NEST OF BLUESMANIA

ミュージシャンMACが書く音楽ブログ「NEST OF BLUESMANIA」です。

音曲日誌「一日一曲」#360 ジョン・リトルジョン「Dream」(Arhoolie)

2024-03-31 07:44:00 | Weblog
2024年3月31日(日)

#360 ジョン・リトルジョン「Dream」(Arhoolie)






ジョン・リトルジョン、69年リリースのファースト・アルバム「Chicago Blues Stars」からの一曲。リトルジョン自身の作品。クリス・ストラクヴィッツによるプロデュース。

米国の黒人ブルースマン、ジョン(またはジョニー)・リトルジョンことジョン・ウェズリー・ファンチェスは1931年ミシシッピ州レイク生まれ。父親の友人、ヘンリー・マーティンからギターの手ほどきを受ける。

彼は10代半ばに家を出て各所を旅して回り、ミシシッピ州ジャクスンに移住。20代ではさらにシカゴに近いインディアナ州ゲイリーに住み、演奏活動を続ける。

リトルジョンは有名なグループ、ジャクスン5のファミリーとも知り合い、彼らのリハーサル・バンドをつとめたこともあるという。

30代、シカゴのクラブで定期的に演奏を続けるうちに、レコーディングの機会を掴む。66年にマーガレットレーベル、テレルレーベル、68年にTSDレーベル、ジョリエットレーベルといった小レーベルでシングルをリリースしている。本日取り上げた「Dream」も、元々はジョリエットでシングル・リリースした曲である。

ようやくブルースマンとしての知名度を上げたところで、カリフォルニアに本拠地を置く新興レーベル、アーフリーと契約、一枚のアルバムをレコーディングすることになる。それが今では名盤の誉れ高い「Chicago Blues Stars」である。

参加ミュージシャンはボーカル、ギターのリトルジョンのほか、ギターのモンロー・ジョーンズ・ジュニア、ベースのアルヴィン・ニコルズ、ドラムスのブッカー・シドグレイヴ、テナー・サックスのロバート・ピューリアム、ウィリー・ヤングである。

プロデューサーはアーフリーの創設者クリス・ストラクヴィッツ。そしてウィリー・ディクスンも加わっており、ディクスン作のナンバーも一曲やっている。

「Dream」はリトルジョン自作のスロー・ブルース・ナンバーだが、一聴して感じられるのは、63年に45歳の若さで亡くなったエルモア・ジェイムズの強い影響だろう。

その粘っこいスライド・ギター・プレイといい、エモーショナルなボーカルといい、曲の雰囲気といい、エルモア臭がぷんぷんとしている。

エルモアの作品のカバー・バージョンだと聞かされても、そのまま信じてしまうくらいの似ぐあいである。正直、筆者はこの曲を初めて聴いた時にそう思っていた。

でも、リトルジョンならではの個性もある。その歌い口は、エルモアほどのアク、妍はなく、ずっと聴きやすいまろやかなものだ。ギター兼業のブルースマンとしては、なかなかうまい歌い手だと思う。

スライドは、エルモアのようなアコギにピックアップという組み合わせでなく、レスポールというソリッドギターを使っているので、響きにも微妙な違いがある。わりとクールなエルモアよりはオーバードライブ感があり、より今日的といいますか、ロック・リスナーにも違和感なく受け入れられる音だと思う。

またそのサウンドは、伝統的なシカゴ・ブルースを踏襲しつつも、時代の推移もあってBBやアルバート・キングのようなモダンな要素も感じられる。60年代末ならではの、アップデートされたブルースなのだ。アルバムを通して聴いてみると、そのことが感じられる。

これはリトルジョンが20年近くにわたって、シカゴとその周辺のブルース界でバンド活動を続けてきた経験から、自然と蓄積されたものなのだろうなと思う。

そのライブ・ステージでは、自作以外にも彼に影響を与えたミュージシャン、エルモアをはじめとしてジミー・ロジャーズ、エディ・ボイド、ローウェル・フルスンといったシカゴ・ブルースマンの曲をカバーしていたリトルジョン。

キング・オブ・スライド・ギター、エルモア・ジェイムズの後継者と呼ぶべきジョン・リトルジョンの、デビュー・アルバムながら十分に成熟したサウンドを、じっくりと味わってほしい。

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音曲日誌「一日一曲」#359 ステイタス・クォー「Roll Over Lay Down」(Vertigo)

2024-03-30 07:37:00 | Weblog
2024年3月30日(土)

#359 ステイタス・クォー「Roll Over Lay Down」(Vertigo)






ステイタス・クォー、73年9月リリースのアルバム「Hellp!」からの一曲。また、75年5月リリースのシングル・ヒット曲でもある。バンドメンバーのフランク・ロッシ、ボブ・ヤング、アラン・ランカスター、リック・パーフィット、ジョン・コグランの作品。彼ら自身によるプロデュース。

英国のロック・バンド、ステイタス・クォーは67年にそのバンド名(「現状維持」という意味の英語)となるまではスコーピオンズ、スペクターズ、トラフィック・ジャムという名で、ロンドンを拠点として活動していた。バンドの中心は、創設者のフランシス・ロッシ(ボーカル、リードギター)。

当初は時代を反映したサイケデリック・ロックだったが、70年リリースのサード・アルバム「Ma Kelly’s Greasy Spoon」からハード・ブギ路線に変更して、現在も続くサウンドとなる。

この路線で人気を年々拡大し、72年の「Piledriver」が全英5位にチャートイン、続く73年リリースの「Hello!」でついに全英1位を獲得、人気を不動のものとする。

そのアルバムのオープニング・ナンバーが、本日取り上げた「Roll Over Lay Down」だ。当初シングル・カットこそされなかったが、ライブの人気定番曲となり、のちにライブEP「Quo Live」が75年にリリースされた時にA面曲となり、アルバム「On The Level」の再リリース時にボーナス・トラックとして収録された。

その曲調はとてもシンプルだ。ほぼワンコード、メロディも繰り返しのパターン、ひたすらブギのステディなビートで突き進むナンバーだ。ロッシのギター・ソロも、あえてヤマ場を作らず、ずっと同じムードで弾きまくる。

この無限の反復が、聴く者に心地よいトランス状態を引き起こすのである。スタジオ・アルバム版では5分43秒の長尺だが、コンサートではさらに長くなることが多い。観客も、彼ら同様に身体を揺らしヘッド・バンギングで陶酔しているファンが多い。

今ではYoutubeでステイタス・クォーの新旧のライブを沢山観ることが出来るが、それらを観ていて感じるのは、とにかく野外コンサートの動員数が凄いのである。老若男女、皆彼らのライブを観に集まって来る。「国民的ロック・バンド」などとも呼ばれる所以である。

ところが不思議なもので、本国では人気絶大な彼らも、同じ英語圏であるのに米国での人気は極めて低い。米国では現在に至るまで、シングルもアルバムもヒットを出すことがなかった。なぜなんだろうね。

彼らは77年にはジョン・フォガティの「Rockin’ All Over The World」をカバーしたシングルで全英3位のスマッシュ・ヒットを出した。この曲あたりならば、米国のリスナーにも十分アピールしたと思うのだが、残念ながらチャートインは果たせなかった。

あまりにシンプルすぎるサウンドで、カントリーとかR&Bなどの要素をほとんど含んでいないがゆえに、米国のリスナーにはまるでとっかかりが無いということなのだろうか。日本人の筆者は、ただただ推測してみるばかりである。誰か詳しい人、うまく解明してくれないかな。

ともあれ、彼らの独自のグルーヴは、いったんハマるとなかなか抜けられない、麻薬的とも言える魅力がある。ライブの最人気曲「Roll Over Lay Down」は、その代表的なサンプルだろう。

ヘッド・バンギングするなら、断然この曲。まだ聴いたことのない人も、一度お試しあれ。

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音曲日誌「一日一曲」#358 ザ・フー「Heat Wave」(Decca)

2024-03-29 08:27:00 | Weblog
2024年3月29日(金)

#358 ザ・フー「Heat Wave」(Decca)







ザ・フー、66年12月リリースのセカンド・アルバム「A Quick One」からの一曲。邦題は「恋はヒートウェーヴ」。エディ&ブライアン・ホーランド、ラモント・ドジャーの作品。キット・ランバートによるプロデュース。

英国のロック・バンド、ザ・フー(以下フー)については「一枚」「一曲」の両方で何度となく取り上げているが、ことこのバンドについては、いくら書いても書き足りないという気がする。だから、まだまだ書いていくつもりだ(笑)。

フーはザ・ディトアーズという前身のバンドが61年に結成され、ハイ・ナンバーズと改名して64年にレコード・デビューしたが不発、バンド名を再度変えて65年についにブレイク、以降解散や活動休止を挟みながら、現在に至るまで活動しているトップ・バンドだ。ビートルズ、ストーンズと並ぶ英国の三大バンドと呼ばれているものの、わが国での人気は昔からパッとしない。

これは全盛期に来日してライブを披露しなかった(出来なかったというべきか)ことが大いに災いしているのだろう。返す返すも残念である。

それはともかく、67年4月にモンタレー・ポップ・フェスティバルに出演、その派手なパフォーマンスから「ギターを壊したり、ドラムスを転がしたりする、ライブが過激でヤバいバンド」という評判が広まる前のフーは、意外と大人しい、それこそアイドル風味さえ感じさせるポップ・バンドであった。そのことがよく分かる一曲が、本日取り上げた「Heat Wave」である。

もともとこの曲は、米国の黒人女性コーラスグループ、マーサ&ザ・ヴァンデラスが63年にシングル・ヒットさせた、いわゆるモータウン・サウンドのナンバー。全米4位の大ヒットとなっている。フーはこれを3年後にカバー、セカンド・アルバムに収録したのだ。

ここで、67年にドイツのテレビ番組「ビートクラブ」に出演した時のフーを観ていただこう。

ボーカルのロジャー・ダルトリーは、まだトレードマークの金髪カーリーにする前で、大人しめな髪型。ドラムスのキース・ムーンも、まだその変人ぶりが広く知られるようになる前で、妙に初々しく、バンドメンバーの中でも一番アイドルっぽい。

メンバー全員によるコーラスが、実にフレッシュ。リードボーカルの実力で聴かせるだけでなく、ハーモニーも売りにしていたフーならではの出来映えである。

シングルでリリースしたわけでもないのにこの曲をテレビで歌ったのは、やはりドイツでも以前にヒットしてよく知られた曲で、視聴者にウケそうだったからということなのだろう。

当時はフーも、他のアーティストのカバーをわりと抵抗なくやっている。いい例が、ストーンズの「The Last Time」のカバーだろう。本来は女性ボーカル用の曲でも、ライバルバンドの曲でもウケるならばやる。いい意味での節操の無さが、なんとも微笑ましい。

アルバム「A Quick One」はそういった普通のポップ・ソング系のラインナップが中心であったものの、最後にタイトル・チューンでもある「A Quick One, While He’s Away」という9分あまりのミニ・オペラ曲を収めている。

フーのある意味出世作であるロック・オペラ・アルバム「Tommy」(69年リリース)の先駆けとなったナンバーだ。すでに彼らは、従来の細切れの、ポップ・ロック・チューンからの脱皮を試み始めていたのだな。

単なるポップ・ヒット・メーカーに終わらず、常に新しいものをクリエートしていったバンド、ザ・フー。

後のハード・ロック・スタイルへのシフトはまだ予感出来ないモッズ時代のザ・フーだが、演奏力、歌唱力の高さはすでにトップ・レベルだったということがよく分かる一曲。たった3分でも、聴くものの耳をとらえて離さない。ぜひ、チェックしてみて。

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音曲日誌「一日一曲」#357 ルリー・ベル「Everybody Wants To Win(Nobody Wants A Loser)」(JSP)

2024-03-28 13:28:00 | Weblog
2024年3月28日(木)

#357 ルリー・ベル「Everybody Wants To Win(Nobody Wants A Loser)」(JSP)








ルリー・ベル、1997年リリースのアルバム「Young Man’s Blues:The Best Of The JSP Sessions 1989-90」からの一曲。サン・シールズの作品。

黒人ブルースマン、ルリー・ベルは、1958年イリノイ州シカゴ生まれ。父親はマディ・ウォーターズをはじめとする数々のビッグ・ネーム・ブルースマンと共演してきた有名なブルース・ハーピスト、キャリー・ベル(1936年生まれ)。

いってみれば、ジミー・D・レーン、エディ・テイラー・ジュニアなどと同様、ジュニア(二世)世代のブルースマンのひとりである。

当然のように幼少期より父親や、その仲間たちのブルースに浸って育ち、6歳でギターを弾き始める。10代の頃から父キャリーをはじめ、エディ・クリアウォーター、ビッグ・ウォルター・ホートン、エディ・テイラーらと共演。

70年代にはココ・テイラーのバックをつとめた後、77年に父との共演盤「Heartaches and Pain」でレコード・デビュー。そしてハープのビリー・ブランチらと共にザ・サンズ・オブ・ブルース(SOB)を結成して、その名がよく知られるようになる。

しばらくバンドでのレコーディングが続いたが、89年にJSPレーベルよりついにソロ・デビュー。以来、デルマークレーベルを中心に、マイペースでアルバムをリリースしている。

本日取り上げた一曲は、ベルのファースト・ソロ・アルバム「Everybody Wants To Win」(89年)のタイトル・チューンとなったナンバー。

この曲は1942年生まれの先輩ブルースマン、サン・シールズ(本名・フランク・シールズ)が1980年にアリゲーターレーベルよりリリースしたアルバム「Chicago Fire」のラストに収められたナンバーである。

曲調は典型的なボックス・シャッフルというやつで、とても覚えやすい。ベルはソロデビュー前からこの曲を愛好して、よく演奏していたのであろう。アルバムの一番最初に置き、アルバムタイトルにもしていることから、それが伺える。

そして、この曲には、別テイクが存在しており、それが本日取り上げた、97年のアルバム「Young Man’s Blues:The Best Of The JSP Sessions 1989-90」に収められたバージョンである。

このアルバムは副題が示すように、89年から90年にかけてJSPで行ったレコーディング・セッションの中からの抜粋。その中で「Everybody Wants To Win」についてはあえて既発表のファースト・テイクではなく、別テイクを選んだのだ。

別テイクはミドル・テンポのファースト・テイクより、明らかにテンポが速い。こうすることで、この曲のカッコよさをさらに引き出せているように筆者は感じるのだが、いかがだろうか。

低めだがよく通るボーカル、そしてややクセの強い、突っかかり気味のシャープなギター・プレイ。それらがいずれもベルの個性となって、われわれリスナーの耳を魅力する。

そのギターはテクニカルで非常にスピーディにもかかわらず、昔ながらの泥臭いシカゴ・ブルースの伝統を感じさせてやまない。

80年代以降、多くの黒人ブルース・ギタリストが白人ロックを意識して、音色もフレーズもロック寄りに変化していった(バディ・ガイはその代表例だろう)のに対して、守旧派ともいうべきルリー・ベルは、昔ながらのクリーン・トーンと、クセの強いフレーズを貫いている。

今年66歳になるルリー・ベル。さすがに近年のライブは椅子に座って演奏することが多いが、昨年10月のニューオリンズのフェスティバルのように、元気のいい時はしっかり立って演奏することもある。そして彼がステージに登場するだけで、他のミュージシャンをすべて圧倒するような存在感がある。そのステージングは、ベルの若い頃は相当ヤンチャだったんだろうなと思わせる凄みがある。

生きているレジェンド、ルリー・ベルのライブを、今後日本で観ることは、たぶん叶わぬ夢なのだろうが、今はYoutubeがあるので、わざわざ渡米せずとも最新のライブを観ることが出来る。まことにありがたい時代である。

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音曲日誌「一日一曲」#356 パイロット「Magic」(EMI)

2024-03-27 07:56:00 | Weblog
2024年3月27日(水)

#356 パイロット「Magic」(EMI)






パイロット、74年9月リリースのシングル・ヒット曲。バンドメンバーのデイヴィッド・ペイトンとビリー・ライアルの作品。アラン・パースンズによるプロデュース。

スコットランドのロック・バンド、パイロットは73年エディンバラにて結成。ベースのペイトンとキーボードのライアルのふたりはもともと、メジャー・ブレイク前のベイ・シティ・ローラーズのメンバーだった。

彼らが再会し、ギターのイアン・バーンスン、ドラムスのスチュアート・トッシュが加わることで、パイロットが始まった。ただし、当初は契約の関係でバーンスンはサポート・ミュージシャン扱いであり、3人編成バンドとしてデビューした。その後、翌年に正式メンバーとなっている。

デビュー・アルバム「From the Album of the Same Name」(米国では「Pilot」)は74年10月にリリースされた。この中から先行リリースされたシングル「Just a Smile」が全英31位、全豪31位の小ヒット。

そして第2弾、同9月に英国でリリースされた「Magic」がとんでもないヒットになった。

全英で11位、全豪で12位、カナダで1位、そして全米では、なんと5位!

米国では翌年の4月リリースだったので、だいぶんタイムラグがあったものの、全世界的なヒットとなったのである。

これにより、無名のバンド、パイロットはベイ・シティ・ローラーズに続く、スコティッシュ・ロックの旗手となった。

続いて75年1月に英米でリリースしたシングル「January」は、初めて全英1位を獲得した。全米では87位止まりで、米国ではその後4月にリリースした「Magic」でついにブレイクしたかたちである。

本日はパイロットが当時出演した、オランダのテレビ番組でのパフォーマンスを観ていただこう。すぐに分かると思うが、この曲での主役は明らかにペイトンである。

堂々とリード・ボーカルを取り、しっかりカメラ目線で視聴者に微笑みかけている。実はすでに結婚していたとはいえ、完全にアイドルスター的な扱いである。さすが、元ローラーズ・メンバー(笑)。

ともあれ、この曲はポップ・チューンとしては、ベストな出来映えだなと感じさせる。キャッチーなメロディラインと、それを最大限に活かすペイトンの伸びやかな歌声、そしてライアル、トッシュたちの爽やかこの上ないコーラス。バーンスンの流れるようなギター・フレーズも、実にキャッチーだ。

まさに、ビートルズが完成させたコーラス・ポップの再来といえよう。ある意味、ベイ・シティ・ローラーズ以上に、ビートルズのラインをきちんと継承している。

しかし、残念ながらパイロットは「Magic」の大ヒットに続く大当たりを、その後まったく出せなかった。77年までコンスタントにシングルをリリース、アルバムも4枚出したものの、セカンド・アルバム「Second Flight」がかろうじて48位に入ったぐらいであった。

プロの音楽界は、まことに無情な世界だ。ヒットというものは滅多に出ない。たとえ幸運にもビッグ・ヒットを出せたとしても、それと同レベルのヒット曲を出し続けていかない限り、すぐにリスナーたちから忘れ去られてしまう。

それが、移り気なティーンエージャーが主な対象であるポップ・ミュージックならば、なおさらである。

70年代にはポスト・ビートルズを狙って、彼らをはじめとする無数のポップ・ロック・バンドが乱立したが、その中で現在もわれわれリスナーの記憶にしっかりと残っているバンド、ヒット曲はごく稀である。パイロットの「Magic」はその、数少ない一例であると断言できる。

70年代半ばに生まれた「神曲」。ポップ界に突然登場した、笑顔の爽やかな飛行士たちの生み出す、サウンド・マジックを楽しんでくれ。

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音曲日誌「一日一曲」#355 トーマス・ドルビー「Hyperactive!」(EMI)

2024-03-26 08:39:00 | Weblog
2024年3月26日(火)

#355 トーマス・ドルビー「Hyperactive!」(EMI)









トーマス・ドルビー、84年1月リリースのシングル・ヒット曲。ドルビー自身の作品。セルフ・プロデュース。

英国のミュージシャン、トーマス・ドルビーは58年ロンドン生まれ。本名・トーマス・モーガン・ロバートスン。父親マーティンは考古学者で、ロンドン大、オックスフォード大の教授。その影響からか、彼の作品にはオリエンタル、エスニックな音楽への指向が感じられる。

芸名のドルビーは、ノイズ・リダクション・システムで知られる「ドルビー・ラボラトリーズ」から取られている。いかにも録音オタクな彼に相応しい名前だ。また、当時人気のシンガー、トム・ロビンスンとの混同を避ける目的もあったという。

数枚のシングル・リリースを経て、82年5月、デビュー・アルバム「The Golden Age of Wireless」を発表。同10月リリースのシングル「She Blinded Me With Science(邦題・彼女はサイエンス)」が米国・カナダで爆発的な大ヒット(全米5位、カナダ1位)となる。これによりドルビーは、瞬く間に人気アーティストとなった。

ドルビーの場合、80年代ということもあり、デビュー当初よりミュージック・ビデオ(MV)を中心に据えてのヴィジュアル展開、イメージ戦略を積極的に取っており、これが大いに功を奏したと言える。

最初のヒット曲「She Blinded Me With Science」は、まさにその戦略による大勝利。当時は日本でもカフェバー(今や死語)のビデオ・モニターに、マイケル・ジャクスンなどと並んで、よくこの曲のMVが流れていたのを思い出す。

インターネットもまだなく、もちろんYoutubeなどの動画サイトもなかった時代において、MVという映像があるとないとでは、ヒットに雲泥の差がついた時代だったのである。

本日取り上げた「Hyperactive!(邦題では「ハイパー・アクティヴ!!」とビックリマークがふたつ付いていた)」も、凝った演出のMVが制作されて、大いに話題を呼んだものだ。ぜひ、その映像を観ていただこう。

出演している男性は、もちろんドルビー本人。彼がボンゴ、トロンボーン、フルートなどいくつもの楽器を演奏してみたり、腹話術、奇術めいたことをしておどけてみたりと、短い時間にさまざまな演出が凝らされている。ノイローゼか何かにかかっていると思われるドルビーを診察する医者役の爺さん俳優も、なかなかいい味を出しているね。

84年2月にリリースされたセカンド・アルバム「The Flat Earth(地平球)」の先行シングル。アップテンポのダンス・ナンバー。女声ボーカルは、アデル・ベルテイ。

MVだけでなく、そのレコード・ジャケット写真もまた面白い。髪の毛を逆立て、目を剥いてバイオリンを弾くドルビーには、ホント、笑ってしまう。

ドルビー自身の発言によると、この曲、82年に一度会ったことのあるマイケル・ジャクスンが歌うことを想定して作ったのだそうな。まぁ、作り話かもしれんがね。で、デモテープを送ったものの、マイケルからは何の反応もなかったので、自ら歌うことに決めたのだという。

そう言われてみると、バック・ボーカルのアデルの高いキーは、マイケルの歌声にちょうど合っているようにも聴こえてきて、実に興味深い。

自らこの曲をリリースした結果、米国では全米62位(ダンス/ディスコでは37位)といまいち低位だったものの、全英では17位とそこそこヒットし、どちらかといえばセールス的には米国先行型だった彼も、ようやく本国でも人気が出てくるきっかけとなった。

ドルビーの生み出したサウンドは70年代以降、クラフトワークやYMOなどによって台頭してきたいわゆる「テクノ」をさらに進化させて、多様なワールド・ミュージックともシンクロした、まったく新しいタイプのポップ・ミュージックだったと言える。

ファンキーでダンサブルでありながら、従来の予定調和的なコード進行、リズムパターンにとらわれない変幻自在な曲作りは、まさに天才の所業だと思う。

その後のドルビーの活躍ぶりまで書く余裕は今回はないが、この曲は彼の物凄い才能の、ほんの片鱗に過ぎないので、ぜひ後の作品群もチェックしてみて欲しい。

ありとあらゆる音の可能性を追求してやまないマッド・プロフェッサー、トーマス・ドルビー。サイエンスとミュージックの融合を成し遂げた、実に稀有な才能である。

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音曲日誌「一日一曲」#354 B・B・キング「The Thrill Is Gone」(Bluesway)

2024-03-25 07:27:00 | Weblog
2024年3月25日(月)

#354 B・B・キング「The Thrill Is Gone」(Bluesway)






B・B・キング、69年12月リリースのシングル・ヒット曲。リック・ダーネル、ロイ・ホーキンスの作品。ビル・シムジクによるプロデュース。アルバム「Completely Well」{69年)に収録。

B・B・キング(以下BB)は、1925年に生まれ、2015年に89歳で亡くなっている。いうまでもなく、米国ブルース界の最頂点に君臨し続けた、文字通りの「王」である。

そんなBBがあまたレコーディングしたシングル曲の中でも、最も売れた曲がこの「The Thrill Is Gone」である。全米チャートで自身最高の15位を獲得、R&Bチャートでも3位を記録した。44歳、ブルースマンとして一番脂の乗った年齢にして得た栄誉である。

この最重要曲について、これまでは正面きって取り上げて来なかったので、彼の死から10年近く過ぎた今、じっくりと研究してみたい。

BBは71年3月の第13回グラミー賞で、最優秀男性R&Bボーカル・パフォーマンス賞を受賞している。これはBB初のグラミー受賞である。単に曲が大ヒットしただけではなく、曲や歌唱の素晴らしさが、世間から正当に評価されたのである。後に88年、BBはグラミーの殿堂入りも果たしている。

BBのそこまでの道のりは、実に長かった。ライリー・B・キングとしてミシシッピ州の片田舎、イッタベーナの小作人の家庭に生まれ、幼少時は労働の傍らギターを弾くようになる。

10代の末にテネシー州メンフィスに出て、本格的にプロのミュージシャンを目指すようになる。その地のラジオ局WDIAでDJを担当し、その時ついたニックネーム「Beal Street Blues Boy」がその後「Blues Boy」となり、さらに「BB」と短縮されたことで、彼の芸名が決まったというのは、あまりにも有名なエピソードだ。

5、6年ほどでチャンスをつかみ、20代半ばの49年にナッシュビルのブレット・レーベルで初レコーディング。

その後契約したモダン・レーベルからリリースした51年のシングル「3 O’clock Blues」がR&Bチャート1位のスマッシュ・ヒット。これにより、BBは一躍人気シンガーとしての道を歩むこととなる。

64年には「Rock Me Baby」をヒットさせる。これは白人ロック・ミュージシャンにも数多くカバーされて、BBの代表曲のひとつとなった。65年にはライブ・アルバム「Live at the Regal」がR&Bチャート6位のヒット。

そして、この「The Thrill Is Gone」の大ヒットで、米国での人気のみならず、全世界的にも認められたトップ・アーティストになったのである。

同時期にリリースされたアルバム「Completely Well」も全米38位となり、BB初の全米トップ40アルバムとなった(R&Bチャートでは5位)。

「The Thrill Is Gone」はもともと、作曲者のブルース・シンガー、ロイ・ホーキンス(1903年生まれ)による51年リリースのシングルがオリジナルで、R&Bチャートで6位のヒットとなった。

このマイナー・スロー・ブルースを18年ぶりにカバーしたのが、BBというわけである。

BBバージョンの大きな特徴といえば、バックにバンド演奏だけでなく、ストリングスをも加えていることである。これはプロデューサーのビル・シムジクのアイデアによるものだ。

ストリングス、そしてエレクトリック・ピアノの響きを前面に押し出すことで、それまでのブルース・レコードにはない、モダンで洗練された味わいを出すことに見事成功している。

また、その悲しげな曲調もBBの「怒り節」とも呼ばれる独特の歌い口に、完璧にフィットしていると思う。高音を強調した、泣きのスクウィーズ・ギターも、また然り。

古臭いものと思われがちなブルースを現代的にアップデートしたサウンドあってこそ、この大ヒットは生まれたのだと思う。

歌詞もただ男女の惚れたはれたみたいな、ありきたりのパターンにとどまらず、恋の終わりのやるせなさ、うら淋しさを語るとともに、ふたりの関係が終わることで、ようやく心の自由を得たという、少し皮肉な感情まで巧みに表現している。これはなかなか秀逸な歌詞だと思うね。

ひと筋縄ではいかない失恋ソングとして、「The Thrill Is Gone」は永遠のブルース・スタンダードになることだろう。

BBの数多くのライブ・アルバムでのパフォーマンス、あるいはアルバム「Deuces Wild」(97年)でのトレーシー・チャップマンとのデュエットなど、何度もレコーディングされた曲ではあるが、やはりこの最初のシングル版が一番の出来だと思う。ぜひ、55年前の名曲、名演を改めてチェックしてみてくれ。

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音曲日誌「一日一曲」#353 ジ・アニマルズ「Inside Looking Out」(Decca)

2024-03-24 08:08:00 | Weblog
2024年3月24日(日)

#353 ジ・アニマルズ「Inside Looking Out」(Decca)








ジ・アニマルズ、66年2月リリースのシングル・ヒット曲。ジョン&アラン・ロマックス、エリック・バードン、チャス・チャンドラーの作品。トム・ウィルスンによるプロデュース。全英12位、全米34位。同年リリースのアルバム「Animalization」に収録。

英国のロック・バンド、アニマルズは63年ニューカッスル・アポン・タインにて結成。米国のブルース、R&Bを主なレパートリーとする。64年3月、シングル「Baby Let Me Take You Home」でデビュー、9月にファースト・アルバム「The Animals」をリリース。

バンド名は有名なバンド・リーダー、グレアム・ボンドが名付け親という。彼らのルックス、雰囲気から付けたらしい。

同年6月リリースのシングル「The House of the Rising Sun(邦題・朝日のあたる家)」が大ブレイク。米国のフォーク・ソングを黒いフィーリングでアレンジしたこの曲は、彼らの代名詞ともなり、日本でもヒットする。

以降、「We Gotta Get out of This Place(邦題・朝日のない街)」「Don’t Let Me Be Misunderstood(邦題・悲しき願い)」といった曲を立て続けにヒットさせ、トップ・グループに躍り出る。

しかし、好調は意外と長く続かず、66年にバンド・メンバーが3人も脱退して、一時解散状態に陥ってしまう。

その後、本拠地を米国サンフランシスコに移して「エリック・バードン&ジ・アニマルズ」という新バンド名で再開した。

本日取り上げた「Inside Looking Out」は、66年初頭、まだオリジナル・メンバーの5人で活動していた時期の作品だ。

作曲者のクレジットに、民族音楽学者のロマックス父子の名前が連なっているのは、この曲が彼らにより、もともとフォーク・ソングであったものが収集されたからである。そして息子のアランが自ら演奏したアルバム「Popular Songbook」により広く知られることとなる。

それをバンド・メンバーのバードンとチャンドラーがさらに自分達流に解釈、アレンジした成果が、本曲なのである。

とはいえ、パッと聴いただけでは、この曲が民間伝承のものだったとは、まず分からないよね。

筆者は(たぶん読者の皆さんも大半そうだと思うが)、この曲をまずグランド・ファンク・レイルロードのライブ盤で聴いて初めて知ったクチなのだが、当時から「オリジナルはアニマルズ」という情報は掴んでいたものの、もともとフォーク・ブルースであったとは後年になるまで知らなかった。

日本では「孤独の叫び」と名付けられたアニマルズ版は、今聴いてみても、実にヒップでイカしたビート・ナンバーだ。後のグランド・ファンクの、延々と続くライブ演奏も悪くはないのだが、筆者はオリジナルのきっちりコンパクトにまとまったバージョンの方に、どうしても軍配を挙げてしまうなぁ。

シンプルで隙のない、タイトなサウンド、パワフルなボーカルとコーラス。ギター・ソロに頼らずとも、圧倒的な迫力でリスナーのハートを揺さぶってやまないのである。

エド・サリバン・ショーに出演した時の映像も残っているので、そちらもご覧いただこう。当て振りではなく、ちゃんと生演奏をしていると思われるのだが、これが実にイカしている。「アニマルズ、けっこうやるじゃん!」と唸ってしまうパフォーマンスだ。

みてくれも演奏も泥臭く、華やかさには欠けるが、ホンモノの実力を持ったバンド、それがアニマルズだ。単なる黒人音楽の模倣から一歩進んで、自分達のものとして消化したその卓越したセンスを、この曲に嗅ぎ取って欲しい。

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音曲日誌「一日一曲」#352 ジェリー・リー・ルイス「Trouble In Mind」(Artist First)

2024-03-23 07:27:00 | Weblog
2024年3月23日(土)

#352 ジェリー・リー・ルイス「Trouble In Mind」(Artist First)






ジェリー・リー・ルイス、2006年リリースのアルバム「Last Man Standing」からの一曲。リチャード・M・ジョーンズの作品。スティーヴ・ビング、ジミー・リップによるプロデュース。

ジェリー・リー・ルイスは2022年に87歳で亡くなった米国のシンガー/ピアニスト。というより、白人ロックンロールのパイオニアとして、よく知られている。代表曲は「Whole Lotta Shakin’ Goin’ On」「Great Balls of Fire」。

ロックンローラーとしての全盛期は1950年代後半から60年代前半までで、以降低迷期を迎えたものの、70年前後のロックンロール・リバイバルで再び一線に復活、86年にはロックの殿堂入を果たしている。

そんなルイスが今世紀に入って、「これが最後の大仕事だぜ」とばかりに70代で制作したのが、「Last Man Standing」というアルバムだ。21曲、66分43秒にわたる大作で、彼の人脈、知名度をフルに駆使したゲスト・ミュージシャンの顔ぶれが、スゴいの一言だ。

例えば、B・B・キング、ブルース・スプリングスティーン、ミック・ジャガー、ロニー・ウッド、ニール・ヤング、ロビー・ロバートスン、ジョン・フォガティ、キース・リチャーズ、リンゴ・スター、ロッド・スチュアートといった具合で、まるで英米ロック史のVIPを一堂に集めたかのよう。

その中でも、本日取り上げた「Trouble In Mind」は、昨日も登場したエリック・クラプトンをゲスト・ギタリストに迎えてレコーディングしたもので、注目の一曲である。

「Trouble In Mind」はジャズ・ピアニスト、リチャード・M・ジョーンズによって1924年に書かれ、女性シンガー、テルマ・ラ・ヴィッツオが彼のピアノ伴奏により録音したレコードがオリジナルである。バーサ・チッピー・ヒル版で有名になり、以降多くのミュージシャンがカバーしている。ジョージア・ホワイト、ダイナ・ワシントン、ニーナ・シモンあたりが有名だ。

そしてこの曲は、8小節ブルースのスタンダードのひとつとなり、そのコード進行にそった無数の亜種を生み出している。戦前のシカゴ・ブルースのボス、ビッグ・ビル・ブルーンジーが40年代に歌って、のちにデレク・アンド・ザ・ドミノスのカバーでもお馴染みになった「Key to The Highway」はその代表例だろう。

この曲でのクラプトンもその辺りを意識して弾いていた、かどうかはわからないが、これがお得意のパターンであることは間違いないだろう。実に明るく、伸び伸びと弾いている。いい感じに、いなたいのである。

ルイスもまた、ノスタルジックな雰囲気をぷんぷんと漂わせた演奏で、リスナーの耳を楽しませてくれる。お得意のグリッサンドを織り交ぜた、ストライド・ピアノがいかにもこの曲の素朴な味を引き出している。そして、淡々としたその歌い口も。

刺激的なロックに食傷気味の貴方には、最良の清涼剤となるだろう。

このアルバム、他の曲にもいろいろと聴き物が多い。例えばジミー・ペイジと共演した「Rock And Roll」がそうだ。これはもちろん、ZEPのあの曲のカバーなのだが、オリジナルとはビート、タイム感のまったく違う別曲に生まれ変わっていて、驚くはず。完全にジェリー・リー・ルイス流のロックンロールに消化されている。こちらもぜひ、チェックしてみて。

いにしえのヒットメーカーといえば、その黄金のワンパターンに頼りすがって、細々と音楽を続けるパターンが多いように感じるが、ルイスはあくまでもヒット曲でなく、自分の好む幅広いジャンルの音楽{例えばカントリー、ジャズ、ロックなど)をプレイすることに重きをおいて、子供や孫のような若いミュージシャンとも積極的に共演していく姿勢が強く伺えるのは、さすがである。

73年の、ロリー・ギャラガー、アルバート・リー、ピーター・フランプトンらとのセッション・レコーディングなどは、まさにその一例だろう。

ジェリー・リー・ルイスの多様なピアノ・プレイに、20世紀の英米ポピュラー音楽の「懐の広さ」を感じとって欲しい。




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音曲日誌「一日一曲」#351 エリック・クラプトン「I Can’t Hold Out」(RSO)

2024-03-22 08:36:00 | Weblog
2024年3月22日(金)

#351 エリック・クラプトン「I Can’t Hold Out」(RSO)






エリック・クラプトン、1974年7月リリースのアルバム「461 Ocean Boulevard」からの一曲。ウィリー・ディクスン、エルモア・ジェイムズの作品。トム・ダウドによるプロデュース。

エリック・クラプトンについては今さら説明の必要もないだろうが、英国出身、60年代よりロックの第一線で活躍し、79歳の現在もなお、ライブ活動を続けているトップ・スターだ。

そんな彼にも低迷期はあった。ソロ独立を経て70年にデレク・アンド・ザ・ドミノスを結成したものの、うまく継続させることが出来ず、デビュー・アルバムで客演した親友デュアン・オールマンの死にショックを受けたこともあり、音楽を避けてヘロインやアルコールに逃避する日々が続いていた。

ようやくそれらへの中毒を断ち切り、ツアー・バンドを結成し、音楽の道に戻ったのが1974年。アルバム「Layla」(70年11月)以来、約4年ぶりにスタジオ・アルバムをレコーディングし、完成させたのが「461 Ocean Boulevard」である。

このアルバムで、クラプトンはそれまでの彼にはなかったさまざまなタイプのサウンドに挑戦している。本日取り上げた「I Can’t Hold Out」も、その一つと言えるだろう。

もともとこの曲は、黒人ブルースマン、エルモア・ジェイムズが60年にチェスでシングル・レコーディングした作品。アルバムでは「Talk to Me Baby」とクレジットされることも多いので、そのタイトルで覚えているブルース・ファンも多いだろう。

エルモアのオリジナルでは、彼のバックバンド、ブルームダスターズが演奏。サックスのJ・T・ブラウン、ピアノのジョニー・ジョーンズらである。

オリジナル版のアレンジは、いわゆる「ブルーム調」そのもの。ミディアム・テンポで、勇ましいシャッフル・ビートだ。

これをクラプトンは大幅にテンポを落とし、静かな演奏スタイルに変えている。

彼はシャウトすることなく全体的に物憂げな雰囲気で歌い、そして珍しくスライド・ギターも弾いている。これがなかなか味わい深い。

デレク・アンド・ザ・ドミノスでは、スライド・ギターを完全にオールマンに任せていたクラプトンが、「461 Ocean Boulevard」では、この曲や「Motherless Children」で、スライドの妙技を自ら披露しているのだ。

一方、バックのアルビー・ガルテンによるスローなオルガン・サウンドも、サウンドに奥行きと彩りを添えている。

クラプトンはこのアルバムにより、大音量の激しいロックを目指すのでなく、リラックスした自分流のロック・サウンドを生み出す方向に、見事にシフトする。いわゆるレイド・バックの誕生である。

その素材のひとつとして、エルモア・ジェイムズのブルースが選ばれ、オリジナルな歌い口、そして70年代ならではのロック味を加えることで、まったく印象の異なる曲へと再誕生させたのである。

スライド・ギターの響きひとつとっても、エルモアとは相当雰囲気が違い、時代の推移を感じさせる。どちらが優れているとかいうのではなく、ともに個性的で味があるのだ。

ブルースをロック感覚でアレンジした佳曲。筆者もこれで初めてエルモアというブルースマンを知り、オリジナルも意識して聴くようになった記憶がある。50年来、忘れることの出来ない名演である。




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音曲日誌「一日一曲」#350 スレイド「Move Over」(Polydor)

2024-03-21 08:00:00 | Weblog
2024年3月21日(木)

#350 スレイド「Move Over」(Polydor)






スレイド、73年11月リリースのシングル・ヒット曲(日本のみでのリリース)。サード・アルバム「Slayed?」からのカット。ジャニス・ジョプリンの作品。チャス・チャンドラーによるプロデュース。

英国のロック・バンド、スレイドはウェスト・ミッドランド州ウルヴァーハンプトンにて66年結成。当初は「イン・ビトゥイーンズ」という名で、レコード・デビューしたものの不発。

その後、元アニマルズのベース、チャスト・チャンドラーのプロデュースによって、「アンブローズ・スレイド」として再デビュー。ファースト・アルバムを69年にリリースした。

しかしこれもヒットせず、チャンドラーは大幅な戦略変更を行う。サイケデリック・ロック的な方向から、ポップでタイトなロックにイメージを刷新する。バンド名も70年に「スレイド」とシンプルに改名して再スタート。

これが大正解、ティーンエージャーの女性を中心に、爆発的な人気を獲得したのである。

71年10月リリースのシングル「Coz I Luv You(だから君が好き)」で全英1位、全豪7位となる。

以来、「恋の赤信号」(71年)、「恋のバック・ホーム」「クレイジー・ママ」「グッバイ・ジェーン」(72年)と立て続けに大ヒットを出し、72年からは下位とはいえ、米国でもチャート・インするようになる。

結局、音楽的嗜好の違いもあって、米国ではほとんど人気を獲得出来なかったが、本国での人気はすさまじいものがあり、例えば本日取り上げた「Move Over」が収められたアルバム「Slayed?」は全英・全豪で1位を獲得している。まさに破竹の勢いだったのだ。

そんなスレイドは、日本では本来のターゲットであるティーンのウケはいまイチで、地味な人気しか出なかったものの、業界筋では「ただの流行り物のミーハーバンドで終わらない、しっかりとした実力を持ったバンド」という評価が、少しずつではあるが出てきた。72年にこのアルバムが出たあたりからのことである。

それを証明しているのが、この「Move Over」というジャニス・ジョプリンのカバー・バージョンだろう。この曲はジャニスの遺作アルバム「Pearl」のオープニング・ナンバーで、邦題は「ジャニスの祈り」。激しいビートとジャニスの渾身のシャウトが印象的な一曲。

稀代の女性ボーカリストの難曲に、スレイドは果敢にも挑戦したのだが、見事、カバーに成功している。

中でもリード・ボーカル、ノディ・ホルダーの衝撃的とも言えるハイトーン・シャウト、ベーシスト、ジム・リーのうねるようなベース・ラインが、聴くものの耳、そしてハートを捉えて離さない。ホルダーの歌心は、ジャニスの遺志をパーフェクトに継いでいる。

小細工を一切せずに、ストレートに原曲のグルーヴを再現したこのカバー・バージョンは、日本のちょっとうるさめのロック・ファン(筆者もそのひとりだが)をも、大いに唸らせたのである。

「スレイド、侮るべからず」

そう筆者に思わせた、日本限定のシングル盤。バンド本来のワイルドなロック魂を見せつけた本曲は、いまだに筆者の心の中で鳴り響いている。

かつて聴いたことがある人も、一度も聴いたことがない人も、隠れた名演をじっくりと聴き込んでみてくれ。




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音曲日誌「一日一曲」#349 ジョン・ブリム「Ice Cream Man」(Chess)

2024-03-20 08:13:00 | Weblog
2024年3月20日(水)

#349 ジョン・ブリム「Ice Cream Man」(Chess)






ジョン・ブリム、1969年リリースのコンピレーション・アルバム「Whose Muddy Shoes」からの一曲。ブリム自身の作品。レナード・チェス、フィル・チェスによるプロデュース。

黒人ブルースマン、ジョン・ブリムは1922年ケンタッキー州ホプキンズヴィル生まれ。10代の頃よりギターを弾き、歌うようになる。おもにビッグ・ビル・ブルーンジー、タンパ・レッドの影響を受ける。

41年にインディアナポリス、47年にシカゴに移住して、本格的な音楽活動に入る。50年代にチェスでレコーディングを重ねたものの、残念なことにそれら音源の一部は長らくお蔵入りしていた。

日の目を見たのは、実に十数年後の69年だった。ブリムとエルモア・ジェイムズのスプリット盤(複数のアーティストを1枚に収録した編集盤)「Whose Muddy Shoes」によってである。

その中に本日取り上げた「Ice Cream Man」が含まれていた。レコーディングは53年5月。

ハープのリトル・ウォルターらチェスのミュージシャンをバックに、マディ・ウォーターズ風のサウンドで自作のブルースを歌ったのが、とある新人白人ロック・バンドのメンバーたちの関心をひいた。

他ならぬ、ヴァン・ヘイレンである。

彼らは78年リリースのデビュー・アルバム「Van Halen(邦題・炎の導火線)」に、「Ice Cream Man」のカバー・バージョンを収録した。前半はアコースティック・ブルース、後半はハード・ロックというアレンジで。

このアルバムは全米19位となったほか、世界中で売れに売れ、なんと最終的には1000万枚を超えるベストセラーとなり、ダイヤモンド・ディスクに認定された。

これにより、クリーニング屋とレコード屋の兼業で生計を立てており、ミュージシャンとしてはまったく食べていけていなかったブリムに、一大転機が訪れた。

「Ice Cream Man」の作曲印税が入るようになったブリムは、その利益でシカゴにナイトクラブを開店できるようになる。ミュージシャンとしての知名度もグンと上がり、ライブやレコーディングの機会も増えていく。

まさに、ヴァン・ヘイレンさまさまである。

89年にはドイツのウルフレーベルでレコーディング、94年にはトーン・クールレーベルよりアルバム「Ice Cream Man」をリリース。2003年に81歳で亡くなるまで、悠々の音楽人生をまっとうしている。

ジョン・ブリムのライブ映像を観るとよく分かると思うが、彼はブルースマンといっても、ギター・プレイを前面に押し出していくタイプではなく、弾き語り中心のシンガーソングライターに近いタイプだ。その魅力はなんといっても、メロディが覚えやすい曲、飾り気のない素朴な歌声にある。

また、ソフト帽を被りレスポールを構えた、スマートな立ち姿が、太っちょが多いブルースマンたちの中では、なかなかにカッコよい。

その音楽は、いわゆるビッグ・ネームのブルースマンのものとは違って、多くのリスナーに支持されるわけではないが、聴くと妙に心が安らぐ、あるいはホッとする何かがある。これは、ブリムの人間性によるものだろう。

隠れた名曲を掘り出したヴァン・ヘイレン(とりわけ、ソロでも再びカバーしているデイヴィッド・リー・ロス)のセンスに感謝し、成功とは無縁でも地道に音楽活動を続けていたブリム自身にも、大いなる謝辞を送りたい。

アイス・クリーム・マンは、単なる歌のモチーフというよりも、ジョン・ブリム自身の二つ名となったと言えるだろう。彼の人生を大きく決定づけた一曲。筆者も、そんなナンバーを持ちたいものだ。




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音曲日誌「一日一曲」#348 ディープ・パープル「Hush」(Tetragrammaton)

2024-03-19 08:46:00 | Weblog
2024年3月19日(火)

#348 ディープ・パープル「Hush」(Tetragrammaton)






ディープ・パープル、68年6月リリースのシングル・ヒット曲。彼らのデビュー盤でもある。ジョー・サウスの作品。デレク・ローレンスによるプロデュース。デビュー・アルバム「Shades of Deep Purple(旧邦題・紫の世界)」に収録。

英国のハードロック・バンド、ディープ・パープル(以下パープル)は同年のデビュー。もともとはサーチャーズのドラマー、クリス・カーティスの声がけで作られた「ラウンドアバウト」というバンドだった。米国のポップス曲の題名にちなんでディープ・パープルと改名し、68年2月に米国のテトラグラマトン・レーベルと契約してレコード・デビュー。

このデビュー・シングルが予想を大きく上回るスマッシュ・ヒットとなる。なんと全米4位となり、カナダやイタリアでもヒット。不思議なことに本国の英国ではヒットしなかったという。わが国では、翌69年4月に日本グラモフォンからリリース、小ヒットした程度。

デビュー当時のパープルのメンバーは、ボーカルのロッド・エヴァンス、ギターのリッチー・ブラックモア、キーボードのジョン・ロード、ベースのニック・シンパー、ドラムスのイアン・ペイス。

われわれがよく知っている70年代のパープルのメンバー(いわゆる第2期)とは、2人違う。つまり、エヴァンスとシンパーが、のちにイアン・ギランとロジャー・グローヴァーに交代するのである。

本日取り上げる「Hush」という曲は、もともと米国の白人シンガー、ビリー・ジョー・ロイヤル(1942年生まれ)が67年9月にリリースし、ヒットさせたカントリー・ソウル・ナンバー。白人シンガーソングライター、ジョー・サウス(1940年生まれ)がロイヤルのために作曲し、のちに自身も歌っている。

ちょっと補足しておくと、ジョー・サウスは68年に「Games People Play(邦題・孤独の影)」で全米12位の大ヒットを出しているシンガー。というより、日本では彼が作った「Rose Garden(ローズ・ガーデン)」がリン・アンダースンにより70年代に大ヒットしたので、そちらの方が有名かもしれない。白人ながら、ソウル・ミュージックのセンスも感じさせる曲作りで、異彩を放っている。

「Hush」はオリジナル・リリース後は豪州のバンド、サムバディズ・イメージがカバーしていたが、翌年のパープルのカバーによってオリジナルを大きく上回るヒット曲となった。彼らが取り上げていなければ、いずれ埋もれた存在になってしまったに違いない。

歌担当のエヴァンスは、のちのパープルの看板シンガー、イアン・ギランとはかなーり雰囲気が異なる。例えていうなら、ウォーカー・ブラザーズのスコット・ウォーカー(エンゲル)みたいな、ブルー・アイド・ソウルのシンガーってイメージなのだ。

ソウルっぽさは感じられるものの、ゴリゴリのハード・ロックを歌うには、ちとパンチというかエモさが足りんな、正直言って。だから結局、パープルの音楽性がハードな方向へシフトして行くのには、ついて行けなくなったのだろう。

まぁ、この曲については、うまくエヴァンスの個性と合致したと思う。ほどよくソウルフルで、ほどよくサイケデリック。ノリの良さはバッチリ、ダンスには最適と言えるだろう。つまり、踊るためのサウンド。

それに対して、ハードロックは聴くためのサウンドという気がする。ダンス・ホールとかパーティよりは、コンサート会場がふさわしい。あるいは、自宅でステレオに耳を傾けるというのにも合っている。

翌69年7月、パープルは3枚目のアルバムをリリースした後、ギラン、グローヴァーの新メンバーを迎えて再スタートを切る。

羽化した鳥の如く、それまでの中途半端なノリを払拭して、ハードな音を極めていくパープル。そこからは、みなさんもよくご存じだろう。

「Hush」だけの「一発屋」では終わらなかったのが、ディープ・パープルのスゴさ、ホンモノの証明。やっぱり、凡百のバンドとは格が違うと思うよ。

とはいえ、どんな音楽性の高いバンドもヒットなしでは生き残っていけない。「Hush」の予想外のスマッシュ・ヒットも、彼らの成功のためには、必要不可欠な幸運だったと言えるだろうね。いま改めて、曲のヒット要因を、聴いて確かめてみて欲しい。




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音曲日誌「一日一曲」#347 アイズ・オブ・マーチ「Vehicle」(Warner Bros.)

2024-03-18 07:56:00 | Weblog
2024年3月18日(月)

#347 アイズ・オブ・マーチ「Vehicle」(Warner Bros.)






アイズ・オブ・マーチ、70年リリースのシングル・ヒット曲。バンド・メンバー、ジム・ペトリックの作品。ボブ・デストッキ、フランク・ランドによるプロデュース。

米国のロック・バンド、アイズ・オブ・マーチ(The Ides of March、以下アイズ)は64年イリノイ州バーウィンで4人組のザ・ションデルズとして結成され、66年にこのバンド名に改名している。

The Ides of Marchとは、3月15日という意味で、メンバーのボブ・バーグランド(b)が、シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」の一節からとって提案したのだという。

アイズは改名後の66年に、ロンドン傘下のパロット・レーベルよりシングル「You Wouldn’t Listen」でデビュー。地元シカゴでローカル・ヒットし、全米でも42位となった。デビュー当時のサウンドは、ザ・バーズのようなコーラスをフィーチャーしたフォーク・ロックだった。

以降パロットよりシングルを総計5枚リリース。バンドもホーン奏者を増員していく。しかし、「Roller Coaster」がローカル・ヒットしたくらいで、アルバムもリリースされなかった。

成功はデビューの4年後にようやく訪れた。アイズは70年に最大手のワーナー・ブラザーズと契約、本日取り上げたシングル曲「Vehicle(ヴィークル、当初の邦題はビークル)」で再デビューを果たすことになる。

この曲が、ワーナー史上最速と言われるまでの、記録的大ヒットとなった。

瞬く間に全米2位、100万枚を売り上げ、ゴールド・ディスクを受賞し、また本曲をフィーチャーしたアルバム「Vehicle」も全米55位となった。

聴いてみると、本当に「ヒットして当然」と思えるキャッチーな曲作りである。米国では既に60年代末よりBS&T、シカゴといったいわゆるブラス・ロックが人気となっていたが、アイズもそのラインを踏まえて、ホーン・アレンジを前面に押し出している。見事に時代にフィットしたサウンドだ。

また、バンドのフロントマン、リードシンガーにしてギタリストのジム・ペトリックの歌が、またいい。エネルギッシュでソウルフル、でも黒人のようなクセは無く、万人にアピールするタイプ。当時の英国のトム・ジョーンズあたりにも比肩される、ブルーアイド・ソウルの典型的なシンガーと言えるだろう。

このヴァイタリティあふれるキラー・チューンで一躍人気バンドとなったアイズは、同年「Superman」というシングル曲をリリースした。前曲ほどではないが、クリーンヒット。しかし「ヒット曲の焼き直し」感は拭えなかった。

以降、バンドは下降線を辿ることになる。71年のシングル「L.A. Goodbye」は全米73位止まり。その後はまったくヒットが出なくなり、ブラス・ロック路線から離れてみたものの、鳴かず飛ばず。結局、73年に解散している。

90年に再結成し、現在もライブで活動中の模様。いわば「Vehicle」のヒットという過去の遺産でもっぱら食べるタイプの活動をしているわけだ。

そういうわけで、アイズは典型的な一発屋バンドとなってしまったのだが、それでもこの「Vehicle」がポップス史上稀に見る、パーフェクトな出来映えである事実をそこなうものではないと思う。

ある曲がヒットするには、必ず確固たる理由がある。筆者は自信を持ってそう言いたい。

アイズ・オブ・マーチの7人の、メロディ、ビート、アレンジにおける卓越したセンスを、この稀代のビッグ・ヒット・チューンに感じとって欲しい。

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音曲日誌「一日一曲」#346 トミー・マクレナン「Baby, Don’t You Want To Go」(Bluebird)

2024-03-17 08:23:00 | Weblog
2024年3月17日(日)

#346 トミー・マクレナン「Baby, Don’t You Want To Go」(Bluebird)






トミー・マクレナン、1939年のシングル曲。ロバート・ジョンスンの作品。

黒人ブルースマン、トミー・マクレナンは1905年ミシシッピ州デュラント生まれ。

地元でアコースティック・ギターで弾き語るスタイルの音楽活動を行う。RCA傘下のブルーバードレーベルで、1939年から42年の間に50曲近くのレコーディングを行い、シングルをリリースする。

10〜20代の頃は、2歳年上のシンガー/ギタリスト、ロバート・ペットウェイ(「Catfish Blues」でよく知られている人)と組んで演奏することが多く、ペットウェイのレコーディング曲中にも登場している。

マクレナンの芸風は極めて個性的だ。とにかく、歌もギターも荒々しいのひとこと。言ってみれば「輩(やから)」っぽいのである。

大人しく淡々と歌う多くのブルースマンたちの中にあって、異彩を放っていた。私生活での言動も、けっこうラフでワイルドなところがあったらしい。いわば、問題児ブルースマン?

本日取り上げる「Baby, Don’t You Want To Go」も、そんな彼の個性がよく現れた一曲だ。タイトルが原曲の歌詞の一節となっていることからすぐ分かるように、ロバート・ジョンスンの「Sweet Home Chicago」の改作である。

ジョンスンは36年にミシシッピ州ジャクスンでARCレコードのプロデューサー、ドン・ローと知り合い、同11月と翌37年の2回、テキサス州にてレコーディングを行なっている。「Chicago」はその第1回、サンアントニオのガンターホテルで収録されたもの。シングルは37年8月にヴォカリオンレーベルよりリリースされている。

マクレナンはこの新しいブルース・ナンバー(そのメロディや歌詞の一部は過去のブルース、例えば「Kokomo Blues」などから仮借したものではあるが)をさっそく取り上げて、自分流に改作して世に出した。もちろん、最初のカバー・バージョンである。

両者の違いは、聴き比べて見れば一目瞭然である。

ジョンスンの歌がいかにも弱々しく悲しげなのに比べて、マクレナン版は、どうにも力強く、ふてぶてしくさえある。「イェーイ」を連発し、最後はスキャットでジョークっぽく締めるなど「やりたい放題」感がある。

ギター・スタイルも大きく異なり、ブギ・ビートを淡々と刻むジョンスンに対して、マクレナンはジャカジャカと大きな音でかき鳴らす流儀。

そのためか、同じ曲にも関わらず、2曲はまったく別物のようにさえ聴こえる。

のちに多くのブルース・ミュージシャンに取り上げられることになる「Chicago」、そして作者ロバート・ジョンスンだが、30年代はまだまだ無名に等しかった。その中で、その存在にいち早く注目していたマクレナンは実に先見の明があったというべきか。

マクレナンのワイルドなボーカル・スタイルは、40〜50年代のエレクトリック・シカゴ・ブルース、特にエルモア・ジェイムズあたりに引き継がれたと言えそうだ。アク、エグみの強い彼らの歌声は、いささか聴き手を選ぶものの、強烈な個性を放っている。

アコースティック・ブルースの枠を既にはみ出して、のちの時代のロック・ミュージックさえも予感させるワイルド・ブルースマン、トミー・マクレナン。彼こそは、「裏ロバジョン」ともいうべき先駆者だったと思う。

荒くれ者のブルースに、ぜひ耳を傾けとくれ。




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