NEST OF BLUESMANIA

ミュージシャンMACが書く音楽ブログ「NEST OF BLUESMANIA」です。

音曲日誌「一日一曲」#301 エリック・ジョンスン「Shape I'm In」(Live And Beyond/Favored Nations)

2024-01-31 07:33:00 | Weblog
2014年1月4日(土)

#301 エリック・ジョンスン「Shape I'm In」(Live And Beyond/Favored Nations)





アメリカの白人ギタリスト、エリック・ジョンスンのライブ盤(2000年録音)より。ジョンスンの作品。

エリック・ジョンスンは54年、テキサス州オースティン生まれの59才。ピアノ、ついでギターで才能を発揮し、プロを目指すようになる。プロ・ミュージシャンとしてはわりと遅咲きで、長らくスタジオマンを続けていた。79年、地元のシンガー、クリストファー・クロスのレコーディングに参加したことで注目され、86年に初のソロ・アルバムを発表して、メジャー・デビュー。以来、その確かなギター・テクニック、作曲能力で、玄人筋にも高い評価を受けているトップ・ギタリストである。

ジョンスンの音楽は、カテゴライズすることが困難だ。基本はロックだが、フュージョンといえなくもないし、一方、ブルースの要素も色濃い。ジャズ、クラシック的なセンスもあるし、ひとつのジャンルに閉じ込めておくことは出来ない。しいていえば、エリック・ジョンスンというひとつのジャンルなのだ。

そんな彼の、多彩な音楽性が聴けるのが、ライブ・パフォーマンスだ。地元テキサスで収録されたこのライブ盤には、彼の生み出すハイ・クオリティなサウンドのすべてが収められている。

きょうの一曲は、ジョンスンのオリジナル・ナンバー。コードなど形式的にはブルースといえるが、もちろん、従来のブルースの枠にとらわれてはいない。リズムはアップ・テンポの16ビート。あくまでも、2000年代のものだ。

イントロから、細かい刻みのリフが押し寄せ、まるで奔流のようなサウンドだ。

とはいえ、この疾走感あふれる演奏には、メロディラインや歌詞の中にブルースが持つ「重さ」が確かに感じられる。

当ライブ盤では、この曲、そして「Last House On The Block」では、ジョンスン自身がボーカルもとっている。

線の細いやや高めの声で、迫力のある歌ではないが、意外としっかりとした歌いぶり。なにより、これだけギターを弾きまくりながら、歌うって結構難易度が高いと思うぞ。歌うことを放棄している多くのギタリスト諸兄、見習いなさい。

ジョンスンの紡ぎ出す超高速のフレーズは、ブルース・ギターを基本としながらも、より高度な技術、さまざまな他ジャンルの音楽を織り込んだもの。さながら万華鏡の如し。

ジョンスンはとにかく、「音」の細かな変化にこだわるミュージシャンだ。ギター本体はもとより、アンプ、エフェクター、シールド、その他の機材など、ありとあらゆる「音」を変える要素を研究し、その成果を生かして、スタジオだけでなく、ライブでも最高の音創りを心がけている。まさにプロ中のプロ。

エフェクターに入れる9V電池のメーカーにまでこだわるギタリストは、そういないだろう。実際、彼にはその「違い」が聴き分けられるそうだ。。

ジョンスンのバンド「Alien Love Child」のサウンドは、エリックつながりというわけではないが、どことなく、かつてクラプトンが参加していたバンド、クリームを匂わせるものがある。ブルース、そしてインプロビゼイションがキーワードだ。

クラプトンはジミ・ヘンドリックスの革命的な音を聴いて、「とても彼には勝てない」とばかりにクリームの路線から撤退してしまったが、実際にはまだまだ開拓の余地はあったんじゃないかと思う。

ジョンスンの音楽的才能は、クラプトン、ヘンドリックスに匹敵するものがあると筆者は思う。ギター弾きとしてのみならず、革新的なサウンドを生み出すクリエイターとして。

歌ものを無視することなく、ギター・ミュージックの可能性を極限まで追求していくマエストロ。エリック・ジョンスンこそは真のミュージック・フロンティアである。聴くべし。

音曲日誌「一日一曲」#300 サル・サルヴァドール「All The Things You Are」(Frivolous Sal/Bethlehem)

2024-01-30 05:17:00 | Weblog
2013年12月29日(日)

#300 サル・サルヴァドール「All The Things You Are」(Frivolous Sal/Bethlehem)





今年最後の一曲、そして、たまたまではあるが、300曲目という節目の一曲はこれだ。アメリカの白人ジャズ・ギタリスト、サル・サルヴァドール、56年発表のアルバムより。ジェローム・カーン=オスカー・ハマーシュタイン二世の作品。

サル・サルヴァドールは25年、マサチューセッツ州モンスン生まれ。コネチカットで育ち、父親の影響でギターを弾き始める。折しもチャーリー・クリスチャンにより、ジャズの世界でもギターがソロ楽器として注目され出した頃。サルヴァドールはクリスチャンに強い影響を受け、ジャズ・ギタリストの道を歩み出したのである。

20代でプロとなり、49年ニューヨークに進出。52年にはスタン・ケントン楽団へ迎えられる。その後独立、ピアニストのエディ・コスタらとともに、自己のグループを結成、ベツレヘム・レーベルで多数のアルバムをレコーディングしている。

その中でも特に評価が高いのが、この「Frivolous Sal」というアルバムで、サルヴァドールはもとより、相棒のエディ・コスタの高い演奏力が存分に発揮された作品に仕上がっている。

きょうの一曲としてピック・アップしたのは、ジャズ・ファンなら知らぬ者のない、スタンダード中のスタンダード「All The Things You Are」、邦題「君は我がすべて」だ。

この曲はもともと、カーン=ハマーシュタインのコンビにより39年、ブロードウェイ・ミュージカル「Very Warm For May」のために書かれた曲なのだが、44年には映画「American Rhythm」、45年に同じく「A Letter For Evie」にて使われたことで広く知られるようになり、さまざまなアーティストにカバーされるようになった。

主な例を上げただけでも、ミルドレッド・ベイリー、グレン・ミラー、フランク・シナトラ、ディジー・ガレスピー、ジョー・スタッフォード、ジャンゴ・ラインハルト&ステファン・グラッペリ、デイヴ・ブルーベック、クリフォード・ブラウン、チャーリー・パーカー、ハンプトン・ホーズ、ジェリー・マリガン、エラ・フィッツジェラルド、スタン・ケントンなどなど、枚挙にいとまがない。単にメロディが美しいというだけでなく、そのコード進行がモダン・ジャズ的な要素を強く持ち、奏者のアドリブを引き出しやすい作りであったことも手伝って、新旧のジャズ・アーティストにこぞって取り上げられたのである。

筆者的には、テナーの巨人、コールマン・ホーキンスによる62年のライブ演奏が、もっとも印象に残っている。テンション・コードが非常に特徴的なイントロから始まるこのナンバーを、いったい何度繰り返し聴いたことだろう。

さて、50~60年代に活躍したジャズ・ギターの名手、サル・サルヴァドールによる「All The Things You Are」は、ちょっと変わったアレンジのイントロから始まる。

エディ・コスタはここではまずヴァイブラフォンを弾き、サルヴァドールのギターと絡み合うようにして、クラシック室内楽(MJQ?)風の早いパッセージを弾き始めるのだ。まずは、このスピード感に圧倒される。

イントロからそのまま、サルヴァドールがテーマを弾き、すぐにコスタのヴァイブ・ソロにバトンタッチ。神技のようなマレットさばきだ。そしてギター・ソロが続いた後は、なんとコスタがピアノにスイッチ、ソロを弾く。ピアノとギターの掛け合いが続き、さらにはヴァイブとギターの掛け合いへと突入、ものすごく密度の高い演奏が展開されていく。でも、けっして息づまるような感じはせず、あくまでもリラックスしたなごやかな雰囲気だ。本当によくスウィングしている。

最後は、再び室内楽風のアレンジに戻って、見事なエンディング。4分ほどの短い時間の中に、実に多彩なサウンドが詰まっている。

サル・サルヴァドールは、チャーリー・クリスチャンに影響を受けたジャズ・ギタリストのひとりとして、クリスチャンを越えるだけの新しいサウンドは作り出せなかったが、ギター職人としてのワザを極めたといえるだろう。そのシングルトーン・プレイは、とにかく正確無比で、よどみがなかった。ミディアム程度のテンポの曲では、いささか単調な感じは否めないが、この「All The Things You Are」のようなアップテンポの曲調では、そのたしかな技術の威力は、最も発揮されていたと思う。

白人ということもあって、その演奏にはほとんどブルース的なものは感じられず、あくまでもテクニカルなジャズに終始しているのだが、それもまたジャズのひとつのありようだろう。

混血音楽であるジャズの、白人的な要素をもっぱら強調すれば、サルヴァドールのようなジャズとなるのだ。

60年には記録映画「真夏の夜のジャズ」にも登場、ソニー・スティットらとともにニューポート・ジャズ・フェスティバルでの熱演を披露、多くの観客にサル・サルヴァドールの名前を知らしめた。

その後は、モダンジャズの新しい潮流に乗ることもなく、自然と第一線から消えていってしまったものの、大学でジャズ・ギターを教えるなどして、70代までマイペースな音楽人生を送ったようだ。99年没。

31歳で夭折した天才ピアノ/ヴァイブ奏者エディ・コスタの好サポートを得て生み出された、サル・サルヴァドールの名演。今聴いても、十分スゴみを感じます。


音曲日誌「一日一曲」#299 エイミー・グラント「The Christmas Song(Chestnuts)」(A Christmas Album/Reunion)

2024-01-29 06:15:00 | Weblog
2013年12月22日(日)

#299 エイミー・グラント「The Christmas Song(Chestnuts)」(A Christmas Album/Reunion)





アメリカの女性シンガー/ソングライター、エイミー・グラント、83年リリースのクリスマス曲集より。メル・トーメ、ロバート・ウェルズの作品。

エイミー・グラントは60年、ジョージア州オーガスタ生まれ。学生時代ナッシュビルのレコーディングスタジオでアルバイトをしたのがきっかけで、クリスチャン・レーベル(白人ゴスペル専門)のワードから78年に17才でデビュー。82年にはアルバム「Age To Age」がミリオン・セラーとなり、ゴールド・ディスクやグラミー賞を獲得するなど、宗教音楽部門では若くしてトップに昇りつめたのである。

その後はポップ部門にも進出する。86年には元シカゴのピーター・セテラとのデュエット曲「The Next Time I Fall」で全米1位となり、それを機にメジャー・デビュー。ソロとしても91年の「Baby Baby」が大ヒット、同じく全米1位となっている。

当年53歳、いまや押しも押されもしない、コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック(CCM)の第一人者だが、その成功はもちろん偶然ではなく、彼女のもつ確かな歌唱力、表現力によるものと断言できる。とにかく、出すレコード出すレコードが、すべて売れるのだから。

きょうの一曲は、ポップシンガーとしてブレイクする前、83年に制作されたクリスマス・アルバムから。CCMのシンガーたちにとって、クリスマス・ソングは最大の活躍の場、腕の見せ所にほかならないが、グラントのこのアルバムも、全編にわたって彼女の歌の才能がいかんなく発揮されている。

そのなかでも今回ピックアップしたのは、46年にジャズ・シンガーのメル・トーメとロバート・ウェルズが共作し、ナット・キング・コールがミリオン・ヒットを放った名曲、「The Christmas Song(Chestnuts)」である。

日本でクリスマスといえば、単なる商店街のお祭り、あるいは恋人たちのイベントと化してしまっているが、キリスト教徒たちの国では、本来は厳粛な儀式であり、そのうえで華やかな祝典としても楽しまれているのだ。

クルスマス・ソングも、ただの浮かれたムードで歌うのでなく、神への敬虔な祈りとともに歌われなければならない。

トーメのメロディ、ウェルズの詩は、そこをきちんとふまえて、おごそかな中にも喜びをたたえた、極上のクリスマス・ソングに仕上がっている。

余談ながら筆者は、トーメの存命中の90年頃に、五反田の郵便貯金ホールへトーメのコンサートを聴きに行ったことがあり、その中でこの歌を聴いたのであるが、感銘の涙を禁じ得なかったのを、昨日のことのように覚えている。

さて、グラント版の「The Christmas Song」だが、キング・コールや作者トーメ自身といったベテランシンガーたちの名唱と比べてもひけをとらぬくらい、清廉で気品に満ちた歌声を聴かせてくれる。

彼女の声は(たとえば似た系統のオリビア・ニュートン・ジョンなどと比較するとよくわかるが)、実に「クセ」がない。個性的とはあまり言えないが、万人に快く受け入れられるタイプの「いい声」なのである。

ブルースのようなアクの強い音楽を歌うにはあまり向いていないが、聖歌、讃美歌、そういった純度の高い音楽を歌うには、グラントの声は一番向いているのだろう。

「一家に一枚」的な、家族全員、いや全米3億人が安心して聴ける音楽。そういう意味で、彼女は最強のシンガーなのかもね。

音曲日誌「一日一曲」#298 ジョニー・テイラー「Who's Making Love」(Who's Making Love/Stax)

2024-01-28 05:22:00 | Weblog
2013年12月15日(日)

#298 ジョニー・テイラー「Who's Making Love」(Who's Making Love/Stax)





ジョニー・テイラー、68年の大ヒット曲。ホーマー・バンクス、ベティ・クラッチャー、ドン・デイヴィス、レイモンド・ジャクスンの共作。

このコーナーでジョニー・テイラーを取り上げるのも、これで三回目になる。これまではブルース・シンガーとしてのテイラーにスポットを当ててきたが、今度はソウル・シンガーとしての彼も取り上げてみたい。

38年、アーカンソー州クロフォードビルに生まれたテイラーは、53年にシカゴのドゥ・ワップ・グループ、ファイブ・エコーズの一員として初のレコーディングをしている。

以来、ハイウェイQCズ、ソウル・スターラーズで63年まで活動。一時引退して牧師をしていたが、65年に復帰、メンフィスのスタックス・レコードと契約、本格的なソロ活動のスタートを切る。そしてこの「Who's Making Love」で大ブレイクを果たすのである。

R&Bチャートで1位、総合でも5位。テイラーは一躍、全国区スターになる。

その後、スタックス時代には「Jody's Got Your Girl and Gone」「I Believe in You(You Believe in Me)」の2曲でR&Bチャートのトップをとっている。

まさに、スタックス期は彼のソウル・シンガーとしての、黄金時代だったのである。

75年末にスタックスが倒産した後は、コロムビアに移籍。そこでR&Bチャート、総合ともに1位という快心のヒット「Disco Lady」を飛ばす。

いま思えば、ソウルからディスコの時代への変遷を意識した、見事な方向転換であった。

その後は、マラコへ移籍、ヒットを出すことよりも、アルバムを丁寧に作り込む方向へシフトするようになる。ゆえに、マラコ時代に名盤が多いと評価されているのだが、でも、スタックス時代の華々しさもまた、捨てがたいと思う。

「Who's Making Love」は、ブッカー・T&MG'S、メンフィス・ホーン、ピアノにアイザック・ヘイズとアラン・ジョーンズがバックに入り、レコーディングされた。プロデュースはMG'Sのアル・ジャクスン。

いってみれば、スタックス・オールスターズ。典型的なメンフィス・ソウル・サウンドをバックにつけたのだから、まあ、ウケないわけがない。

曲もいいよね。陽気なノリのわりには、歌詞はドキッとするような不倫ネタ。でもこれがいいスパイスになっている。聴いているうちに、ニヤリとすること間違いなし。

テイラーの特徴ある塩っ辛い声も、そのビターな内容に見事ハマっていると思う。

歯切れのいいリズムに、心を揺さぶるようなワイルドなシャウト。これぞソウル・ミュージックの粋であります。

80年にはブルース・ブラザーズによってカバーされ、再び注目されたナンバー。今聴いても十分イケてると思う。

2000年に亡くなるまで、ドゥ・ワップ、ソウル、ブルース、ディスコとさまざまなサウンドでその懐の深さを見せてきたシンガー、ジョニー・テイラー。彼もまた、稀代のソウル・マンだった。もう一度、そのスゴさを、45年前の音源に感じとってくれ。

音曲日誌「一日一曲」#297 ポール・ウェラー「Peacock Suit」(Heavy Soul/GO! Discs)

2024-01-27 05:52:00 | Weblog
2013年12月7日(土)

#297 ポール・ウェラー「Peacock Suit」(Heavy Soul/GO! Discs)






英国のシンガー/ギタリスト、ポール・ウェラー、97年のヒット・ナンバー。ウェラー自身の作品。

ポール・ウェラーは58年英国サリー州ウォキングの生まれ、今年55才である。

60年代英国のモッズ・ブーム、ビートルズに大きな影響を受けてバンドを始める。77年に「ザ・ジャム」のメンバーとしてデビュー。ザ・ジャムは英国一の人気バンドに成長するも、82年に解散。

その後、ミック・タルボットと共にザ・スタイル・カウンシルを結成して、83年から90年まで活動。しばらくインディーズ活動を続けた後、92年ファースト・ソロ・アルバム「PAUL WELLER」でメジャー復帰する。

以降は、2年に1作程度のペースでアルバムをリリース。派手なヒット曲こそないものの、堅実なセールスを見せている。

ウェラーは現在、オアシス、ストーン・ローゼズ、ブラーといった後続世代のロックバンドから根強い支持、リスペクトを集めているという意味でも、ブリティッシュ・ロックの大御所、あるいはゴッドファーザー的な存在になっているといっていい。

きょうは、そんな彼が39才のとき出した4枚目のアルバムから、ソロとしては最大のヒット・チューン(全英5位)を聴いていただこう。

ザ・ジャムはとにかく若くて活きのいいロックバンドというイメージだったし、スタカンでは一転してお洒落で多様性のあるポップというイメージだった。

だが、ソロになったウェラーは、とてもシンプルでけれん味のない、ストレートなロックを追求するようになった。

スタカン時代の、だいぶん小洒落てて妙にコマーシャルな音に比べると、いかにも武骨でゴツゴツとしたサウンドだ。でもその「原点回帰」は、けっして悪くない。

テクニカルな音に走らず、あくまでも彼のソウルフルな歌声を前面に押し出したバンド・サウンドは、いろいろ要素を盛り込み過ぎて焦点を失ってしまったスタカンに対して、まったくブレがない。

過去のナンバーワン・バンドとしての人気、それはミーハー的な要素が強かったが、そういうものから脱却して、ようやく自分が本当にやりたかった音楽に、取り組めるようになったんだろうな。

最近は髪もすっかり白くなり、往年のイケメンぶりと比べるとだいぶん老けてしまった感はあるが、それでもSGをかきならしてライブ演奏するウェラーは、まだまだ十分にカッコいい。

やっぱり、ロッカーはいくつになってもイケてなきゃ、ね。

バンドというよりは、その都度気に入ったミュージシャンたち(ほとんどが、彼よりは下の世代だ)を選抜して、彼らをバックに歌い続けるロッキン・ダディ、ポール・ウェラー。

筆者とほぼ同世代ながらこのカッコよさ。負けちゃいられねえなと、ウェラーを観るといつも感じる。

フォーエバー・ヤングな彼の、気合いに満ちたシャウト、そしてイカしたギター・プレイを聴いてくれ。

音曲日誌「一日一曲」#296 ボビー・ウーマック「Lookin' For A Love」(The Best of Bobby Womack/Capitol)

2024-01-26 05:26:00 | Weblog
2013年12月1日(日)

#296 ボビー・ウーマック「Lookin' For A Love」(The Best of Bobby Womack/Capitol)






ソウル・シンガー、ボビー・ウーマック、62年のファースト・ヒット。J・W・アレキサンダー、ゼルダ・サミュエルズの作品。

ボビー・ウーマックは44年、オハイオ州クリーブランド生まれ。兄弟のセシル、ハリー、カーティス、フレンドリーとともにウーマック・ブラザーズというゴスペル・グループを結成、リード・ヴォーカルを担当。トップ・シンガー、サム・クックに歌の才能を認められ、彼のプロデュースした「Somebody's Wrong」で61年デビュー。

この曲はヒットしなかったが、翌年ヴァレンティノスと改名しての第一弾シングル、この「Lookin' For A Love」がスマッシュヒット(R&Bチャートで8位)して、一躍注目される。

64年のヒット「It's All Over Now」はローリング・ストーンズにもカバーされ、全英1位のヒットになった。こちらはボビー&シャーリー・ウーマックの作品。ボビー・ウーマックはソングライターとしても一流なのである。たとえば、ジョージ・ベンスンのヒット曲「Breezin'」はもともとウーマックの作品だ。実にキャッチーで美しいメロディを多数生み出しているのだ。

それにしても、デビューして50年以上のキャリアをもつにもかかわらず、彼は日本ではあまり話題に上ることがない。数々のヒットをもち、カバーされることも多く、ストーンズ、ロッド・スチュアート&フェイセズ、マライア・キャリーといったフォロワーたちをもっているのにもかかわらず、である。ちょっと残念だ。

たしかに、サム・クック、オーティス・レディング、マーヴィン・ゲイといったソウル・シンガーたちが、早世したことも後押しとなって神格化され「伝説」となったが、彼には特にそういったカリスマ性、天才性は、ない。

だが、こうも言えるのではなかろうか。ボビー・ウーマックは長く生き続けることで、常に時代と切り結び、最新の音楽を生み出し続けることが出来たのだと。

彼はシンガーソングライターとしてだけでなく、ギタリストとしても才能を示し、ソロ活動の一方でジャニス・ジョプリン、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、ロン・ウッド、ストーンズなどのアルバム制作に参加するなど、70年代以降も健在ぶりを示している。2009年には、ロックンロール・ホール・オブ・フェイムに殿堂入り。

昨年には、18年ぶりのスタジオ・アルバムをリリースしており、今後も、トップ・シンガーとしての活動が期待できそうだ。

さて、きょうの一曲。ウーマックは74年にソロでも再ヒット(R&Bチャートで1位)させており、これを聴いていただこう。あわせて、ヴァレンティノスのオリジナル・レコーディング版もどうぞ。

ウーマックの特徴ある塩辛声が印象的な、底抜けに明るいナンバー。ひたすらノリが良く、ダンサブルだ。

師サム・クックが得意だったネアカなソウル・ミュージックを引き継ぎ、聴く者をみなハッピーにさせるシンガー、それがボビー・ウーマックなのだ。。

神がかりではなくつねに一般の人々と共にいる、民衆派シンガーの歌声を、楽しんでくれ。


(62年のオリジナル版)

音曲日誌「一日一曲」#295 ラウル・ミドン「State Of Mind」(State Of Mind/Manhattan Records)

2024-01-25 05:54:00 | Weblog
2013年11月23日(土)

#295 ラウル・ミドン「State Of Mind」(State Of Mind/Manhattan Records)





アメリカのシンガー/ギタリスト、ラウル・ミドンのメジャーデビュー・アルバムより。ミドン自身の作品。アリフ・マーディン、ジョー・マーディンのプロデュース。

ラウル・ミドンは66年、ニューメキシコ州生まれ。アルゼンチン出身の白人の父、黒人の母をもつ。未熟児として生まれ、生まれながらの全盲となる。母が早世したため、父に育てられる。

5才でパーカッションを始めて音楽に目覚め、その後アコースティック・ギターを弾くようになる。

マイアミ大学に進学、ジャズを専攻。卒業後は、ジェニファー・ロペス、フリオ・イグレシアス、シャキーラ、アレハンドロ・サンツといった、おもにラテン系ミュージシャンのバック・シンガーをつとめるようになる。その一方で、バーやクラブでソロの弾き語りもやっていた。

本格的なソロ活動は、2002年にニューヨークへ移住してからだ。スパイク・リー監督の映画「セレブの種」の音楽に自作曲を提供したことで注目され始め、ジェフ・ベックの前座をつとめてベックに絶賛されるなどクロウト筋の評価も高かった。

2005年、ハービー・ハンコックのアルバム「Possibilities」制作に参加。スティービー・ワンダーの「I Just Called to Say I Love You(心の愛)」を歌い、ハーモニカ担当のワンダー本人とも共演するというビッグ・チャンスを獲得する。

また同年、マーディン父子(ノラ・ジョーンズなどのプロデュースで著名)のプロデュースでメジャーデビュー盤「State Of Mind」をリリース。こちらでもワンダーと共演している。

さて、ミドンのサウンドの説明は、やはり実際の曲を聴いていただくにしくはない。まずは、ライブステージの模様を観ていただこう。アルバムのタイトルチューンの、ロングバージョンである。

皆さん、聴いてみて、たちまち度肝を抜かれたのではないだろうか。

伸びやかでソウルフル、ワイドな声域をもつボーカルは、まずまずの出来ばえ。ワンダーに大きな影響を受けただけあって、非常に似た雰囲気をもっている。

が、それだけじゃない。スラップ・ギターともよばれるパーカッシブなギター・プレイがまずスゴい。そのリズム感の絶妙さは、さすがパーカッションを幼少時からやって来ただけのことはある。

そして、ボイス・トランペットとよばれる、ボーカルでのトランペット風アドリブ。これまた、ハンパでなくカッコよろしい。リズム、メロディ、ハーモニー。いわば、一人だけで全てのサウンドを構築できる、究極のソロ・プレイヤーなのだ。

先日取り上げたボビー・マクファーリンもスゴいソロ・プレイを聴かせてくれたが、ミドンも負けず劣らず、余人に真似の出来ない世界を創り出している。真の才能とは、こういったものを指すんだろうなあ。ホンマ、脱帽もんやで。

彼の音楽には、白人系、黒人系、ラテン系、ジャズ、ソウル、ファンク等々、ありとあらゆるアメリカン・ミュージックの要素が、混在している。基本はソウルフルな音楽だが、その要素を解析することが愚かしく思えるほどに、なんでもありな「ミドン・ミュージック」なのである。

「State Of Mind」リリース後は2年に1枚ほどのペースでアルバムを発表、日本にも何回かライブで訪れている。この11月30日から12月2日には、カメルーン出身のフュージョン・ベーシスト、リチャード・ボナとともにブルーノート東京のステージに立つことになっている。

この顔ぶれだから、最少人数でも、ものスゴいサウンドを聴かせてくれることは、間違いなさそうだね。

盲目であること、またその歌声の印象から、「スティービー・ワンダーの再来」とよばれること専らのミドンだが、ワンダーの単なるフォロワーってレベルではない。新しい時代の音楽を生み出す旗手たりうる、10年にひとりぐらいの逸材だろう。ミドンのこれからの活動、目が離せないぞ。

音曲日誌「一日一曲」#294 セシリア・ノービー「Girl Talk」(Caecilie Norby/Blue Note)

2024-01-24 06:17:00 | Weblog
2013年11月16日(土)

#294 セシリア・ノービー「Girl Talk」(Caecilie Norby/Blue Note)





デンマークの女性ジャズシンガー、セシリア・ノービーのデビュー・アルバムより。ニール・ヘフティ、ボビー・トゥループの作品。

ノービーは64年、フレデリクスベルグ生まれ。音楽一家に育ち、ジャズ/ロックバンド、フロントラインに参加、その才能を米ブルーノート・レーベルに認められ、95年にアルバム「セシリア・ノービー」で世界デビュー。現在までに7枚のスタジオ・アルバム、1枚のライブ・アルバムをリリースしている。

彼女はジャズ・スタンダードを歌う一方で、ポップ/ロック系の曲も作り、自ら歌う。非常に幅の広い音楽性の持ち主なのだ。

おそらく、まだほとんどのかたは、彼女の歌を聴いたことがないだろうから、まずはきょうの一曲「Girl Talk」で、彼女の歌声にふれてみて欲しい。

いろいろな国の言葉で語られる、若い女性のとりとめのないおしゃべり、つまり「Girl Talk」をイントロにして、少しテンポの早いスウィンギーなナンバーを、ノービーはよどみなく歌う。

いかがかな。アメリカの女性ジャズシンガーとはかなり趣きの異なった歌い方だと、感じられたかもしれない。

セクシーというよりは、知的で優雅といったほうがぴったりの、落ち着いた歌声だ。いかにもヨーロッパ的なんである。それも北欧。

ブルースとゴスペルとか、ほとんどのアメリカの女性ジャズシンガーには共通して存在するバックグラウンドがヨーロッパ出身の彼女にはないぶん、だいぶんあっさりしたジャズになっているような気がする。

ところで、この曲について、少し解説しておこう。

「Girl Talk」は、65年の米映画「ハーロウ」の主題曲として、ニール・ヘフティ、ボビー・トゥループにより書かれた。「ハーロウ」は、26才で夭折したセクシー女優、ジーン・ハーロウの生涯を、キャロル・ベーカーが演じた映画。その音楽を、カウント・ベイシー楽団のアレンジ、「バットマン」のテーマ曲などで知られる作編曲家、ニール・ヘフティが担当し、歌詞を「ルート66」の作者として著名なシンガー/ピアニスト、ボビー・トゥループが書いたのである。

ヘフティ、トゥループともに非常に優れたミュージシャンであり、その生み出した曲には名曲が多い。彼らについて書けばとても長くなってしまうので、それはまた別の機会にしたいが、このふたりのコラボによる「Girl Talk」が、ポップス史上に残る名曲であることは、間違いないと思う。

多くのシンガー、たとえばトニー・ベネット、バディ・グレコ、エラ・フィッツジェラルド、フォー・フレッシュメンらにカバーされ、そのいずれも名唱とのほまれが高い。

世間的にはあまり知られていないが、筆者的には、フィリピン出身のサックス奏者、ジェイク・コンセプションによるバージョンもけっこう気に入っている(2005年1月30日の「一日一枚」参照)。

「ルート66」を聴けばよくわかるように、ボビー・トゥループの作る歌詞は、メロディ・ラインへの乗り方、そのリズム感覚が抜群にカッコいいのである。これは、並大抵のソングライターには真似の出来ないワザであるな。

「Girl Talk」ももちろん、小粋で洒落た曲に仕上がっている。メロディ、歌詞ともに、シンガーに「一度はこの曲をうたってみたい」と思わせる魅力に溢れているのである。

通常は、スローテンポで演奏されることが多いこの曲を、軽快なテンポで歌ってみせたというのが、ノービーのオリジナリティといえそうだ。実に都会的でハイセンスな仕上がりになっている。

その確かなボーカル・テクニック、たとえば高音、中低音のたくみな使いわけを聴けば、彼女の実力の高さがわかるだろう。

聴く者の「情」というよりは「知」の部分に訴えてくるタイプの歌声。人により好みは分かれると思うが、今後もジャズ・ボーカル界を牽引していく存在であろうことは間違いない。ぜひ、チェックしてみて。


音曲日誌「一日一曲」#293 ジョン・リー・フッカー&ヴァン・モリスン「Never Get Out of These Blues Alive」(Never Get Out of〜/ABC)

2024-01-23 06:16:00 | Weblog
2013年11月9日(土)

#293 ジョン・リー・フッカー&ヴァン・モリスン「Never Get Out of These Blues Alive」(Never Get Out of These Blues Alive/ABC)





ジョン・リー・フッカー、72年のアルバムより。フッカー自身の作品。

カントリー・ブルースの大御所、ジョン・リー・フッカーは70年代に入ると(彼は当時50代)、ロック系のミュージシャンとも頻繁に共演するようになる。その先駆けがキャンド・ヒートと共演した70年のアルバム「Hooker 'N Heat」だが、続いて72年にはヴァン・モリスン、エルヴィン・ビショップ、チャールズ・マッセルホワイト、スティーヴ・ミラーらと共演したこのアルバムをリリースし、話題となっている。

アルバムの最後を飾る、10分15秒にも及ぶ長尺のスローブルースが、このタイトルチューンだ。

アルバムの4分の1強を占めるその長さにも驚くが、なんといってもこの曲、タイトルがスゲーよな。もう、底なし沼か、無間地獄の世界(笑)。

曲調はタイトルほどはおどろおどろしくなく、むしろ淡々とスタジオ・セッションが進行するというスタイルなのだが、とにかく主役ふたりの個性がエグい。

かたや、クセ者ぞろいの黒人ブルース界でもひときわ異彩を放つ、元祖激ワルオヤジ。かたや、ブルーアイド・ソウルの最右翼的存在のシンガー。この孤高のふたりが、タッグを組んだのだから、その迫力はハンパではない。

ドスをきかせたフッカーの低い声と、少し高めでシャープなモリスンの声が絡み合い、異様なまでにドロドロとしたブルースが展開される。

ふつう、スローブルースは、ギターやキーボードの長いソロをフィーチャーすることが多いが、本曲では、最初から最後までフッカーとモリスンの歌がフィーチャーされ、いつ終わるともしれない。ふたりの遣り取りが10分以上続くのである。これはスゴい。

このふたりは本当にソウル・ブラザー的な仲だったようで、その後何枚ものアルバムで共演、97年の実質的なラスト・アルバム「Don't Look Back」に至るまで、強力なタッグを組み続けていた。まさに、最強のオヤジ・デュオだな。

この曲、バックをつとめるエルヴィン・ビショップ(スライド・ギター)をはじめとする白人ミュージシャンのナイス・サポートもあり、ダレを感じさせないビシッとしたトラックに仕上がっている。

たかがブルース。されどブルース。歌い手の個性こそが、ブルースにとって一番重要であることを痛感させるナンバーだ。底なしブルースの深淵を、この一曲に感じとってくれ。

音曲日誌「一日一曲」#292 ジョン・スコフィールド&ドクター・ジョン「Please Send Me Someone To Love」(Live 3 ways(DVD)/Blue Note)

2024-01-22 05:55:00 | Weblog
2013年11月3日(日)

#292 ジョン・スコフィールド&ドクター・ジョン「Please Send Me Someone To Love」(Live 3 ways(DVD)/Blue Note)










ジャズ&フュージョン・ギタリスト、ジョン・スコフィールドと、ピアニスト、ドクター・ジョン。90年5月ニューヨークでの共演ステージから。パーシー・メイフィールドの作品。

スコフィールドは51年、オハイオ州デイトン生まれ。バークリー音楽院を出て、プロのミュージシャンとなる。

ビリー・コブハム、ジョージ・デューク、パット・メセニー、ゲイリー・バートン、日野皓正・元彦兄弟、チャールズ・ミンガス、デイヴ・リーブマン、マイルス・デイヴィスなどのトップ・アーティストと共演、一方で自身のグループを率いて活動を行う。プロ歴既に39年、いまや押しも押されもしない、ジャズ&フュージョン・ギターの大御所のひとりといっていいだろう。

独特のエフェクター音を効かせた、セミアコースティック・ギターでのハードなプレイは、多くのフォロワーを生み出してきた。貴方も、そのひとりかもしれない。

さてきょうの一曲は、バンド形式でなく、ピアノとのデュオ。おなじみ、ニューオーリンズの守護神的存在のピアニスト/シンガー、ドクター・ジョンとの共演である。

実はスコフィールドは、地方色豊かなN.O.サウンドとも、縁浅からぬ関係にある。

84年に移籍したレーベル、グラマヴィジョンでは従来のジャズ系とは異なったサウンドも自由に取り入れ、そこでの最終作「Flat Out」では、N.O.のドラマー、ジョニー・ヴィダコヴィチと共演、ミーターズの「Cissy Strut」などを演奏している。その後、2009年にはN.O.でアルバム「Piety Street」をジョン・クリアリー、ジョージ・ポーター・ジュニア、ジョン・ブッテらと共にレコーディング、ゴスペル色の強いサウンドを披露している。

近年のスコフィールドには、単に受け身で聴くだけでなく、グルーヴがあって踊れる音楽を創り出そうとする姿勢が、強く感じられるのだ。

そういう風に見ていくと、この一曲も非常に興味深い。

もともとこの「Please Send Me Someone To Love」は、黒人シンガー/ソングライター、パーシー・メイフィールドが、50年にスペシャルティからリリースし、大ヒットさせたナンバー。R&Bチャートで1位を獲得しただけでなく(27週チャートイン)、総合でも26位にまで昇りつめたという、堂々たるヒット曲なのである。

メイフィールドについては本HPでも、以前フレディ・キングやベター・デイズを「一日一枚」で取り上げたときに軽くふれたという記憶があるが、なかなかいい曲を書くライターである。特にこの「Please Send Me Someone To Love」のようなブルース・バラードを書かせると、天下一品の出来映えだと思う。

歌詞内容について簡略に述べておくと、「天よ、願い過ぎでないとすれば、どうかわたしにも愛する人を与えておくれ」という神への祈りなのだ。ある意味、ゴスペルだよね。

作者メイフィールド以外では、フレディ・キング、ポール・バターフィールド率いるベター・デイズ(ボーカルはジェフ・マルダー)のカバー・バージョンが、筆者の印象に強く残っている。また、永井ホトケさんも彼らの影響を受けて、日頃愛唱している。

今回、スコフィールドとドクターは、歌わずにインストのみでこの曲をプレイしているのだが、シンプルながら非常に密度の濃い内容で、聴く者を唸らせてくれる。

いわゆるジャズ的なフレーズはほとんど使わず、オリジナルのブルージィなメロディを尊重したスタイルで直球一本勝負!なスコフィールド。ふだんの彼の演奏スタイルからは、かなり離れている。が、これもまた沢山ある、彼の引き出しのひとつなのだ。

フレディ・キングが、ジェフ・マルダーが高らかに声を上げて歌ったように、スコフィールドは愛器を駆使して、まさに「歌いあげている」。これだけ、人間の歌声(ボーカル)に肉迫した表現は、なかなかないというぐらい、いい味を出している。

その後を受けて、ソロを弾くドクター・ジョン。こちらも特にけれんはないが、その淡々としたプレイを聴けば、せつなく、しみじみとした思いにひたることは間違いない。

職人のような二人の、原曲へのリスペクトにあふれた演奏を聴いたら、もう一度、メイフィールドの渋みのある歌声を聴きたくなってしまった。

かのレイ・チャールズも大のひいきで、「旅立てジャック」などの提供曲を好んで歌っていたソングライター、パーシー・メイフィールド。その最高傑作は、60年以上の歳月などものともせず、今も輝いているのである。


音曲日誌「一日一曲」#291 小林万里子「朝起きたら・・・」(ファースト・アルバム/フォーライフ)

2024-01-21 06:26:00 | Weblog
2013年10月27日(日)

#291 小林万里子「朝起きたら・・・」(ファースト・アルバム/フォーライフ)




シンガー・ソングライター、小林万里子のデビューシングル曲。小林自身のオリジナル。

小林万里子という名前を覚えている人は少ないと思うが、関西弁の「朝起きたら・・・」という印象的なフレーズで始まるこのブルースを覚えている人は、結構いるのではないかな。

これは、小林万里子が1978年にメジャーデビューした時のシングル。下記のyoutubeの音源はファースト・アルバムのB面、ライブステージ・バージョンとなっているが、オリジナルは石川鷹彦がアレンジを担当している。

小林は54年、神戸生まれ。お嬢さん学校の神戸女学院を卒業して、早稲田大学に入るも、とある家庭の事情から(同じく上京した実兄から、いまでいうところのDVを受けていたらしい)2か月で辞め、翌年神戸大学に再入学。

神戸大では軽音楽部に入り、曲作りを始めるが、下ネタの歌が多かったため、品のいいサークル内では浮いた存在だったという。

自作曲のデモテープをフォーライフレコードに送り、採用される。それがこのデビュー曲だったのだ。

見た目はフツーの四大卒の女性が、(おそらくは)自分の性体験をあけっぴろげに、自虐ユーモアをてんこ盛りにして、しかもダウンホームなブルース曲として歌うという彼女の個性は、当時際立っていた。

曲は発表されるや、おもに有線放送、深夜放送の世界で話題となり、リクエストが殺到。あざやかなクリーンヒットになった。

この勢いでセカンド・シングル「れ・い・ぷ フィーリング」をリリースしたのだが、ここでつまづいた。前作以上にキワドい歌詞が問題となり、放送禁止の扱いを受けてしまったのだ。

つまり小林の歌詞は単なるセクシーソング、下ネタソングというよりは、社会の矛盾、不条理に対するプロテストとして書かれたもので、事なかれ主義のマスメディアになじむものではなかったのだ。

その後、80年には井上陽水のプロデュースにより「すんまへんのブルース」、81年には「ファースト・アルバム」をリリースするも、またもや過激な歌詞内容が問題となったのか、アルバムは販売ルートに乗らず、幻の封印作品となってしまう。

この処分により、小林はメジャー活動の芽を摘まれ、82年には引退。以降、10年以上のブランクが続いたのである。

しかし、転んでもタダでは起きないのが、関西女のど根性。93年からは、地元関西を中心に草の根的な音楽活動を続け、過去のアルバムも再発し、また2011年にはニュー・アルバムをインディーズからリリースするなどして、現在に至っているのだ。

実は筆者は、先日大阪に行って、彼女のライブを初めて見て来た。

今年59才になる小林は、見た目は年相応のオバチャンになっていた(失礼)。が、歌い始めるや、場の空気が一変した。

声がまさにブルースなのだ。少し低めで、深みのある声質。日本人の女性ではなかなか聴けない、独特のニュアンス、フィーリングを持ったシンガーだと筆者は感じた。

お嬢さん育ちで、学力優秀、有名大学にも通っていた彼女が、なぜブルースのような被差別民族の歌をうたうようになったのか、疑問に思う人もいるかもしれない。

Wikipediaをはじめとするネット上の情報を総合すると、以下のような背景がある。

中学に入学した頃から強度の不眠症に悩まされ、「太っている」「かわいくない」という理由から実の兄よりずっとDVを受けてきたという彼女、そういうやり場のない彼女の魂を救ってくれるのは、ブルースという音楽だけだったのである。

筆者も、彼女と似たような境遇だっただけに、それは非常に共感をおぼえるのだ。

悩み、苦しみを笑いに変えて吹き飛ばす、底抜けのパワーを、ブルースは彼女に与えてくれたのである。

筆者が訪れた大阪のライブバー「シカゴロック」では、小林は実にのびのび、イキイキと「絶対マスメディアにはのらない歌」の数々をうたい倒していた。皇室ネタ、薬物中毒の芸能人ネタ、政治ネタ、ハゲネタ、そしてもちろん定番の下ネタ。メジャーを離脱したことをむしろ強力な武器として、言いたい放題、やりたい放題のライブだった。

もちろん、笑いや風刺だけでなく、音楽としてもじゅうぶん魅力に満ちた艶やかな歌声がそこにはあった。これぞ、ホンマモンのブルースウーマンやで。

東京ではまず聴くことが出来ないが、一聴の価値はある。皆さんも、大阪に行く機会があれば、事前にライブスケジュールをチェックして、ぜひ彼女を聴きに行ってみて。ノリノリ&抱腹絶倒、ヤミツキになるのは間違いない。

「浪花のジャニス」の異名も、ダテじゃない。ホント、そう思うよ。


音曲日誌「一日一曲」#290 ネーネーズ「黄金の花」(コザdabasa/Ki/oon Sony)

2024-01-20 06:19:00 | Weblog
2013年10月20日(日)

#290 ネーネーズ「黄金の花」(コザdabasa/Ki/oon Sony)





筆者は先日、沖縄旅行にいってきたのだが、那覇市内のライブハウス「島唄」に寄る機会があり、そこでこの懐かしい「ネーネーズ」の曲(1994年リリース)を聴いたのだった。

ネーネーズといえば、1990年代に活躍していた沖縄出身の女性ボーカルグループだ。90年に、沖縄民謡界の重鎮、知名定男のプロデュースにより世に送り出された。インディーズ盤のアルバム「IKAWU」で注目され、キューン・ソニーよりメジャーデビューして、「黄金の花」ほかいくつかのヒットを出した。

「23年前にデビューしたネーネーズが、そのまま今も活動を続けているの?」と思ったが、実はそうではなく、完全にメンバーを入れ替えて、現在も活動を続けているとのことだった。

結成当初のメンバーは、99年11月で解散。新たに集められた第二期のネーネーズも、2003年で解散しており、現在は2003年のオーディションで採用された4人から、さらに交代を繰り返して、以下のメンバーとなっている。

上原渚(2004年1月~)、比嘉真優子(2009年4月~)、保良光美(やすらてるみ、2010年1月~)、本村理恵(2012年6月~)。いずれも沖縄本島や、石垣島出身の20代(推定)女性である。

初代のネーネーズは、見た目も歌いぶりも落ち着いたオトナの女性というイメージがあったが、「島唄」のステージに登場した4人は、ギャルっぽい格好をしても似合いそうな、若さあふれるネーネーという感じだった。

ライブでは、沖縄民謡や他のアーティストのカバー、そして初代以降引き継いだオリジナル・ナンバーを、ときには三線、太鼓などを演奏しながら、力強く歌い上げてくれた。

もちろん、声の質などは初代とはだいぶん違っていて、いかにも「若い」「青い」印象であった。過去のネーネーズのファンにしてみれば、「全然違うグループになった」といわれてもいたしかたないだろう。

と、ここまで書いてきて「ん?」と既視感をおぼえた。こういうケースが他にもあったような。そう、ほかならぬ「モーニング娘。」である。

グループデビューとしてはネーネーズのほうがうんと先輩であるが、いずれもメジャーなガールズグループ。この手のグループはかつて(おニャン子クラブなどのように)しばらく活動しているうちにメンバーの年齢が上がってきて、頃合いを見て解散するのが常だったのだが、ネーネーズも、モーニング娘。も、それをやらなかった。ネーネーズのほうは正確にいえば、解散はしたが次のメンバーを準備しており、ブランド名はそのまま残した。モーニング娘。のほうはご存知の通り、スタート時のメンバーはもはや誰もいないが、曲はすべて引き継いで、年若い新メンバーで活動している。

こういう、たとえメンバーが総入れ替えになっても「継続」していくというやり方は、おそらく宝塚歌劇団に範を求めたのだろうが、筆者的にはいいことなんじゃないかと思う。

過去ヒットした名曲を、オリジナルで聴くのもいいが、いま現在活躍しているひとによるバージョンで聴くのも、悪くない。いまならではの新しい個性が、そこにはあると思うのだ。

いまのネーネーズは完全にインディーズに戻っているが、プロデューサー知名定男氏としては、むしろワールドワイドなアーティストを目指しているという。それこそモーニング娘。のように。

その特徴ある髪型、コスチューム、そして沖縄サウンドは、まぎれもなくオリジナルな世界である。借り物の西洋音楽モドキではない。インターネットの時代、youtubeに載るなどちょっとしたことが切っ掛けで大ブレイクすることもありうるだろう。

今後は、しばらくメジャーリリースがされていないシングル曲を、いかに生み出してヒットさせていくかが、ポイントだろうね。

もちろん、現在の観光名物的なネーネーズ、「会えるアイドル」的なネーネーズでも、十分すばらしいとは思う。国際通りの半ばにある「島唄」に行けば、週に4、5日は、彼女たちの生歌が聴けるのだ。

沖縄旅行の折りには、ぜひ、彼女たちのライブを観に行ってほしい。ステージの合間には観客席に挨拶に来てくれたり、記念撮影に応じてくれたり、とてもサービス精神満点なネーネーたちなのである。

きょうの一曲は、いまのネーネーズ版ではないのだが、第一期バージョンの「黄金(こがね)の花」。その息のそろった、それでいて各メンバーの微妙な声質の違いが、響きに深みを与えている、見事なユニゾン・コーラスを味わってほしい。そして、今のメンバー版の若々しい個性は、直接ステージで聴いて、確かめてほしいのである。

ネーネーズ、ちょうど今月28日には埼玉・大宮の「うさぎや」、30日・31日には東京・小岩「居酒や こだま」でも上京ライブをするという。沖縄まで足を運ばなくても彼女たちを観られる絶好のチャンスだ。興味のあるかたは、ぜひ。

音曲日誌「一日一曲」#289 デレク・アンド・ザ・ドミノス「Key To The Highway」(Live at the Fillmore/Polydor)

2024-01-19 07:02:00 | Weblog
2013年10月13日(日)

#289 デレク・アンド・ザ・ドミノス「Key To The Highway」(Live at the Fillmore/Polydor)





デレク・アンド・ザ・ドミノス、70年10月、フィルモア・イーストでのライブ・アルバムより。ビッグ・ビル・ブルーンジー、チャールズ・シーガーの作品。

エリック・クラプトン率いるデレク・アンド・ドミノスは70年春に結成、同年11月デビュー・アルバム「Layla and Other Assorted Love Songs」がヒット。ライブ・アルバム「In Concert」を73年1月にリリースしているが、その頃には既に活動を終えていた。バンドの実質的な活動期間は2年にも満たなかったのである。

筆者が考えるに、ドミノスはクラプトンにとってパーマネントなグループというよりは、デラニー&ボニーのころからの付き合いのあったミュージシャンを集めて取りあえず作ってみました、という感じの「当座のバックバンド」であったのだろう。もちろん、メンバーの腕前はいずれも折り紙付きではあったが、これから彼らとずっと続けていこうという強い意志があったわけではなく、いわば、セッション的な集合だった。ところが、レコードはバカ売れしてしまった。

きょうの一曲、「Key To The Highway」は「Layla~」にも収められているおなじみのブルース・ナンバー。「In Concert」では省かれていたが、94年のライブ盤「Live at the Fillmore」には収録されている。これを聴き、かつスタジオ版のそれと聴き比べてみると、デレク・アンド・ザ・ドミノスのそういった裏事情がよくわかるのではなかろうか。

「Layla~」は70年8月から9月にかけてのスタジオ録音。対する「Live~」は10月の録音。ほとんど同時期といっていい。11月のアルバムデビューに先駆けての前宣伝的なライブ、といって間違いではないだろう。

しかし、その音楽的な充実度からいえば、両者には歴然としたへだたりがある。賢明なる皆さんなら、いわなくてもわかるだろう。そう、デビューアルバムでのゲスト・プレイヤー、デュアン(デュエイン)・オールマンの存在の有無である。

デレク・アンド・ザ・ドミノスにおいて、オールマンはあくまでも「ゲスト」であった。デビュー・アルバムの全曲でフィーチャーされていようが、けっしてメンバーではなかった。

しかし、彼のプレイはあまりにも素晴らしすぎた。ゲストどころか、主役を食って自分が主役になってしまった、そんな感じだった。

つまるところ、アルバム「Layla~」の成功は、オールマンの参加こそが決め手であった。

ふたりの個性の異なるギタリストの、息をもつかせぬ駆引き、食うや食われるやの闘い。このスリリングな掛け合いこそが「Layla~」の、デレク・アンド・ザ・ドミノスの魅力だったのに、オールマンはメンバーでない。これがこのバンドにとっては、最大の問題点だった。

それは、クラプトンのみならず、他のメンバーも十分に気づいていたことのようで、「オールマン抜きの4人でやってもダメだ」という雰囲気があったらしい。

実際、ライブでも2ステージだけオールマンを加えてやったことがあり、その後正式にバンド加入を頼んだという。しかし、返事は「ノー」だった。自分自身のバンドを離れてまで、クラプトンと一緒にやろうという意思は、オールマンになかったのだ。これがまた、バンド内の人間関係を悪化させた。

71年、2枚目のスタジオ・アルバムを制作中、ドラムのジム・ゴードンとクラプトンが激しい口論となり、録音は中止、バンドは解散となった。

その後、メンバーの大半は悲劇的な人生を歩むようになる。オールマンは71年11月に交通事故死。クラプトンはジミ・ヘンドリクスやオールマンの相次ぐ死にショックを受けて、ドラッグ漬けに。その後、復活までに相当の歳月が必要となった。ベースのカール・レイドルは80年、アルコールとドラッグ中毒のため37才で死亡。ゴードンもドラッグ中毒、統合失調症となり、殺人罪を犯す。ああ、なんという不幸の連鎖だろう。

彼らの生み出した素晴らしい音楽とは裏腹に、多くのメンバーの心身は救いようもないくらい、蝕まれていたのである。

そういう事実を知ったうえで聴くと、聴きなれたはずの彼らの演奏も、さまざまな感慨を呼び起こしてくれる。

ライブ版「Key To The Highway」は、スタジオ版のそれからオールマンが抜けた分、全編、完全にクラプトンをフィーチャーしたアレンジになっている。

他のメンバーは完璧にバッキングに徹しており、ギターの掛け合いがない分、ピアノ・ソロでも入れたらよさそうなものなのに、それもなし。とにかくクラプトンが弾きまくるのみ。

それでも、クラプトンの盲目的なファンなら万々歳だろう。が、筆者を含む大半のリスナーは、スタジオ版を既に聴いてしまったばかりに、それに比べるとちょっと単調だなという感想はどうしても抱いてしまう。

クラプトンのギター・プレイだって、十分にカッコいいのだが、スタジオ版の、あのうねるようなグルーヴは、そこにはない。

贅沢を言うようだが、リスナーは最良のものを知ってしまった以上、それに次ぐものでは満足できないのである。

いきなり最初に「Layla~」という未曾有の傑作が出来てしまったことが、彼ら、デレク・アンド・ザ・ドミノスの至福であったと同時に、その後の活動の一番の足かせとなったのは、間違いない。プロフェッショナルとしては、常に「Next One」を最高の出来としていかねばならないのだから。

決して悪い出来ではないこの「Key To The Highway」も、でも最高とは評価されない。げに、ミュージシャンとは、因果な商売であるね。

音曲日誌「一日一曲」#288 ビッグ・ママ・ソーントン「Hound Dog」(Hound Dog-Peacock Recordings/MCA)

2024-01-18 06:42:00 | Weblog
2013年10月6日(日)

#288 ビッグ・ママ・ソーントン「Hound Dog」(Hound Dog-Peacock Recordings/MCA)





黒人女性シンガー、ビッグ・ママ・ソーントン、唯一にして最大のヒット。リーバー=ストーラーの作品。

ビッグ・ママことウィリー・メイ・ソーントンは26年アラバマ州アリトンの生まれ。父は牧師、母は教会歌手というお堅い家庭に育った彼女だったが、母の死後10代半ばで家を出て、旅芸人の一座に加わる。

各地を巡業して得意の歌に磨きをかけ、レコードデビューのチャンスを掴む。51年のピーコック・レーベルとの契約である。

最初の2枚のシングルは不発に終わったが、3枚目で大当たりが来た。プロデューサーは同レーベルの看板男、ジョニー・オーティス。そして、リーバー=ストーラーという、当時新進気鋭のソングライティング・チームによって、この「Hound Dog」が生まれたのである。

52年8月に録音、翌年2月にリリースされるや、R&Bチャートに7週トップとなる大ヒット。数々のカバーバージョン、ルーファス・トーマス、ロイ・ブラウンらのアンサーソングを生んだこの曲は、3年後、エルヴィス・プレスリーによって取り上げられ、50年代ロックンロール最大級のヒットのひとつとなった。

レコーディングまでのいきさつや歌詞内容については「最初のロックンロール(32)」というネット記事(注・2024年現在は消滅している)に詳しく書かれている。ポイントとしては(1)「Hound Dog」は、女性の視点で歌詞が書かれている。(2)性的な隠喩もかなり含まれている、というあたりだろうな。要するに、エルヴィスの歌によって作られたイメージは、歌本来の狙いとはだいぶん違うものだということ。もともとこの曲は、性的に役立たずになった恋人はもういらない、という女性側のシビアなメッセージだったのである。

興味深かったのは、エルヴィスは直接ビッグ・ママのオリジナルを聴いてカバーしようと思ったわけでなく、フレディー・ベルとベルボーイズ という、ビル・ヘイリー風の白人バンドの演奏を聴いて、それが気に入ったからだという。道理でエルヴィスとソーントンのスタイルがまったく違うわけだ。

オリジナルは、ボーカルとギターの掛け合い色が非常に濃い。ハウリン・ウルフとヒューバート・サムリンの絡みにも通じるものをそこに感じることが出来る。このT・ボーン風の粘っこいギター・プレイは、オーティスのバンドのメンバー、カール・ピート・ルイスによるものだ。

そしてその歌いくちは、ワイルドそのもの。男性ブルースシンガーだって、ここまで思い切ったはっちゃけ方をした例は余り見ない。とにかく最初のフレーズから、聴き手の度肝を抜き、魂を抜き取ってしまう一声なのだ。

エルヴィス・バージョンはカバーとはいえ、いったん白人男性の歌に変換されてしまったバージョンからの引用だから、オリジナルを継承したものとはとてもいい難い。そして、聴き比べてみれば、エルヴィスの歌でさえ「大人しく」感じられてしまうのだ。ソーントンの聴き手の耳を、ハートをゆさぶるシャウトは、いま聴いても十分に衝撃的だ。ぜひ一聴を。


音曲日誌「一日一曲」#287 ザ・パワー・ステーション「Let's Get It On」(Living In Fear/Chrysalis)

2024-01-17 06:59:00 | Weblog
2013年9月29日(日)

#287 ザ・パワー・ステーション「Let's Get It On」(Living In Fear/Chrysalis)





ザ・パワー・ステーション、96年リリースのセカンド・アルバムより。マーヴィン・ゲイ、エド・タウンシェンドの作品。

パワー・ステーションは、デュラン・デュランのアンディ・テイラー(g)、ジョン・テイラー(b)がソロ・シンガーのロバート・パーマー、シックのトニー・トンプスン(ds)を誘って結成した、いわゆるスーパーグループだ。

活動時期は二期に分かれ、一期は84年から85年。二期は95年から96年。活動期間はきわめて短かかったが、めざましい活躍ぶりを見せている。

一期ではシングル「Some Like It Hot」「Get It On」がともに全米トップテンに食い込むヒット、アルバム「The Power Station」も全米6位に。この余勢でツアーも行うことになったが、パーマーはアルバム制作のみの参加と考えていたため、降りてしまう。代わりに元シルバーヘッドのマイケル・デ・バレスがツアーのみ参加することになった。

約10年を経過した二期は。セカンド・アルバム「Living In Fear」、シングル「She Can Rock It」をリリース。一期に比べるとセールス的にはかなりジミだったが、音楽的にさらに充実して、健在ぶりを示している。もともと、アルバム一枚こっきりという性格のプロジェクトだったから、予想外の再結成はファンを大いに喜ばせたものだ。

二期はベースのアンディが抜け、一期でのプロデューサーをつとめたシックのバーナード・エドワーズがベーシストをつとめている。アルバム制作にはファーストよりも時間をかけ、スタジオ・セッションというより、事前にじっくりアレンジを考えてから録音されたという。ファーストより音楽的に充実しているというのも、そのへんに理由がありそうだ。

そのアルバムの中でも、異色のチューンがこの「Let's Get It On」だ。

オリジナルのマーヴィン・ゲイ版シングルは73年6月リリースされ、ポップ、R&Bチャートで1位になった、スーパー・ヒット。

タイトルや歌詞の「get it on」という表現は、いいかえれば「make love」といったところ。要するに愛の行為ですな(笑)。

基本、男と女の愛や性について歌った曲だと理解して間違いはないと思うのだけれど、それはそこ、社会派ソウル・シンガーと呼ばれるマーヴィン・ゲイだから、ベトナム戦争の時代に、ラブソングのかたちを借りて世界平和を訴えているのかもしれない。

それはさておきこの曲、一期の「Get It On」みたいなストレートなロック・サウンド、あるいはヘビーなギター・サウンドこそがパワー・ステーションだと思っていたリスナーにとっては意外に感じられそうな、もろ横ノリのユル~いサウンドであるね。でも、それが結構イケるんである。

パーマーのリードボーカルだけでなく、バックのコーラス・サウンドも充実しており、パワステの音楽的な懐の広さを感じさせる。リズム隊の演奏も、文句のつけようのないくらい、ごきげんだ。

残念ながらこのアルバムの録音後、メンバーでありプロデューサーでもあったエドワーズが急逝している。その後、2003年にはパーマー、トンプスンも亡くなり、パワー・ステーションの再始動は事実上、不可能になってしまった。まことに残念である。

白人と黒人の音楽、その最も「粋(すい)」の部分を融合させた究極のプロジェクト、ザ・パワー・ステーション。すぐれたシンガー、すぐれたミュージシャン、すぐれたプロデューサーと三拍子揃って、まったく死角はない。迷わず聴くべし。