NEST OF BLUESMANIA

ミュージシャンMACが書く音楽ブログ「NEST OF BLUESMANIA」です。

音曲日誌「一日一曲」#421 ウィリー・コブス「You Don’t Love Me」(Mojo)

2024-05-31 07:53:00 | Weblog
2024年5月31日(金)

#421 ウィリー・コブス「You Don’t Love Me」(Mojo)



ウィリー・コブス、1960年リリースのシングル・ヒット曲。コブス自身の作品。ビリー・リー・ライリー、スタン・ケスラーによるプロデュース。

米国のブルースシンガー/ハーピスト、ウィリー・コブスは1932年アーカンソー州スメール生まれ。10代半ばの47年に初めてシカゴに行き、リトル・ウォルターやエディ・ボイドといったブルース・ミュージシャンと知り合い、クラブで一緒に演奏するようになる。アーカンソー州兵の兵役を経てシカゴに戻り、音楽活動を続ける。

初レコーディングは58年。シカゴのルーラーレーベルからシングルをリリースしたが、不発に終わる。

その後、郷里アーカンソーに帰って、地元のクラブに出演する。その時期に作った曲が、本日取り上げた「You Don’t Love Me」である。そしてこの曲は、地元の観客からは高い人気を獲得する。

コブスはこの自信作を、テネシー州メンフィスのレコード会社、ホーム・オブ・ザ・ブルースに売り込んだ。オーナーの返事は「ノー」であったが、2人のプロデューサー、ビリー・リー・ライリー、スタン・ケスラーが曲を聴き、プロデュースを申し出たことにより、曲は世に出ることになる。

レコーディングは1960年、メンフィスのエコー・スタジオにて行われた。メンバーはボーカルのコブスとピアノのエディ・ボイド、ギターのサミー・ローホーン、テナー・サックスのリコ・コリンズ、ドラムスのウィルバート・ハリス(ベースは不明)。

ライリーの経営するモジョレーベルより同年リリースされたシングルは、メンフィスではナンバーワン・ヒットとなる。そこで次は全国展開だということで、ライリーは前述のホーム・オブ・ザ・ブルース、そしてヴィー・ジェイレーベルにもマスター音源を売ったのである。

これでいよいよ、「You Don’t Love Me」は全米的ヒットになるかと期待された。が、実際にはそうはいかなかった。

その理由は、コブス自作のはずの本曲が、ある有名アーティストの過去曲にあまりに似ていたことによる。

その曲とは、ボ・ディドリーの1955年リリースのセカンド・シングル曲「Diddley Daddy」のB面に収められた「She’s Fine, She’s Mine」である。

2曲を聴き比べてみると、その歌詞やメロディ、コード進行やギターリフなど、かなりの部分が共通している。

「She’s Fine, She’s Mine」がたまたまB面曲でチャートインもせず、ほとんど世間に知られていなかったため、この酷似性はレコード会社から見逃されていたのだが、もし「You Don’t Love Me」が全米ヒットしてしまうと、オリジネーターのボ・ディドリーから訴えられることは間違いなかっただろう。

結局、メジャー・シングルとしてのプロモーションは中止となり、この曲の全米ヒットは幻のものとなってしまった。

しかし、この曲の強い魅力を、他のアーティスト達は見逃すことはなかった。

翌61年にルイジアナのインスト・バンド、メガトンズが「Shimmy, Shimmy Walk, Part 1」というタイトルでシングルリリース、のちにチェッカーレーベルでも出て、全米88位を獲得している。これは実はライリーの仕掛けによるものだ。

これを皮切りに65年のジュニア・ウェルズ版、67年のジョン・メイオール&ブルースブレイカーズ版、68年のアル・クーパー/スティーヴン・スティルス版、69年のマジック・サム版、72年のバディ・ガイ版といったように、ブルース、ロックを問わず多くのアーティストがこぞってこの曲をカバーするようになった。

それらの中でもリスナーの記憶に強く残っているのは71年の、オールマン・ブラザーズ・バンドのフィルモア・イーストでのライブ・バージョンだろう。19分余り、LPレコードの片面をまるまる使った力作が、この曲をブルース・ロックのスタンダードたらしめたのだ。

これらはいずれのバージョンも、クレジットはウィリー・コブスとなっている。つまり、カバー・バージョンを数多くもったことにより、この曲は「コブスの作品」として、しっかりと世に認められたのだと言っていい。

ボ・ディドリーのオリジナルは、アイデア、コンセプトとしては素晴らしいのだが、その表現スタイルとしては、いまひとつ未消化な印象がある。

トレモロを効かせた彼のギターは、それはそれで独特の魅力があるが、全体にタイトさが欠けていて、散漫な感じは拭えない。たとえA面にしても、ヒットはあまりしそうにない感じだ。

一方、コブスの方は、下敷きとしたオリジナルを踏まえながら、よりビートの効いた、リズミカルなアレンジに仕上がっている。その最大の功績は、ローホーンの切れ味のいいギター・プレイにあると言っていいだろう。

従来のブルースのパターンを超えたこのヒップなサウンドが、黒人ブルースマンだけでなく、白人ロック・ミュージシャンにも強く支持される理由であった。

現在もブルース・セッション、あるいはオールマンズのトリビュート・バンドなどで頻繁に演奏される「You Don’t Love Me」。

オリジナルを超えた、もうひとつのオリジナル。ウィリー・コブスの快唱と、バックのごきげんな演奏を楽しんでくれ。






音曲日誌「一日一曲」#420 ポール・バターフィールド・ブルース・バンド「Born In Chicago」(Elektra)

2024-05-30 08:08:00 | Weblog
2024年5月30日(木)

#420 ポール・バターフィールド・ブルース・バンド「Born In Chicago」(Elektra)






ポール・バターフィールド・ブルース・バンド、1965年10月リリースのファースト・アルバム「The Paul Butterfield Blues Band」からの一曲。ニック・グレイヴナイツの作品。ポール・ロスチャイルド、マイク・エイブラムスンによるプロデュース。

今回は、プレイヤーのバターフィールド・ブルース・バンドではなく、あえて曲の作者の、ニック・グレイヴナイツの方にスポットを当てたいと思う。

グレイヴナイツは1938年10月イリノイ州シカゴ生まれ。現在も存命の85歳である。

グレイヴナイツは両親ともギリシャ系移民の家庭に生まれた。名字の本来の読み方は「グラヴェニテス」である。彼のニックネームが「ザ・グリーク」である所以だ。家業はキャンディ屋だった。

陸軍士官学校を退学後シカゴ大学に入り、そこでハーピスト、ポール・バターフィールドと知り合い、その影響もあってブルースにハマるようになる。

シカゴのブルース・クラブに通ってマディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフらを聴く一方で、ギターを弾き、自ら曲を作るようになった(当時はまだブルース・クラブは黒人の聖域で、そこに白人が出入りするには、相当な勇気がいったらしい)。

一番最初にレコードとなった彼の作品が、この「Born In Chicago」というわけである。

その歌詞は自分が生まれた地であるブルース・シティ、シカゴでの出来事を歌ったもの。シカゴに生まれ住んでいる人間でなくては、書けなかった曲である。

60年代初頭に、グレイヴナイツはバターフィールドとのデュオを組み、シカゴのクラブで演奏していた頃に、この曲は初めて演奏された。

マイク・ブルームフィールドが64年からバターフィールド・ブルース・バンドに参加したが、本曲を知っていたブルームフィールドが、この曲を取り上げるべきだと主張して、それが通ったという。

彼らの最初のレコーディングは65年4月に行われ、本曲はエレクトラレーベルのサンプラー・アルバム「Folk Song ‘65」に収録された。ボーカルはブルームフィールド。

これが好評だったため、ファースト・アルバムのレコーディングにあたって、同年9月に再録音して収録することになった。そのバージョンではマーク・ナフタリンのオルガン、コーラスとソロの追加がなされて、今日よく聴かれるようなサウンドになったのである。

バターフィールドのバンドのメンバーにはならなかったが、この一曲により、グレイヴナイツは新進のソング・ライターとして次第に注目されるようになる。

翌66年、バンドのセカンド・アルバム「East West」が制作される。このラストに収録された「East West」というインストゥルメンタル・ナンバーを、グレイヴナイツとブルームフィールドが共作している。いわゆるラーガ・ロックのはしりとなった、13分以上におよぶ意欲作である。

グレイヴナイツのことを高く評価していたブルームフィールドは、バターフィールド・ブルース・バンドからの脱退後、ついに自らのバンドにグレイヴナイツを招き入れる。67年結成の、エレクトリック・フラッグである。

このバンドでグレイヴナイツは、リードボーカル兼リズムギターという、フロントマンの大役を得る。また、何曲かのソング・ライティングも担当した。

バンドは2年の短命に終わり、2枚のアルバムを出すにとどまったが、これでグレイヴナイツはプレイヤーとしてもメジャーな存在となったのである。

以降の彼の活動は、プロデュース・サイドのものが中心となる。一番有名なのは、ジャニス・ジョプリンへの楽曲提供だろう。「Work Me, Lord」、そしてジョプリンの死のため歌抜きとなった「Burried Alive In The Blues」などを書いている。

また、クィツクシルバー・メッセンジャー・サービスとの協力関係も強く、彼らのファースト・アルバムをプロデュースしたほか、そのリーダーだったジョン・シポリナとバンドを組んで活動したりしている。

黒人ブルースマンとのつながりもあり、よく知られているのは、オーティス・ラッシュのアルバム「Right Place, Wrong Time」(71年録音、76年リリース)のプロデュースを担当したことであろう。その他、自身のバンド活動、他のバンドとのコラボなど、枚挙にいとまがない。

グレイヴナイツは2020年にドキュメンタリー映画、その名も「Born In Chicago」に出演している。グレイヴナイツが自分はシカゴでブルースと共に育ったんだと語っており、まさに彼の人生の総括ともいうべき一編となっている。エルヴィン・ビショップやダン・エイクロイド、ありし日のブルームフィールドも映画内に登場している。

白人であるグレイヴナイツにとっても、シカゴ・ブルースは心のふるさとであり、生きる糧であったということだ。

彼の作る曲は、黒人ブルースに強い影響を受けながらも、白人ならではの感覚、先進的なセンスが含まれており、それはデビュー作の「Born In Chicago」においても既にはっきりとあらわれている。

新時代のブルース、ネオ・ブルースとでもいうべき、グレイヴナイツのビート感覚溢れた一曲、改めて味わってみてくれ。






音曲日誌「一日一曲」#419 ルーサー・アリスン「Help Me」(Delmark)

2024-05-29 08:43:00 | Weblog
2024年5月29日(水)

#419 ルーサー・アリスン「Help Me」(Delmark)




ルーサー・アリスン、1969年リリースのファースト・アルバム「Love Me Mama」からの一曲。サニーボーイ・ウィリアムスンII、ラルフ・バス、ウィリー・ディクスンの作品。ロバート・G・ケスターによるプロデュース。シカゴ録音。

米国のブルースマン、ルーサー・シルベスター・アリスンは1939年アーカンソー州ワイドナー生まれ。15人兄弟 の14番目の子である。

兄弟のうち5人がゴスペルグループのサザン・トラベラーズで歌う、音楽一家だった。アリスンも教会でオルガンを弾くようになる。12歳の時、より良い仕事を求めて一家がシカゴに移住。

兄のオリー・アリスンはすぐにブルースギタリストとして生計を立てるようになる。それに刺激されてアリスンもギターを始める。10代半ばで兄のバンドでも演奏出来る腕前となる。

その後オリーとグラント、ふたりの兄と共にバンドを結成する。当初のバンド名は、なんとローリング・ストーンズ。後にフォー・ジヴァーズと改名する。

57年、ビッグ・チャンスが舞い込む。大御所ブルースマン、ハウリン・ウルフ(当時47歳)のステージに招かれ、共演したのである。アリスンはこれで注目を浴びるようになる。

そしてアリスンの兄弟がバックを務めていた気鋭のブルースマン、フレディ・キング(当時23歳)がメジャーデビューする際に、シカゴのウエスト・サイドのクラブの仕事をアリスンに引き継がせてくれた。

これらのおかげで、アリスンは60年代前半までクラブ・サーキット(巡業)で活躍するようになる。

最初のシングルを65年に録音。67年にデルマークレーベルと契約して、本格的なレコーディング・キャリアが始まる。

そして69年、ついに完成したのが、本日取り上げた一曲「Help Me」を含むデビュー・アルバム「Love Me Mama」というわけである。

このアルバムは彼の10年あまりのプロ生活の、総決算的な選曲になっている。ハウリン・ウルフ、B・B・キング、エディ・ボイド、エルモア・ジェイムズといった大物ブルースマンのカバーがほとんどで、アリスンのオリジナルは3曲のみであった。

「Help Me」もまた、超大物のひとり、サニーボーイ・ウィリアムスンIIの代表的ナンバーだ。

オリジナルは63年、チェッカーレーベルよりシングルリリースされた。ウィリアムスン本人とレコードプロデューサーのラルフ・バス、ウィリー・ディクスンの共作となっている。R&Bチャートで24位のヒットとなる。

ブッカー・T &MG’Sのヒット曲「Green Onions」(62年リリース)のサウンドをうまく拝借したマイナー・ブルースとして知られるこの曲に、アリスンは大胆に自分流のアレンジを加えている。

それは、ワウ・ペダルの使用である。

黒人ブルースギタリストの大半は、69年の時点ではこのギターエフェクターを使うことに対して、ためらいがあったと思う。

ブルースギターはノーエフェクト、クリーントーンこそが尊い、みたいな信仰めいたものが根強くあったからだ。

しかし当時、ブルースをめぐる音楽シーンは、大きく変わりつつあった。

その台風の目のような存在だったのが、ジミ・ヘンドリックスだ。彼は黒人でブルース畑出身でありなから、ファズ、ワウ・ペダルなど、最新のテクノロジーを遠慮なく導入して、あの革新的なサウンドで一世を風靡した。

これに呼応するかのように、黒人ブルース側にも変化の動きが出てくる。大御所マディ・ウォーターズの実験的アルバム「Electric Mud」(68年リリース)である。そこでは、サイケデリックなギターサウンドを大々的にフィーチャーして、多くのブルースファンを驚かせた。

アリスンもまた、この時代の流れを無視することが出来なかった。

従来のブルース・ギターのサウンドを墨守するのではなく、時代に即して変えていく、変わっていく道をとったのである。

ギターをワウ・ペダルに常時通して、ソロを弾くというよりは、リズムギターの延長として弾くこのスタイルは、いうならばブルースギターのコペルニクス的転回である。

この曲の主役はギターではなく、むしろアリスンのハイテンションな塩辛い歌声なのだ。上手いというよりは、個性的な声。マイナー・チューンによくフィットする、ブルージィな声なのである。

「助けて、お前なしでは暮らせないんだ」という男の悲痛な叫びが、アリスンの声に見事にハマり、聴く者の心を揺り動かす。そんな一曲だ。

アリスンはその後、あまり順風とはいえない、いろいろと紆余曲折の多い音楽人生を送る。大手モータウンに移籍したもののあまり売れず、長らくヨーロッパに移住して活動を続けた末、90年代の半ばにようやく本国で本格復帰したのだが、残念なことに97年、57歳で亡くなっている。

せめてもう10年長生きしてくれていたら、60代のアリスンを聴けたのに・・という思いは残る。

とはいえ、異国の地においても、ルーサー・アリスンは常にハイテンションなボーカルとギターで熱演を続けた。その当時の映像も残っていて、Youtubeでも観られるので、いつでもアリスンの勇姿を拝めるのだ。実にいい時代である。

レコードは買わなければ聴けないが、動画サイトならば30年、40年前のサウンドでも聴き直すことが簡単だ。ぜひアリスンの欧州ライブの映像をチェックしてみてほしい。







音曲日誌「一日一曲」#418 ロイ・オービスン「Ooby Dooby」(Sun)

2024-05-28 07:55:00 | Weblog
2024年5月28日(火)

#418 ロイ・オービスン「Ooby Dooby」(Sun)




ロイ・オービスン、1956年リリースのシングル・ヒット曲。ウェイド・ムーア、ディック・ペナー、サム・フィリップスの作品。フィリップスによるプロデュース。

ロイ・ケルトン・オービスンは1936年テキサス州ヴァーノン生まれ。6歳の誕生日に父からギターをプレゼントされて、弾き始める。カントリーやウェスタン・スイングを好んで聴き、10代の頃からロカビリーやカントリー&ウェスタンのバンドで歌うようになる。

学校の友人達と組んだウィンク・ウェスタンズがローカルテレビ局のコンテストで優勝、番組のレギュラー出演を勝ち取る。

ノース・テキサス州立大学に進学、同級のパット・ブーンがプロ歌手になったことに刺激され、プロを目指す。パーティでビル・ヘイリーのカバー曲を演奏してウケたことで、ロカビリー路線に転向する。

バディ・ホリーをマネジメントしたプロデューサー、ノーマン・ペティのもと、ウィンク・ウェスタンズのメンバーを一部入れ替えたティーン・キングスで56年3月に初レコーディング。それが、本日取り上げた一曲「Ooby Dooby」の、原型バージョンであった。

この曲は、大学の同級生、ウェイド・ムーア、ディック・ペナーが作ったロカビリー・ナンバー。ジュウェルレーベルよりリリースされた初のシングル「Tryin’ To Get You」のB面に収められた。

この曲については、オービスン本人が相当自信を持っており、もっと有名なレーベルから出せば必ずヒットすると考えていた。そこで、レコードの制作費をレーベルに返還して出版権を取得、新たなレーベルからリリース出来るようにしたという。

そして実現したのが、伝説的なサンレーベルでの再録音である。

オービスン達はメンフィスのサン・スタジオに赴き、サム・フィリップスと契約を結んだ。56年から58年までに20曲以上をレコーディングしている。

本曲のレコーディング・メンバーは、オービスンのほか、ギターのジョニー・ウィルスン、エレクトリック・マンドリンのジェイムズ・マロウ、ペースのジャック・ケネリー、ドラムスのビリー・パット・エリス。

サンにおけるファースト・シングとしてリリースされた「Ooby Dooby」は、オービスンの期待通り全米59位にチャート・イン、最終的には25万枚以上を売り上げるヒットとなったのである。

しかし、その後はヒットが続くことがなかった。それには、以下のような事情が絡んでいると言われる。

サンレーベルのオーナーであるフィリップスは、オービスンをエルヴィス・プレスリーの後釜にしようと考えていた。しかし、オービスン自身は本来はロカビリー路線よりは、バラード・シンガーを目指していたので、フィリップスの期待には応えられず、フィリップスの関心はオービスンからもっぱらカール・パーキンスに移ってしまい、オービスンのプロデュースに力を入れなくなってしまったという。

その後オービスンはサンを去り、ナッシュビルのモニュメントレーベルに移籍する。

60年に、ようやくそこで起死回生のヒットが出る。「Only The Lonely」である。全米2位、そして全英1位という輝かしい大ヒットを出したその後は、破竹の進撃が始まる。

「Blue Angel」「Running Scared」「Crying」「Dream Baby」といったトップテン・ヒットを連発し、オービスンは押しも押されもせぬスター・シンガーとなった。

容姿はいかにも地味だったが、その伸びやかな美声、翳りのある魅力的なメロディ・ラインで、彼は一世を風靡したのである。

その後も堅実な活動を続け、後半生にはトラヴェリング・ウィルベリーズへの参加で再び存在感を示して、1988年に52歳で亡くなった。死後の「Oh, Pretty Woman」のリバイバル・ヒットも、強く印象に残っている。

60年以降は順風満帆の音楽人生を送って来たように見えるオービスンだが、最初のヒット以降は鳴かず飛ばずであった。

「Ooby Dooby」は確かに売れるタイプの曲ではあったものの、ロイ・オービスン本来の資質とはまるで違った曲であったがため、その路線を続行するには無理があったということなのだろう。

のちの70年、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルがカバーして、この曲は蘇ったが、オービスンの曲としては異色の系統なのだ。

メリハリの効いたビート、アッパーなギター・ソロがなんともイカしているロカビリー・ナンバー。パーティ気分で聴いてほしい。




音曲日誌「一日一曲」#417 ロニー・マック「Memphis」(Fraternity)

2024-05-27 07:39:00 | Weblog
2024年5月27日(月)

#417 ロニー・マック「Memphis」(Fraternity)





ロニー・マック、1963年9月リリースのシングル・ヒット曲。チャック・ベリーの作品。ハリー・カールスンによるプロデュース。

米国のロックシンガー/ギタリスト、ロニー・マックことロニー・マッキントッシュは、1941年インディアナ州ウェストハリスンの生まれ。

ラジオでカントリー、R&B、ゴスペルなどを聴いて育ち、7歳でギターを弾きはじめる。ブルーグラスを弾く一方、叔父からブルース・ギターも教わる。白人、黒人双方の音楽から影響を受けたことで、マック独自のギター・スタイルが生まれていく。

1950年代半ば、教師とケンカをして中学を中退、年齢を偽ってプロミュージシャンの道に入る。オハイオ州シンシナティ周辺のバーで弾き、ローカルレーベルでレコーディングする10代を送る。

1960年代初頭、シンシナティのフラタニティレーベルでセッション・ギタリストとなる。これが、彼の一大転機となる。

63年に同レーベルでファースト・シングルをリリース、なんとR&Bチャートで4位、全米で5位の特大ヒットとなった。それが、本日取り上げた一曲、「Memphis」である。

いうまでもなくこの曲は、チャック・ベリー自作のシングル・ヒット曲である。1959年6月にリリースされ、米国内ではヒットしなかったが英国でヒットし、全英6位にチャートインした。オリジナル・タイトルは「Memphis, Tennessee」。

これを4年後に歌抜きの短いインスト・ナンバーとして演奏、タイトルも縮めてリリースしたのが、ロニー・マック版ということになる。

テンポはオリジナルより早めで、基本的にはチャック・ベリーのスタイルを忠実に踏襲しつつも、マックならではのスピーディなフィンガリングで聴かせる、軽妙なインスト・ナンバー。ドライブのBGMとしても適した、ツービート・チューンだ。

この曲に続いて、自作のインスト曲である「Wham!」をセカンド・シングルとしてリリースしたところ、全米24位の連続ヒット。さっそく歌入りの曲も含むファースト・アルバム「The Wham Of That Memphis Man」が翌10月にリリースされる。

この一枚が、良くも悪くもその後のロニー・マックの音楽人生を決定づけたといっていいだろう。

ブルース、ソウル、ゴスペル要素を大胆に取り入れたその内容で、批評家筋からは高い評価を受けたのだが、当時は白人が黒人色の強い音楽を追求することは、かなりニッチなことだったので、マックの音楽がメジャーな存在となることはなかった。アルバムのセールスは、全米103位にとどまる。

おまけに、64年あたりから英国ロックの攻勢、いわゆるブリティッシュ・インヴェイジョンが本格化して、彼のような存在は極めて影の薄いものとなってしまう。結局、マックは全国規模でなくローカルでの活動にとどまり、次のアルバム・リリースまでに6年の歳月を要することになるのである。

つまり、彼の登場はいかにも「早すぎた」のである。

60年代末にもなると、米国のミュージック・シーンも大きく変化し、マックの生み出すサウンドへの理解、支持も深まっていく。そのギター・プレイに惹かれるアーティストが増えていく。70年には「The Wham Of That Memphis Man」の再発盤「For Collectors Only」もリリースされ、彼らに愛聴される。

70年代からのアメリカン・ロックの開花により、先駆者マックは「ギタリスツ・ギタリスト」とでもいうべき存在になったのである。

たとえば、デュアン・オールマン、ディッキー・ベイツ、ウォーレン・ヘイズらオールマンズをはじめとしたサザン・ロック勢、スティーヴィ・レイ・ヴォーン、マイク・ブルームフィールド、ジミ・ヘンドリックス、英国の三大ギタリスト、キース・リチャーズ、さらにはスラッシュのような少し下の世代に至るまで、マックをリスペクトするギタリストは枚挙にいとまがない。

70年代以降のマックは、マイペースでアルバムを2000年ごろまで制作・リリース、その一方でライブ活動は2010年ごろまで精力的に続けた。

そして2016年、74歳でこの世を去っている。

日本ではレコードもほとんど売れることなく、名前を知る者さえごく少数ではあるが、ロニー・マックがロック・ギターの大元を作った、極めて重要なギタリストのひとりであることは間違いない。

その初期のフレッシュな彼のプレイを、改めてチェックしてみよう。




音曲日誌「一日一曲」#416 デイル・ホーキンス「Susie Q」(Checker)

2024-05-26 08:25:00 | Weblog
2024年5月26日(日)

#416 デイル・ホーキンス「Susie Q」(Checker)





デイル・ホーキンス、1957年5月リリースのシングル・ヒット曲。ホーキンス本人、ロバート・チェイスンの作品。

米国の白人シンガー、デイル・ホーキンスは1936年8月、ルイジアナ州セントメアリー生まれ。エルヴィス・プレスリーをはじめとするロックンロール、ロカビリーの影響を受けて、同州シュリープポートのクラブで歌い始める。

56年よりレコーディングを始め、翌57年5月にチェッカーレーベルから出したシングルがいきなりヒット、ホーキンスは一躍全国的な人気を獲得する。それが本日取り上げた一曲、「Susie Q」である。

本曲はR&Bチャートで7位、全米27位にまで上りつめ、カナダでも16位となった。

ヒット後に出演したテレビ番組での、ホーキンスのパフォーマンスを観ていただこう。細身でイケメンの彼に、ティーンの白人女性ファンが黄色い歓声を上げている。新たなるロックンロール・スターの誕生である。

バックでテレキャスターを抱えて、イカしたギターソロを決めているのは、プレスリーとの共演でも有名なジェイムズ・バートンである。このプレイもまた、本曲の魅力を大いに高めている。

この曲を実際に作ったのは、ホーキンスとバンドメイトのロバート・チェイスンであるが、他に2名がクレジットされていた。スタン・ルイスとエレノア・ブロードウォーターだ。

ルイスはジュエルレーベルのオーナー。彼の娘、スーザン(愛称スージー)がこの曲をインスパイアしたと言われている。ブロードウォーターは、ナッシュビルの有名DJ、ジーン・ノーブルズの妻。要するに、ホーキンスがこれまでお世話になった人たちに印税で恩返ししようと、クレジットに加えたということなのだろう。

前述のバートンも、レコーディング時に曲のアレンジに深く関わったので、彼も共同作曲者のひとりと言えるかもしれない。

ホーキンスはその後、チェスレーベルで60年代初頭までレコードをリリースし続けた。彼自身のテレビ番組「デイル・ホーキンス・ショー」を持ち、60年代後半はレコード・プロデューサーにも進出して、ユニークス、ファイブ・アメリカンズなどでヒットを出した。

シンガーとしてのホーキンスを世間が忘れかけていた頃、彼の作品が再び注目を集めた。ウェストコーストのロック・バンド、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(CCR)による、「Susie Q」のカバーである。

68年6月、彼らのデビュー・シングルとして、アルバムに先行する形で「Susie Q」はリリースされた。ホーキンスのオリジナルは2分ちょっとの短尺だったが、こちらはアルバムでは8分37秒と長い曲なので、シングルのA面とB面に分けて収録された。

これが見事、オリジナル以上の大ヒット。デビュー曲ながら全米11位を獲得、CCRの名を米国中に轟かせた。以降の彼らの活躍ぶりは、語るまでもないだろう。

テンポやアレンジなどで若干の違いがあるものの、両バージョンに共通して感じられるのは、白人のロカビリー・ミュージックと、黒人のブルース、R&B、ソウルが完全に融合、一体化していることである。

だからこそ、ホーキンスは白人ながらチェスというレーベルに加入でき、本曲はR&Bチャートでもヒットしたのだ。

湿地帯の多いルイジアナで生まれたホーキンスのサウンドは、後に「スワンプ・ロック」と呼ばれて、CCRをはじめ、トニー・ジョー・ホワイト、レオン・ラッセルらが深めていき、70年代にはアメリカン・ロックの根幹を成すようになる。

ホーキンスの白人っぽい軽く洒脱なボーカルと、好対照をなす黒いグルーヴを持つバック・サウンド。「Susie Q」の魅力は、そのコンビネーションの妙にあるのだと思う。ぜひ、スワンプ・ロックの源流を辿ってみてほしい。




音曲日誌「一日一曲」#415 ミック・テイラー「Red House」(Maze Music)

2024-05-25 08:48:00 | Weblog
2024年5月25日(土)

#415 ミック・テイラー「Red House」(Maze Music)




ミック・テイラー、1990年リリースのライブ・アルバム、「Stranger In This Town」からの一曲。ジミ・ヘンドリックスの作品。テイラー本人、フィル・コレラによるプロデュース。

英国のギタリスト、ミック・テイラーはいうまでもなく、ローリング・ストーンズに69年6月から74年12月まで在籍して、ストーンズの黄金期を支えた重要メンバーだ。本名・マイケル・ケヴィン・テイラー。

1949年12月、ハートフォードシャー州ウェリンガーデンシティに生まれる。10代になるとバンド活動を開始、地元では注目を集めるようになる。

1966年4月にジョン・メイオール&ブルースブレイカーズのライブを観に行き、飛び入り演奏でクラプトンの欠場を埋める。

これがきっかけで、翌67年、ピーター・グリーンが脱退した後のブルースブレイカーズに加入、弱冠17歳でプロデビュー。アルバム「Crusade」のレコーディングにも参加する。

69年6月、メンバーのブライアン・ジョーンズが急死し、後任ギタリストを必要としていたストーンズに、メイオールがテイラーを推薦したことにより、急遽参加が決定する。

アルバム「Let It Bleed」から「It’s Only Rock’ n’ Roll」に至るまで約4年半、ギタリストとして活躍するも、74年末に脱退を表明して、グループを去った。

その後はジャック・ブルースに誘われて彼のバンドに参加したり、リトル・フィートのライブにゲスト参加したり、フランスのバンド、ゴングとコラボするなど多様な活動を続ける。

ソロアーティストとしての本格的な活動は、77年から始まる。同年コロムビアレーベルと契約、制作に数年をかけたファースト・アルバム「Mick Taylor」を79年6月についにリリースする。テイラー、齢29にしての初ソロである。

このアルバムではインスト曲が多いが、それだけではなく、テイラー自身がリードボーカルをとったナンバー(「Leather Jacket」など)も収められており、ストーンズ時代はほとんど歌わなかった彼が、実は歌うことにも意外と前向きであることがはっきりと分かったのであった。

その後はなかなか続編が出ず、以前「一枚」の方で取り上げた「Shadow Man」を含めても数枚しかリリースしていない。そのかわり、ライブ・アルバムを比較的多めにリリースしている。

本日取り上げたのは、その中の一枚、1989年夏のスエーデン公演、ドイツ公演、同年冬の米国フィラデルフィア公演を収めたアルバム、「Stranger In This Town」の一曲、おなじみのジミ・ヘンドリックス・ナンバー「Red House」である。スエーデンにてレコーディング。

バックのメンバーは、ベースのウィルバー・バスコム、ドラムスのエリック・パーカー、キーボードのマックス・ミドルトン。

オリジナルは1966年、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスによりレコーディングされ、彼らのデビュー・アルバムに収録された。

以来、多くのブルースやロックのミュージシャンによりカバーされて、ブルース・スタンダードのひとつとなっている。

テイラーはこの曲を、オリジナルにかなり忠実なフレージングで丁寧にカバーしている。愛器のレスポール・スタンダードがなんとも艶っぽい音色だ。

そして、何より注目すべきなのは、ボーカルをテイラー自身がとっていることだ。長いギター・ソロの後半からギターとのユニゾン・スキャットを始め、その後歌に入る。

この声がなかなかにシブくて、いい感じなのである。

リードシンガー向きの、いわゆる華のある声ではないけれど、ディープでブルースを感じさせる声質。

聴く者にしみじみと感じさせる、サムシングがあると言いますか。

途中、ブルース・スタンダード「Goin’ Down Slow」の歌詞も織り込みつつ、ゆったりと思い入れたっぷりに歌うテイラー。大物ブルースマンの貫禄、ハンパない。

ギター・プレイの方も、約30年のキャリアを感じさせる出来映え。彼は指弾きだけでなく、スライド・ギターも得意とすることでよく知られているが、一曲の中、いやひとつのフレージングの途中でも指からスライドにスピーディにスイッチすることで、よりエモーショナルなプレイを生み出している。

この絶妙なスイッチ・プレイは、彼のライブ映像を観るとよくわかるので、そちらで確認していただこう。

テイラーは生前のジミ・ヘンドリックスとも顔馴染みであったという。自分よりもさらに凄いギターを弾く男として、テイラーもまた、彼を強くリスペクトしていたのだろう。

ヘンドリックスへの畏敬の念が滲み出たカバー・バージョン。テイラーも、ヘンドリックスに負けず劣らず、とてつもなくスゴいギタリストであることが、この一曲からもよく分かる。

そして、その歌も含めて、超一級のミュージシャンであることも。




音曲日誌「一日一曲」#414 BBM(ブルース、ベイカー、ムーア)「City Of Gold」(Virgin)

2024-05-24 07:39:00 | Weblog
2024年5月24日(金)

#414 BBM(ブルース、ベイカー、ムーア)「City Of Gold」(Virgin)




BBM(ブルース、ベイカー、ムーア)、1994年5月リリース、彼らの唯一のアルバムからの一曲。ゲイリー・ムーア、ジャック・ブルース、キップ・ハンラハンの作品。イアン・テイラー、BBMによるプロデュース。

BBMとは上記のようにジャック・ブルース、ジンジャー・ベイカー、ゲイリー・ムーアによって結成された英国のロック・バンドだ。

説明するまでもなく、クリーム、シン・リジィといった人気バンドを皮切りに長年にわたり活躍して、ロック・レジェンドと呼ばれた3人が1993年末に組んだ、いわゆるスーパー・グループである。

なぜ彼らが1990年代に合流することになったのかを説明すると、1943年5月生まれのブルースが50歳の誕生日を迎えて、それを祝うコンサート(「Cities Of The Heart〜Live 1993」というアルバムとなった)を11月にドイツのケルンで開催し、それにブルース本人、ゲスト・ミュージシャンとしてムーア、ベイカーも出演したことがきっかけなのである。

その時は、3人がクリームの過去ナンバーを演奏してオーディエンスの熱狂をさらったのだが、それが一回こっきりのイベントで終わるのでは惜しいと考えたのだろう、ブルースがムーアの次のアルバム制作に参加することを決め、かつそれにベイカーも加わるようブルースが誘ったのだという。

結局、そのアルバムはムーアのソロ・アルバムというよりは、BBMという新バンドのアルバムにまで発展することになる。

レコーディングは93年末から94年初頭に行われた。曲の多くはムーア、ブルースにより書かれた新作で、一部の曲でベイカーやパーカッショニストのキップ・ハンラハンもそれに加わっている。

アルバムは94年5月にリリースされ「クリームの再来」的な扱いで、世界的に話題となる。全英9位にチャートインしている。

本日取り上げた一曲「City Of Gold」は、その2曲目に収録されたブルースロック・ナンバー。

聴いていただくと、どなたもそう思うだろうが、明らかにこれはBBM版「Crossroads」である。

BB&Aの「Black Cat Moan」などと共通するリフで始まるこの曲は、ビート、スピードがほぼライブ盤の「Crossroads」と同じであり、ムーアのギター・プレイも、わざとと言っていいくらい、クラプトンに寄せている。

つまり、60年代のECのようなハードなギター・プレイを聴きたいというリスナーの期待に応えたということだ。

リードボーカルは、クリームの「Crossroads」ではクラプトンのポジションだったが、この「City Of Gold」ではブルースが担当している。

大変興味深く感じるのは、クリーム時代にはクラプトンよりもギラギラとしたイメージがあってフロントマンっぽかったブルースのボーカルが、年齢もあってか枯れた感じになっており、彼よりはだいぶん若いムーア(1952年生まれ)にその役割を譲っていることだ。

ムーアは92年に「After Hours」、93年に「Blues Alive」を93年にリリースして、ブルース回帰路線を鮮明に打ち出していた頃だ。ギターのみならず、そのパワフルなボーカルにも磨きがかかり、このアルバムでもブルース以上に前面に出て、ボーカルとギターの両方で目立っている。

ところでBBMはその後、アルバムのプロモーションを兼ねたヨーロッパ・ツアーを5月からスタートしたものの、コンサートのいくつかはキャンセルとなり、7月までの予定を消化しきれずに活動終了となってしまう。

以後、この3人が共演することは二度となかった(ブルースとベイカーの2人は2005年にクリームのリユニオン・コンサートで共演している)。

原因は、皆さんも容易に推測出来ると思うが、バンドメンバーの人間関係のもつれである。

ブルースとベイカーのふたりはもともと仲が良くなかったことで有名だ。クリームで組む以前に一緒だったグレアム・ボンド・オーガニゼーション時代からそれは始まっていたらしく、クリームでもそれは続く。

ふたりはことあるごとにお互いのエゴをぶつけ合っており、それがクリーム解散の主たる原因ともなったと言われている。

ふたりはもともと、パーマネント・バンドとして継続していくには無理のあるコンビだったのだと思う。BBMにおいても結局、同じ結末となってしまった。まことに残念である。

しかし、「BBM」という一枚のアルバムは残った。ブルース、ベイカー、ムーアというトップ・ミュージシャンでなくては作れない曲、出せない音がそこにはある。

クリームが「Wheels Of Fire」という意欲作で作り出そうとしていたサウンドを、このアルバムが引き継ぎ、90年代ならではのアレンジで聴かせてくれているのではないだろうか。

30年前に、ほんの短期間だけ活躍したBBM。その後を追ってみると、ムーアが2011年2月に58歳で、ブルースが2014年10月に71歳で、ベイカーが2019年10月に80歳でこの世を去っている。

つまり、BBMのメンバーは全員、鬼籍に入ってしまったのである。つくづく、時の流れは冷酷だなと感じざるをえない。

それでも、このアルバムを聴けば、ありし日の彼らの勇姿がまざまざと眼前に浮かんでくる。彼ら無くしては、今日のブリティッシュ・ロックの隆盛はなかった。

ともあれ、ビッグな3人が組んだ最強のパワー・トリオが叩き出すロック・ビートに、身も心も委ねてみてくれ。




音曲日誌「一日一曲」#413 アルバート・コリンズ、ロバート・クレイ、ジョニー・コープランド「Bring Your Fine Self Home」(Alligator)

2024-05-23 07:26:00 | Weblog
2024年5月23日(木)

#413 アルバート・コリンズ、ロバート・クレイ、ジョニー・コープランド「Bring Your Fine Self Home」(Alligator)



アルバート・コリンズ、ロバート・クレイ、ジョニー・コープランドの共演アルバム「Showdown!」からの一曲。コープランドの作品。ブルース・イグラウアー、ディック・シャーマンによるプロデュース。

1985年、アルバート・コリンズ、ロバート・クレイ、ジョニー・コープランドが一堂に会して、それぞれのオリジナルや他のアーティストのナンバーを共演したアルバムを制作した。これが約40年が経った現在まで、多くのリスナーに聴き継がれている。

本日はその3人のブルースマンの中でも、ジョニー・コープランドにスポットを当ててみたいと思う。

ジョニー・コープランドことジョン・クライド・コープランドは1937年、ルイジアナ州ヘインズヴィル生まれ。ブルース、とりわけT・ボーン・ウォーカーを愛聴して育ち、ギターを始める。

移住したテキサス州ヒューストンでバンド、デュークス・オブ・リズムを結成、1956年、10代のうちにレコード・デビュー。ヒット曲にはあまり恵まれなかったが、ローカルな人気は獲得して、地道にライブ活動を続けた。

彼はブルースだけでなく、ソウル、ロックンロール系の曲も数多く歌っており、ギタリストというよりは、どちらかといえばシンガーとしてフィーチャーされていた。

テキサスでの約20年の活動を終えて、76年にニューヨーク市に移る。プロデューサー、ダン・ドイルと出会い、彼の伝手でラウンダーレーベルと契約。81年以降91年に至るまで、同レーベルで5枚のアルバムをリリースして、ブルースマンとしての評価が高まる。

その時期に、テキサス時代から長い付き合いのある先輩、アルバート・コリンズ(1932年テキサス州レオナ生まれ)からの誘いで、レコーディング・セッションに参加することになる。彼らよりずっと歳若いロバート・クレイ(1953年ジョージア州コロンバス生まれ)もそこに加わって、3人のアルバムとして制作されたのがこの「Showdown,」というわけだ。

時にコリンズ53歳、コープランド48歳、クレイ32歳であった。

他のレコーディング・メンバーは、ベースのジョニー・B・ゲイデン、ドラムスのケイシー・ジョーンズ、オルガンのアレン・バッツ。

本日取り上げた一曲「Bring Your Fine Self Home」はコープランドが作り、リードボーカルを取ったスロー・ブルース・ナンバー。

冒頭に収められているコープランドとコリンズの会話を聴くと分かるが、本曲ではコリンズがギターではなく、ハーモニカ(ハープ)を携えている。

少し意外だがコリンズはハープやキーボードもこなしており、稀にレコードでも披露していたのである。

このコリンズのいなたいハープ・ブローが、本曲のダウンホームな味わいを見事に深めている。

かたやコープランドの歌は、ひたすら野太くワイルドである。荒々しいシャウトは、まさにコープランド・スタイルだ。

「Play Blues!」というコープランドの掛け声に合わせて始まる、中間の短いギターソロは、クレイだろうか。でも手癖がコリンズっぽくもある。通なかた、どちらなのか教えて欲しい。このソロもまた、テンションMAXでイカしている。

3人は歌声はそれぞれに個性的ではあるが、ギターについては、エッジを効かせた音でゴリゴリに弾く、いわゆるギター・スリンガーであるという点では共通していると思う。実は似た資質、方向性を持っているからこそ、この3人の共演はうまく成功したのだ。

最後までハイ・テンションな歌声を聴かせるコープランド。そして、コリンズやクレイたちの手だれのバッキングにより、いい感じにまとまったナンバー。

コープランドはその後、90年代はヴァーヴに移籍して何枚かのアルバムを残し、97年に60歳で亡くなった。その20年後、ブルースへの功績を認められて、ブルースの殿堂入りを果たしている。また、娘のシェメキアもブルース・シンガーとして活躍中だ。

代表的なヒット曲があるかといえば特になく、あまり商業的に成功したとはいえないコープランドだが、筆者個人としては、なかなかいい味を持ったミュージシャンだったと思う。

その精力的な歌声、アグレッシブなギター・プレイ。顔だちや表情も含めて、そのひとつひとつが「ブルース」なのだ。

彼こそは「存在そのものがブルース」ともいえるオーラを纏った、ブルースマン。

有名無名、成功不成功に関係なく、こういうミュージシャンに、筆者は心惹かれるのである。

音曲日誌「一日一曲」#412 フェントン・ロビンスン「Somebody Loan Me A Dime」(Alligator)

2024-05-22 07:40:00 | Weblog
2024年5月22日(水)

#412 フェントン・ロビンスン「Somebody Loan Me A Dime」(Alligator)






フェントン・ロビンスン、1974年リリースのアルバム「Somebody Loan Me A Dime」のタイトル・チューン。ロビンスン自身の作品。ブルース・イグラウアーによるプロデュース。

米国のブルースマン、フェントン・ロビンスンは1935年、ミシシッピ州グリーンウッド生まれ。T・ボーン・ウォーカー、B・B・キングなどを聴いてギターを始める。

51年、生家を離れてテネシー州メンフィスに移り、プロのミュージシャンを目指す。

初レコーディングは57年、ミーティアレーベルからリリースしたシングル「Tennessee Woman」。

出世作は59年、デュークレーベルからリリースの「As The Years Go Passing By」。この曲はプロデューサーのディアドリック・マローン(ドン・ロビー)の作品となっているが、実際にはブルースマン、ペパーミント・ハリスが書いたものだ。のちにアルバート・キングのカバーでよく知られるようになる。

62年にシカゴに移住。クラブで演奏する一方で、いくつかのレーベルでレコードを出す。67年にパロスレーベルでレコーディングした一曲が、当時シカゴを襲った異常な吹雪のため、全国リリースが中止されるという常ならぬ事態が起きてしまう。その曲とは、本日取り上げた「Somebody Loan Me A Dime」である。(当時のタイトル表記は「Somebody (Loan Me A Dime)」。

この曲はそれでも、一部に愛好者を生み出す。その明らかな証が、2年後の69年、駆け出しの頃の白人シンガー、ボズ・スキャッグス(1944年オハイオ州生まれ)がアルバム「Boz Scaggs」でカバーバージョンをレコーディングしたことである。タイトルは「Loan Me A Dime」。

その時、作者のクレジットがスキャッグスとなっていたために法廷での係争にまで発展するという、余計なおまけまでついてしまったものの、この曲に強い魅力があることの証明ともなった(裁判はロビンスン側が勝訴)。

初のアルバム・レコーディングは1971年、セブンティセブンレーベルから。そして1974年、ロビンスンはアリゲーターレーベルで、この因縁の曲の再録音版を含むアルバムをリリースすることになる。7年ぶりのリベンジである。

再録音バージョンのメンバーは、ロビンスンのほかギターのマイティ・ジョー・ヤング、ピアノのビル・ハイド、ベースのコーネリアス・ボイソン、ドラムスのトニー・グッデン、そしてトランペットのエルマー・ブラウンをはじめとするブラスセクションだ。

曲調はミディアム・スローのブルース。ちょっとイレギュラーな転調を含むコード進行が特徴。

歌詞内容はごくシンプルで、読んで字の如し的なストレートなものだ。心変わりして自分から離れていこうとする恋人を引き留めるため、電話をしないといけない、どうか僕にダイム(10セント硬貨)を貸してくれないかという、悲痛な願いの歌である。

この歌詞が聴き手の心に刺さり、この曲、そしてアルバムはヒットとなった。日本でもポニー・キャニオンでアルバムが出た。これは、当時としてはかなり異例の、ブルースレコードのリリースだった。

そして、このアルバムや3年後にリリースされた「I Hear Some Blues Downstairs」がきっかけで、ロビンスンは日本でも人気が高まるようになる。70年代、わが国でレコードが最も売れたブルース・ミュージシャンは、実はロビンスンだったとも言われている。

ロビンスンの歌と演奏には、一聴して彼だとわかるものがある。やや高めで繊細な声による泣き節、チョーキングをあまり使わずにグリッサンドを多用し、フレーズにジャズィな雰囲気が濃厚なギター・プレイ、そして多くの曲に漂うメロウなムードがそれである。

ひとことでいえば、オトナのブルース。

若さ、快活さ、パワーよりも、熟練、都会的な洗練、落ち着きみたいなもので、聴き手を魅力するのである。

その後ファンの強いリクエストにより、日本公演が予定されていたが、事情により入国ビザが発給されず、公演は中止となってしまった。ようやく初来日公演が実現したのは、89年のことだった。

97年にも再来日の予定があったが、ロビンスンの体調不良により中止となった。よくよく日本との縁が薄い人である。

そして同97年、脳腫瘍の合併症により62歳でロビンスンはこの世を去っている。

今となっては、かつての人気はすっかり忘れ去られてしまったが、この「Somebody Loan Me A Dime」というアルバムが彼のベストな作品という事実にはゆるぎがない。

何度聴いても、その完成度の高いサウンドに、ブルース愛好家の心は躍るのである。

ロビンスンの哀感に満ちた歌声、そして魂を揺さぶるようなギター・プレイに耳を傾けてくれ。




音曲日誌「一日一曲」#411 シバ「夜汽車にのって」(キング/Bellwood)

2024-05-21 08:08:00 | Weblog
2024年5月21日(火)

#411 シバ「夜汽車にのって」(キング/Bellwood)





シバ、1972年8月リリースのオムニバス・ライブ・アルバム「春一番コンサート・ライブ!」からの一曲。シバ自身の作品。同年5月6日、大阪市天王寺公園野外音楽堂にて収録。

日本のフォーク・ブルース・シンガー、シバ(綴りはShivaらしい)は1949年8月生まれの現在74歳(出身地は不詳)。本名・三橋誠(みつはし・まこと)。

1969年から始まった、岐阜県中津川で開催された「全日本フォークジャンボリー」の第2回(70年8月)、第3回(71年8月)に出演して、その名前を知られるようになる。

72年、ファースト・アルバム「青い空の日」をURC(アングラ・レコード・クラブ)よりリリースする。

その一方、「武蔵野タンポポ団」というグループにも参加している。バンドというよりはメンバー不定のフォーク集団で、高田渡、シバ以外は流動的で、他に山本コウタロー、若林純夫らがいた。グループ名の由来は、シバが武蔵野の河原でタンポポを食べていたことによる。

シバはそのミュージシャン活動のかたわら、三橋乙椰(みつはし・おとや)というペンネームで漫画家としても活動しており、永島慎二のアシスタントをしていた時期もある。主に漫画誌「ガロ」で作品を発表、後に80年代以降、ブックマン社や青林堂などから作品集を出している。ファースト・アルバムのジャケット・イラストレーションも彼自身の手によるものだ。

フォークと漫画、言ってみれば70年代当時の若者によるアンダーグラウンド文化(サブカルチャー)をひとりで体現しているようなアーティストだったのだ、シバという人は。

その演奏スタイルは、基本アコースティック・ギターの弾き語り。それにハーモニカが加わることもある。

そのギタープレイは、ミシシッピ・ジョン・ハートやライトニン・ホプキンスといった、黒人フォーク&ブルース・ギタリストたちに強く影響を受けたフィンガーピッキング・スタイルである。

本日取り上げた一曲「夜汽車にのって」は、デビュー・アルバムにも収められたシバのオリジナル。

それを71年以来始まった、大阪のフォークイベント「春一番」で披露しているので、そちらのバージョンで聴いていただこう。

実はこの曲、筆者もギターを覚えたての72年秋、中学校の文化祭のステージで演ったことがある。当時の筆者は一緒に組んでくれるメンバーがいなかったため、まずはひとり弾き語りというスタイルをとるしかなく、そこで選んだのがこのシバの曲だったのだ。

この曲、実際に弾いてみると、なかなか難しい。フィンガーピッキングも結構高度なテクニックを使っているし、少し吐きぎみに歌うそのボーカルも、一見素朴そうに見えて決して簡単ではなかった。

結局、再現度は40パーセント以下だったが、まぁそこはギター1年目の中坊、チャレンジしただけでも良し、と考えるべきなのだろう。

この曲は、米国のブルースでもよく見られるタイプの歌詞、つまりある街にしばらく滞在したものの、いろいろヤバいトラブル(オンナか、金か?)が起きてしまい、そこにはいられなくなってしまった。荷物をまとめて、別の街に逃げていくしかねぇという、わりと紋切り型の内容だ。

でも、そのひなびた曲調により、あまり深刻さは感じさせない。夜汽車にひとり乗るという行動も、10代前半の子供から見ると、普段は出来ない魅力的な冒険にさえ見えた。

しょせんおいらは風来坊、風のようにどこからか来て、またどこかへ消えていくのさ、みたいな感じで、それがまた放浪生活やアンダーグラウンド文化に憧れる中坊には、えらく魅力的に感じられたのである、結局のところ。

シバの独特の高めの声質、少しクセのある歌い方は、とても万人向けとは言えないものの、一定の層にはグッとくるものがある。

決してメジャーにはならないが、少しずつ確実にファンを掴んでいく、そんな歌声だ。

同じく弾き語りを得意としたほぼ同世代のシンガー、加川良(1947-2017)も、この曲を気に入って翌73年リリースのライブ・アルバム「やぁ。」でカバーしている。こちらもなかなか味わい深い好演だ。

日本人としては珍しく、ごく自然にブルース感覚を体得し、表現したシンガーとして、シバは記憶されていいと思う。

シバは70代となった現在も、たまにライブ活動を行なっているということなので、本欄を読んで興味が湧いた方は、機会があればぜひ彼のパフォーマンスに触れてみてほしい。








音曲日誌「一日一曲」#410 クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル「I Heard It Through The Grapevine」(Fantasy)

2024-05-20 06:40:00 | Weblog
2024年5月20日(月)

#410 クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル「I Heard It Through The Grapevine」(Fantasy)



クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル、1970年7月リリースの5thアルバム「Cosmo’s Factory」からの一曲。ノーマン・ホイットフィールド、バレット・ストロングの作品。ジョン・フォガティによるプロデュース。

米国のロックバンド、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(以下CCR)は、サンフランシスコ出身の4人組。もともとは中学の同級生3人で始めたブルー・ベルベッツが母体となり、後にメンバー、ジョン・フォガティの兄、トムが加わって4人編成となった。68年にレコードデビュー。

セカンド・アルバム「Bayou Country」、シングル「Proud Mary」でブレイク、以後ヒットチャートの常連となる。72年に解散。

はじめてアルバムを買ったアーティストだったこともあり、CCRは筆者にとってもとりわけ思い入れの強いバンドだ。中でも「Cosmo’s Factory」は通しで何十回と聴いた最愛聴盤である。

今日取り上げた「I Heard It Through The Grapevine(邦題・悲しいうわさ)」は、11分5秒という、アルバム中最長尺のナンバーである。

この曲が初めて世に出たのは、日本ではあまり知られていないが、ソウルグループ、グラディス・ナイト&ザ・ピップス1967年リリースのシングルである。作者はホイットフィールド=ストロングというプロのソングライティング・チーム。全米2位の大ヒットとなった。

だが、本曲がより広く知られるようになったのは、翌68年リリースのマーヴィン・ゲイによるバージョンだろう(実はピップスより先にレコーディングしていたらしい)。そのシングルは全米1位、しかも7週連続1位となり、ゲイ最大のヒットとなった。

白人バンドとして初めて本曲をカバーしたのが、CCRということになる。当初、彼らはシングルとしてのリリースを望んでいたらしいが、あまりに長いこともありその希望は通らなかった。

しかし、バンド解散後の76年に、それは実現したのである。本曲のシングルは見事、全米43位となった。CCRの他のシングル・ヒットとは比べようもないが、こういう長いシブめの曲が、ちゃんとアピールしたのは嬉しいことだった。

聴くとすぐに分かると思うが、本曲はそのかなりの部分、半分以上を、ジョン・フォガティのギター・ソロが占めている。もちろん、ピップスやゲイのバージョンにはそういうソロはないので、これは完全にCCRならではのアレンジである。

歌から始まった後の、ギターソロ。これが前半のソロ。サビを歌った後に、再びソロ演奏に入る。ここからが後半のソロで、これがかなり長い。曲がフェイドアウトして終わるまで、ずっと続くのだから。

このギターソロが、実に「いい」のである。上手くもあるが、そのテクニックよりも注目すべきなのは、全体の構成力だと思う。

緩急、うねり、押し引き。これらが、見事に計算されて過不足なく配置されている。最高潮まで盛り上げた後のクールダウン、このあたりが実にうまい。

一見、偶発的なジャム・セッションみたいなスタイルを取りながらも、実は完璧に編曲されたものだということだ。

そういう意味では、クリームのライブ版「Crossroads」のギターソロに匹敵する、高い完成度だといえる。

そして、クラプトンとはまた違ったタイプの「うまさ」がそこに感じられる。

この一曲を聴いたことで、ジョン・フォガティは筆者にとって、一番のお気に入りギタリストとなった。

何回聴いてもまったく飽きることのない、至高のギターソロ。未聴のかた、一度しか聴いたことのないかたも、本曲をぜひじっくりと聴いてみてほしい。

フォガティの、とてつもない音楽的才能を、そこに発見できるはずだから。






音曲日誌「一日一曲」#409 ヒューバート・サムリン「Killimg Floor」(Blues Special)

2024-05-19 07:26:00 | Weblog
2024年5月19日(日)

#409 ヒューバート・サムリン「Killimg Floor」(Blues Special)


ヒューバート・サムリン、1994年リリースのライブ・アルバム「Made In Algentina 1993」からの一曲。チェスター・バーネット(ハウリン・ウルフ)の作品。アドリアン・フローレスによるプロデュース。

米国のブルースマン、ヒューバート・サムリンについては、何度かハウリン・ウルフを取り上げる時にふれたことはあるものの、本人のみでは一度もトピックにしたことがなかった。

筆者が最も敬愛するブルース・ギタリストなのに、なんたる失態だろう。罪滅ぼしに、今日はぜひ彼について語りたいとおもう。

ヒューバート・チャールズ・サムリンは1931年ミシシッピ州グリーンウッドに生まれ、アーカンソー州ヒューズで育つ。8歳でギターを買い与えられて弾き始める。

その後、有名ブルースマン、ハウリン・ウルフ(1910年生まれ)が巡業に来た時に、ジュークジョイントに紛れ込んでその演奏をこっそり聴いていたのが見つかり、それがウルフとの最初の出会いだったという逸話が残っている。

ウルフは1953年にそれまでのメンフィスからシカゴに本拠地を移した。その際、古い付き合いのギタリスト、ウィリー・ジョンスンが移住を拒んだので、代わりにシカゴでジョディ・ウィリアムズを雇う。翌年、サムリンがセカンド・ギタリストとして呼ばれる。ときにサムリン、22歳の出来事である。

ウィリアムズが55年にバンドを抜けてからは、メイン・ギタリストに昇格。以後、56年頃にマディ・ウォーターズのバンドに一時的に移籍した以外は、1976年にウルフが65歳で亡くなるまでの約22年間、サムリンは文字通りウルフの片腕として行動を共にすることになる。

ウルフの死後は、80年頃まで彼のバック・バンド(ウルフ・ギャング)のメンバー達と一緒に演奏を続けた。80年代にはブラック・トップ、ブラインド・ピッグといったレーベルで、ソロ・レコーディングを開始する。

ソロ活動の当初はギターのみ弾き、他のアーティストに歌を任せることが多かったが、次第に自分でも歌うようになる。プロシンガーのように技術的に上手い歌ではなかったが、独特のほのぼのとした味わいがあった。

本日取り上げた「Killing Floor」は、ソロ活動が軌道に乗ってきた93年頃、アルゼンチンのブルース・ミュージシャン達に呼ばれて、現地で共演コンサートを行った時の一曲。

この曲はいうまでもなく、サムリンの元ボス、ハウリン・ウルフの代表曲だ。オリジナルは64年にレコーディング、シングルリリースされている。

先日、カーティス・ナイトとジミ・ヘンドリックスの共演バージョンも取り上げた本曲は、多くのブルースマン、ロッカーによってカバーされ、スタンダードとなった。それをオリジナル・プレイヤーであるサムリンが、30年ぶりにライブ録音したわけである。

バックメンバーは全てアルゼンチンのブルース・ミュージシャンだ。プロデューサーでもあるドラマー、アドリアン・フローレスをはじめ、ギターのレオン・アルマラ、ベースのカチョ・ガラルドなどの5人。

アルゼンチンのブルース・シーンについては筆者はまるきり知らないが、この演奏のレベルを聴くにそれなりに盛んのようだ。少なくとも、米国本国のプレイヤーと遜色はない。

そんな異国のプレイヤー達にもすぐに溶け込んで、サムリンは伸び伸びと演奏、そしてリード・ボーカルも取っている。さすが、音楽は世界の共通言語である。

サムリンのギタープレイは、いわゆる三大ギタリスト、キース・リチャーズなど白人ロック・ミュージシャンにも愛好する者が多い。その理由はやはり、その「型にはまらない自由さ」にあると筆者は考える。

ブルースは、ともすれば型にはまりがちで、パターン化しやすい音楽だったが、そういう固定観念を見事に打ち破って、サムリン流ともいうべき過去のパターンにとらわれないフレーズを、インスピレーションの湧くがままに紡ぎ出したのがサムリンだった。

そんな自由さが、多くのプレイヤーを惹きつけてやまないのだ。

このライブ版のパフォーマンスでも、そんなサムリンらしさが存分にあらわれている。時にはちょっと不安定なところも見せるが、細かいミスは気にせず、勢いでグイグイと弾きまくるのがなんとも頼もしい。

サムリンならではの、ビビッドでトリッキーなフレージングに満ちた一曲。この彼のスリリングなプレイこそが、ロック・ギターの源流となったのだ。

そして、長身でスーツ・スタイルがビシッと決まる伊達男というのも、彼が多くのファンを持つ、もうひとつの理由だろう。

「ギターは自分の弾きたいように弾けばいい」。このことを自らのプレイにより教えてくれたヒューバート・サムリンは、筆者に取って最高の、そして永遠の師なのである。

音曲日誌「一日一曲」#408 レイ・チャールズ「Georgia On My Mind」(ABC-Paramount)

2024-05-18 07:59:00 | Weblog
2024年5月18日(土)

#408 レイ・チャールズ「Georgia On My Mind」(ABC-Paramount)



レイ・チャールズ、1960年リリースのシングル・ヒット曲。ホーギー・カーマイケル、スチュアート・ゴレルの作品。シド・フェレルによるプロデュース。同年のアルバム「The Genius Hits The Road」に収録。

米国のシンガー、レイ・チャールズについては「一枚」「一曲」でそれぞれ1回ずつ取り上げているが、まだまだ語るべきことがあると思うので、久しぶりにピックアップしてみたい。

チャールズについてざっと紹介しておこう。彼は1930年、ジョージア州オールバニにてレイ・チャールズ・ロビンスンとして生まれ、幼少期に盲目となった。

ピアノと歌をマスターして、レコードデビュー。50年代はアトランティック、60年代はABCレーベルでヒットを連発、黒人・白人を問わず数多くのリスナーを獲得して、米国の国民的シンガーのひとりとなった。2004年に73歳で亡くなっている。

そんな彼が1960年に放った特大級のヒットにして、彼を白人層にも著名シンガーにした曲が、本日取り上げた「Georgia On My Mind」である。

この曲はチャールズ版に先立つこと30年前の1930年に書かれている。作曲はスタンダード中のスタンダード、「Stardust」であまりにも有名なホーギー・カーマイケル(1899年インディアナ州生まれ)。作詞は彼のルームメイト、スチュアート・ゴレル(1901年同州生まれ)。

特にジョージア州出身ではないこのふたりが何故この曲を書いたのかについては、カーマイケルの姉妹のジョージア由来であるという説もあったが(ゴレルの発言より)、カーマイケル自身がその自伝で、サックス奏者のフランキー・トラムバウアー(1901年イリノイ州生まれ)からジョージア州をイメージした曲を作ってほしいと依頼があり、作ったのだと語っている。

カーマイケルは1930年にこの曲をシングルリリースしている。翌年には依頼したトラムバウワーが彼の楽団でレコーディングしてシングルリリース、ヒットとなっている。以後、多くのジャズ・アーティストによりカバーされていく。

その中で最大級のヒットとなったのが、レイ・チャールズ・バージョンである。全米1位を獲得し、全英でも24位となった。79年にはジョージア州がチャールズ版を公式の州歌に認定し、またグラミー賞の殿堂入りを2度(1993年と2014年)も果たしている。

まさに20世紀を代表するポピュラー・ソングのひとつとなった「Georgia On My Mind」であるが、その作りは、白人の作曲家が作っただけあって、いかにも万人ウケするタイプのバラードである。黒人音楽的な要素は、まったくといっていいほど、感じられない。

そういう典型的なポップ・バラードを、50年代にはゴリゴリのR&Bナンバーを歌っていたチャールズがカバーしたのは、当時としてはなかなかのミスマッチだったのではなかったろうか。

しかし、この意外な取り合わせが、見事成功する。

それまでの「Georgia On My Mind」とはひと味違う出来上がりとなったのは、いうまでもなく、チャールズのソウルフルな歌唱によるところが大きい。

過去の多くのシンガーはこの曲を、ジャズとして歌っていたが、チャールズはそのハスキー・ボイスでR&B、ソウルナンバーとして歌った。これが多くのリスナーの心に刺さったのだと思う。

楽曲というものは、メロディや歌詞は同じでも、歌い方ひとつでまるで違ったニュアンスをまとうようになる。

レイ・チャールズによって「Georgia On My Mind」は誕生の30年後に生まれ変わったのだと言える。

チャールズにとっては、生まれ故郷でもあるジョージア。郷里への深い想いを込めた、彼の渾身の歌唱によってはじめて、本曲は単なる「ご当地ソング」の域を越えて、公式州歌という輝かしい名誉を与えられたのだ。

そのしみじみとした味わいは、レコードリリース後60年以上経っても変わることはない。望郷の名曲として、永遠不滅に残ることだろう。








音曲日誌「一日一曲」#407 憂歌団「ヘビー・スモーカー」(SHOW BOAT)

2024-05-17 07:43:00 | Weblog
2024年5月17日(金)

#407 憂歌団「ヘビー・スモーカー」(SHOW BOAT)





憂歌団、1981年リリースのアルバム「夢・憂歌」からの一曲。尾関真の作品。有山淳司編曲。

日本のブルースバンド、憂歌団は1970年結成。当時大阪府立工芸高校の生徒だった木村充揮(秀勝)と内田勘太郎によるデュオとして始まった。高校卒業後、大阪阿倍野の喫茶店で定期的にライブ活動を行う。

74年にベースの花岡献治(憲ニ)、ドラムスの島田和夫が加わり、バンドスタイルとなる。

メジャーデビューは75年。トリオレコードのSHOW BOATレーベルからシングル「おそうじオバチャン」、続いてアルバム「憂歌団」をリリース。木村の強烈なダミ声、日本語の歌詞によるアコースティック・ブルースという独自のサウンドが話題となる。

以後、シングル、アルバムをコンスタントにリリース、ライブ活動を精力的に続け、マディ・ウォーターズら米国のブルースマンとも共演を重ねていく。

本日取り上げた「ヘビー・スモーカー」の収録された「夢・憂歌」は5枚目のスタジオ・アルバム。アレンジャーに五つの赤い風船、上田正樹とサウス・トゥ・サウスなどで活躍したシンガー/ギタリスト、有山じゅんじを迎えている。

憂歌団単体の演奏だけでなく、プラスアルファのアレンジが加わることで、サウンドに華やかさ、広がりが出て来た意欲作だ。

このアルバムの中で、「ヘビー・スモーカー」という、妙に歌詞が気になる曲があった。

内容はごくシンプルで、街のタバコ屋の看板娘が可愛くて思わず一目惚れ、彼女会いたさにさほど好きでもないタバコを毎日買いに行っており、いつのまにやらヘビー・スモーカーになっていた、というもの。

「あるある」ネタのごくたわいのない歌なのだが、ちょっとヤバいなと感じるのは、その男が単なる片思いという域を越えて、そのタバコ屋娘に相当執着しており、彼女について身辺調査まがいのことまでやらかしていることだ。

彼女にオトコがいるらしいことまで突き止めていて、「おいおい、そりゃほとんどストーカーだろ!」とツッコミを入れたくなるレベルなのだ。

レコード発表当初のいろいろとユルい昭和時代ならばともかく、コンプラにやたらうるさくなった現代ならば「勘違い乙」「ストーカー乙」「痛いヤツ」と揶揄されてもしょうがないほど、ヤバい内容である。

歌の作者は憂歌団のメンバーではなく、尾関真とある。調べてみるとこの人は、憂歌団のデビュー・アルバム以来、彼らに多くの楽曲を提供して来た人だった。

ざっと挙げると、「ジェリー・ロール・ベイカー・ブルース」「ひとり暮らし」「田舎のメリー」「失恋ブルース」「金持ちのオッサン」「シカゴ・バウンド」「俺の村では俺も人気者」、こんな具合だ。みなさんも聴いたことのある歌が、何曲かはあると思う。

尾関真氏については、あまり詳しいことはわからないのだが、70年代より出身地の名古屋を中心に「尾関ブラザーズ」という、弟の隆氏とのブルース・ユニットで活動をしていたことまでは分かった。

兄が曲を作って歌い、弟がギターでバッキングする、そんなスタイルだった。しかし、弟が若くして亡くなったことにより、残念ながらユニットは終了してしまったという。兄はその後、ラテンバンドに参加したそうだ。

そんな草の根的なブルース・アーティストの曲を積極的にカバーしたのも、憂歌団のユニークさの表れと言えるんじゃないかな。

ただの片思いソングなら、ありきたりなフォークだが、そこに「そのうちきっと/オレのものにする」あるいは「オレのもんだぜ」などといった勝手な思い込み、ストーカー要素が濃厚に加わる事で、この曲はヤバいほどブルースだと感じさせる歌になった。

彼らのお馴染みのナンバー「パチンコ」の一節を内田のギターで再演するなど、クスリとさせるポイントもあって、なかなか楽しい一曲。短いピアノ・ソロもナイスだ。

果たしてこの歌の主人公は、タバコ屋娘を首尾よくゲット出来たのだろうか?

おそらく、名曲「パチンコ」同様、ロクな結末にはならなかったはずだ。

が、とりあえず「あの子を落とす」という意気込みだけは十分なのが、いい。

リスナーの大半を占めるであろう非モテオトコたちの共感を呼ぶ、チャーミングなナンバー。

この曲を口ずさみつつ、世の男は(推定)負け戦におもむくのである。イェイ!