、ロニー・ベイカー・ブルックスとの初共演を聴くことが出来る。

ロニーは1967年1月生まれ。現在最も脂の乗り切ったブルースギタリストのひとりと言える。父子はその後もことある毎に共演して、キャリー・ベル=ルーリー・ベルと並ぶ、ブルース界の「父子鷹」として知られるようになる。その後、同じく息子のウェイン・ベーカー・ブルックスもこれに加わるようになる。

93年、ちょうど60歳となる年にはには大物ブルースマン(BB、バディ・ガイ、ココ・テイラー、ジュニア・ウェルズら)と組んだ全米コンサートツアーを行う。ついにブルックスもビッグ・ネームのひとりと認められたのである。エリック・クラプトンともクラブのステージで共演を果たす。

ロニー・ブルックスは2017年4月、シカゴで亡くなっている。時に83歳であった。

こうやって通しで見てくると、ブルースマンとしての彼の人生は、格別大きなつまずきもなく、おおむね順調なものだったなと思う。

下積みの時期、停滞期なども全くなかったわけではないが、それらの苦労も結果的にはしっかりと報われていて、常に右肩上がりで堂々たるキャリアを積んでいった、そんな印象である。

彼の持つ、いい意味での楽観的な性格、明るさが、その歌やプレイにもはっきりと現れている。

それは天性のものもあるだろうが、彼の育った米国南部、ルイジアナの、温暖でのんびりとした環境によるところも意外と大きいのではないかな。

最初から寒冷地のシカゴに住んでいたのでは、こういうおおらかな雰囲気は出せなかったかも知れない。

本日の一曲「Family Rules」にも、その豪放磊落なキャラクターを感じ取ることが出来る。ざっくりとした歌い口、思い切りのいいギター・プレイ。どれも、ブルックスならではのものだ。

彼は最初期の作品であるこの曲には、とりわけ思い入れがあったと見えて、83年のアルバム「Hot Shot」でも再演している。ここのギター・プレイも素晴らしい。実に伸び伸びと、弾きたいように弾いている感じだ。

彼の、90年代以降のライブ映像はYoutubeで各種観ることが出来るが、どれも本当に楽しそうに歌い、演奏している。ギターの曲弾き(歯で弾くなど)も積極的にやっており、サービス精神のほどがうかがわれる。

ギター・スリム、ジョニー・ギター・ワトスンあたりとも共通した匂いを持つ、飛びきり根アカなブルースマン、ロニー・ブルックス。その陽気な歌声とギターを、新旧ふたつのバージョンで楽しんで欲しい。




音曲日誌「一日一曲」#454 カクタス「Long Tall Sally」(Atco)

2024-07-03 07:34:00 | Weblog
2024年7月3日(水)

#454 カクタス「Long Tall Sally」(Atco)




カクタス、1971年2月リリースのアルバム「One Way…Or Another」からの一曲。エノトリス・ジョンスン、ロバート・ブラックウェル、リチャード・ペニマンの作品。カクタス自身によるプロデュース。

米国のハードロック・バンド、カクタスは1970年にデビューした4人組だ。

元はヴァニラ・ファッジというバンドで活躍していたベースのティム・ボガート、ドラムスのカーマイン・アピスが、69年後半から次なるグループを構想して、アンボイ・デュークスにいたボーカルのラスティ・デイ(本名ラッセル・E・デイヴィッドスン)、ミッチ・ライダーのバンドにいたギターのジム・マッカーティ(ヤードバーズのドラマーとは別人)を誘って結成された。

70年3月、ヴァニラ・ファッジの解散後の7月にファースト・アルバム「Cactus」をリリースして、デビュー。レコーディングは解散前の69年10月から12月にかけて既に行われていたものだ。

収録されたナンバーは、基本的に彼ら4人の共作(6曲)だったが、2曲はウィリー・ディクスンらによるブルース曲だった。カクタスのサウンドはハード・ロックであると同時に、ブルース・ロックの性格も強く持っていた。

このデビュー・アルバムは全米54位。大ヒットとはいかなかったが、ボガート、アピスの知名度もあってか、そこそこのセールスとなった。

その7か月後、71年2月に彼らはセカンド・アルバムをリリースする。タイトルは「One Way…Or Another」である。

前作同様このアルバムでも、オリジナル曲6曲にカバーものを2曲加えた構成になっている。その2曲とは、ブルースシンガー、チャック・ウィリスの代表曲「Feel So Bad」、そして本日取り上げた一曲「Long Tall Sally」である。

この曲はみなさんもご存じのように、黒人ロックンロールシンガー、リトル・リチャードの大ヒット曲であり、ロックンロール・スタンダードともなっている。

56年3月にシングルリリースされるや、そのハイテンションな曲調がバカウケしてR&Bチャートで1位を獲得、年間チャートでも45位にランクインしている。

この曲はもともと10代の少女、エノトリス・ジョンスンが書いて持ち込んだ歌詞に、レイ・チャールズを手がけたことで知られるプロデューサー、ロバート・ブラックウェル、そしてリトル・リチャード本人(本名リチャード・ペニマン)が曲を作って完成させたものだ。

その後、数多くのアーティストがこぞってこの曲をカバーする。その代表はまず、エルヴィス・プレスリー(56年)であり、そしてザ・ビートルズ(65年)だろう。

それぞれ50年代、60年代を代表するトップ・ロックスターのカバーによって、本曲は不動の地位を得たのである。

それ以外にも、あまり知られていないが、ザ・キンクスやフリートウッド・マックといった個性的なバンドも本曲をアルバムで取り上げている(キンクスは64年、マックは70年のライブ盤)。興味のある人は、ぜひチェックしてみて欲しい。

それら全てのカバーバージョンに共通するのは、オリジナルのアップテンポ・ビートをそのまま継承していることだ。したがって時間も2分程度とごく短いものが多い。

さて、本日のメインテーマ、カクタス・バージョンはどんな感じだろうか。

これがまことに個性的なアレンジになっている。獣の咆哮を思わせるギター・プレイから始まる、重厚なリフ、粘っこいスロー・ビート、そしてテンポチェンジが執拗に繰り返されるヘビーロック・チューンへと変貌を遂げているのである。

マッカーティのワウを効かせたディストーション・ギター、リズム隊の刻む重厚なビート、そしてデイの攻撃的なシャウト。

約6分にわたる激しい演奏で、聴く者をノックアウトする、ニュータイプのロックンロール。

ロックンロールはすべからくアップテンポ、という多くの人の先入観を見事に裏切るこの名アレンジを聴いて、当時の筆者も目からウロコであった。

このセカンド・アルバムは、セールス的には全米88位にとどまり、カクタスは商業的には成功したとは言えなかった。同年リリースのサード・アルバム「Restrictions」、翌72年の4thアルバム「’Ot’ n’ Sweaty」も、共にチャート100位以下の結果に終わる。

バンド内の確執もあって、カクタスはメンバーを2名交代したものの、最終的にはそれもうまく功を奏せず、72年に解散に至る。

ボガート&アピスのリズム隊は当時、米国ロック界で最強とも呼ばれており、実力的には決して他のバンドに劣るようなところはなかったので、実に残念なグループであった。

筆者個人としては、シングル・ヒット曲を出せなかったことが一番致命的なポイントだったかなと思っている。ZEPにおける「Whole Lotta Love」のような一曲を生み出してさえいれば、成功もあり得たのではないだろうか。

それでも彼らが残したアルバムは、70年代ハードロックの定番として、今も熱心なファン達によって聴き継がれている。

彼らのエッジの立ったサウンドは、いつ聴いても耳に快感だ。ロックンロールの70年代的な新解釈を、ぜひこの一曲で感じてみてくれ。







音曲日誌「一日一曲」#453 ジョニー・オーティス「Willie and the Hand Jive」(Capitol)

2024-07-02 08:04:00 | Weblog
2024年7月2日(火)

#453 ジョニー・オーティス「Willie and the Hand Jive」(Capitol)






ジョニー・オーティス、1958年リリースのシングル・ヒット曲。オーティス自身の作品。トム・ティッピー・モーガンによるプロデュース。

米国のシンガー、ミュージシャンにしてプロデューサー、ジョニー・オーティスことイオニアス・アレクサンドル・ベリオテスは1921年12月、カリフォルニア州ヴァレーオ生まれ。本名が示すように、ギリシャ系移民の両親のもとに生まれている。父親は食料品店の経営者だった。

その食料品店が同州バークレーの、黒人が大多数を占める地域にあったことで、オーティスも幼少期から黒人コミュニティの中で育ち、音楽もR&Bを自然と愛聴するようになる。

10代からドラムを演奏し始め、プロミュージシャンを志して、バークレーの高校を中退。友人のピアニスト、オーティス・マシューズと共に地元のバンド、ウェスト・オークランド・ハウスロッカーズに参加して、地元では人気となる。

1941年5月、19歳で黒人とフィリピン人の血を引く18歳の女性、フィリス・ウォーカーと結婚。母親から反対され、ネバダ州リノで駆け落ち結婚したという。

40年代はセレネーダーズ、ロケッツなどのスウィング・バンドで演奏したのち、45年に自身のビッグ・バンドを結成する。このバンドでレイ・ノーブル楽団のカバー曲「Harlem Nocturne」をリリースしている。テナー・サックス演奏はイリノイ・ジャケーである。

47年、ロサンゼルスのワッツ地区にバレルハウス・クラブというR&Bのナイトクラブを、シンガーのバルドゥ・アリと共に開店して、以後ここでタレント・ショーを開催、何人ものニュー・スターを発掘していくことになる。

先日も本欄で取り上げた女性シンガー、エスター・フィリップス(当時はリトル・エスター)は、まさにその一例である。

彼女のほか、男性シンガーのメル・ウォーカー、ロビンズ(のちのコースターズ)が抜擢されて店のハウス・シンガーとなった。

テナーサックス奏者、ビッグ・ジェイ・マクニーリーもまた、オーティスにより見出され、バレルハウスに出演したミュージシャンのひとりだ。

なお、その店名はネブラスカ州オマハにあった、黒人と白人、両方の客を受け入れた最初のクラブ、バレルハウスにちなんでいる。

オーティスのバンドは47年9月ロサンゼルスで開催された第3回ジャズ・カヴァルケード・コンサートにも出演している。当時、ジャズとR&Bはかなり距離が近かったことが分かる。

49年よりサヴォイレーベルでリトル・エスター、メル・ウォーカーのレコーディングを開始する。先日書いたようにエスターは50年にデビューするやR&Bチャートのナンバーワン・ヒットを連発、ウォーカーもそのうちの一曲「Mistrustin’ Blues」でエスターと共演している。

これらの仕事で、オーティスはプロデューサーとして認められるようになる。

50年にはビルボードでR&Bアーティスト・オブ・ザ・イヤーに選出される。

51年、女性シンガー、エッタ・ジェイムズを見出してデビュー曲「The Wallflower」をプロデュース、大ヒットさせる。これも先日、本欄で書いた通りである。

53年、女性シンガー、ビッグ・ママ・ソーントンの「Hound Dog」のレコーディングに参加、プロデュースとドラムスを担当している。

54年、男性シンガー、ジョニー・エースのシングル曲「Pledging My Love」をプロデュース、ヴィブラホンも演奏している。この曲は全米17位、R&Bチャートで10週1位という特大ヒットとなった。

こうして40〜50年代、さまざまなアーティストの才能を発見してプロデュースして来たオーティスであったが、彼自身のボーカルをフィーチャーした曲が58年、ついに大ヒットする。

それが、本日取り上げた一曲「Willie and the Hand Jive」である。作曲はもちろん、オーティス自身だ。

当時人気を博していたボ・ディドリー風の、躍動感あふれるジャングル・ビートに乗って歌われた本曲は、またたく間にヒット、全米9位、R&Bチャート5位にまで上る。

歌詞中にあるハンドジャイブとは、手を使って踊るダンスのスタイルであり、太ももを叩く、手首を交差させる、拳を叩く、手を叩くといった動作が含まれる。

と、言葉で説明してもあまりピンとこないと思うので、ここはオーティス自身が彼のテレビショーで歌った時の映像を観て、確認していただこう。これが、ハンドジャイブというダンスなのだ。これがまた、R&Bのビートによくフィットしている。

曲の内容は、ハンドジャイブが得意なウィリーという男についてのもの。そのおかげで注目され、モテモテになるという、ある意味、チャック・ベリーの「Johnny B Goode」のギターマン、ジョニーの逸話に通じる歌である。

オーティスは彼のコンサートにおいて、実際にダンサーを参加させて、このハンドジャイブダンスを披露し、観客にも指導して、実践させていたという。

「Willie and the Hand Jive」の当時の影響力は、すさまじかった。50年代後半には生まれたばかりだった筆者にはまるで想像がつかないのだが、本曲の一大ブームが巻き起こったのである。

まずは59年、英国の男性シンガー、クリフ・リチャードがザ・シャドウズと共に本曲をカバーする。

続いて62年には米国のバンド、ザ・クリケッツ(バディ・ホリーがかつていたバンド)がアルバム「Somethig Old, Something New, Something Blue, Somethin’ Else」の中で本曲をカバーしている。

65年には米国のバンド、ザ・ストレンジラヴズがアルバム「I Want Candy」で本曲をカバー。71年、同じくヤングブラッズがアルバム「Good and Dusty」内でカバー。そして男性シンガー、ジョニー・リヴァースも73年のアルバム「Blue Suede Shoes」でカバーしている。

われわれの世代にとって一番有名なカバー・バージョンは、いうまでもなくエリック・クラプトン版であろう。

74年のアルバム「461 Ocean Boulevard」に収録されたことで、この曲を初めて知ったというリスナーが大半なのではないだろうか。筆者も、もちろんそのクチである。

しかし、こうして本曲のカバーの歴史を紐解いてみると、クラプトンが16年も昔の曲を、いきなり持ち出して来たのではないことがよく分かる。

「Willie and the Hand Jive」は、誕生以来ずっと、国を問わず、あるいはジャンルを問わず、多くのアーティストによって強く支持されて来た人気曲であり、クラプトンが取り上げる以前に、すでに立派なスタンダード(それもロックの、と言っていい)であったのだ。

黒人・白人といった人種の壁、米国・英国といった国の垣根を軽く飛び越えて、ジャズ、R&B、ロックンロールなどでクロスオーバーな活躍をしたオールラウンドプレイヤー、ジョニー・オーティス。

生まれて100年余り、2012年1月に90歳で亡くなってはや12年。今ではその名前を知っている世代は、すっかり少数派になってしまったが、彼が70年ほどの間になして来た仕事は、質・量ともにハンパなものではない。

文字通りR&Bの歴史を生きた巨人の、一世一代の人気曲「Willie and the Hand Jive」を、ぜひオリジナル版で堪能してみて。