NEST OF BLUESMANIA

ミュージシャンMACが書く音楽ブログ「NEST OF BLUESMANIA」です。

#136 タンパ・レッド「So far, So Good」

2010-08-29 07:55:27 | Weblog
#136 タンパ・レッド「So far, So Good」(Great Piano/Guitar Duo 1941-1946/EPM)

1930年代~40年代に活躍したシンガー/スライド・ギタリスト、タンパ・レッドとビッグ・メイシオ(p)の共演盤より。タンパ・レッドの作品。

タンパ・レッドは本名ハドスン・ウィテイカー。1904年、ジョージア州スミスヴィルに生まれる。

幼少期をフロリダ州タンパにて過ごし、髪が赤毛だったことからこのニックネームになったという。

彼が24才となった1928年にシンガー/ピアニスト、ジョージア・トムとのコンビで「It's Tight Like That」を大ヒットさせ、その名が広く知られるようになる。

レガシー、ヴィクター、ブルーバードなどのレーベルで、精力的にレコーディング。戦前だけでも200曲以上を録ったそうだ。

きょうの一曲「So far, So Good」は、41年以来シカゴで知り合い、生涯の盟友となるビッグ・メイシオとのコンビでの録音。

彼らの代表的ヒット「Worried Life Blues」とはだいぶん趣きの違った、明るい雰囲気のブルースだ。

やはりこれは、歌を担当したタンパ・レッドの、相方の重厚な歌声とは対照的な、非常に軽い歌い口によるところ大だろうな。

もし同じ曲をビッグ・メイシオが歌っていたら、かなりイメージが違っていたはずだ。

そのあたりがいかにもブルースなのだと思う。歌い手の個性がモロに反映され、同じメロディ、節回しでも陽性のブルースになったり、陰性のブルースになったりする。

いわゆる技巧を感じさせない素朴な歌声なのだが、よーく聴き込めば決してヘタではない。非常に個性的なタイプのシンガーだと思う、タンパ・レッドは。

さりげなく挟まれるスライド・ギターのソロ、そしてカズーのユーモラスな演奏もいい感じだ。

「ギターの魔術師」とよばれたその腕前は、代表曲「Black Angel Blues」あたりを中心に、ロバート・ナイトホーク、アール・フッカーといった後進のスライド・ギタリストたちに多大な影響を与えている。

スライド・ギタリストではないが、B・B・キングもタンパ・レッドのような流麗なギターが弾きたくて、あのスクウィ-ズ奏法を編み出したとか。

そういう意味で、20世紀ポピュラー・ミュージックにおいて、きわめて重要なアーティストだっだといっていい。

歌のほうは、まあご愛嬌なんだが、聴けば聴くほどそのよさがわかってくるような、独特の味わいがある。歴史的な名演、ぜひチェックしてみてほしい。

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#135 サンタナ「Travelin' Blues」

2010-08-22 07:36:39 | Weblog
#135 サンタナ「Travelin' Blues」(Early Classics/Blumountain Records)

サンタナの、CBSデビュー以前のレコーディングより。チャールズ・ブラウンの作品。

サンタナのリーダー、カルロス・サンタナは1947年メキシコ生まれ。62年、10代の半ばにアメリカはサンフランシスコに移住。このことがカルロスの人生を大きく変えた。

当時はホワイト・ブルース・ムーブメントが始まろうとしていたころ、多感なカルロス少年は、その動きをフィルモアをはじめとする西海岸のライブハウス、モンタレー・フェスティバルのようなイベントで感じとり、大いに影響を受けた。たとえば、ポール・バターフィールド。たとえば、マディ・ウォーターズといった具合だ。彼らに憧れ、カルロスもブルース・ギターを弾くようになる。

66年、カルロスは自身のバンドを結成。サンタナの前身であるサンタナ・ブルース・バンドである。

そのころの彼らのレパートリーは、B・B・キング、レイ・チャールズといった黒人ブルースマンのナンバーのカバーが中心だった。

そして、ティンバレス、コンガといったラテン・パーカッションはまったく使っていなかった。あくまでも「ブルース」バンドだったからである。

きょうの一曲はその頃録音されたもの。西海岸系ブルース・ピアニスト、チャールズ・ブラウンのおなじみのナンバーである。

ここではピアノではなくオルガンを使い、小粋な西海岸ブルースというよりは、やや泥臭いアレンジだ。ジョン・メイオール率いるブルースブレイカーズ風のスタイルともいえる。

実際、ギターのプレイを聴くと、エリック・クラプトンあたりの影響がモロに感じられ、サンタナらしさ、オリジナリティといえるものはまだ確立されていない。

ブラインドフォールド(目隠し)テストをしても、カルロスのプレイと正しく当てられるひとは、まず、いないんじゃないかな。クラプトン? ピーター・グリーン? マイケル・ブルームフィールド? てな感じで。その演奏スタイルも、どこか借り物っぽいといわざるをえないのである。

その後カルロスは、己れのアイデンティティを確認し、それがブルースというよりはラテン・ミュージックであると意識したことから、自分なりの音楽作りを始めるようになる。

オリジナル曲を作り、パーカッショニストを迎えたころ、カルロスは決断した。バンド名からブルース・バンドを削り、「サンタナ」としたのである。

これが、「ラテン・ロック」誕生の瞬間だった。

自らの血が欲する音楽をうちたてたカルロスの、その後の快進撃は、ここに書くまでもないだろう。69年アルバム「サンタナ」でデビュー以来、60代となった現在でも、精力的な活動を続けるカルロス、そしてサンタナ。

彼らがオリジナリティを打ち立てるまでの「模索期」を知ることが出来る、貴重な記録。ぜひ、聴いてみてほしい。

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#134 憂歌団「ファンキー・モンキー・ベイビー」

2010-08-14 14:52:50 | Weblog
#134 憂歌団「ファンキー・モンキー・ベイビー」(ゴールデン☆ベスト/フォーライフミュージックエンタテイメント)

憂歌団によるキャロル・ナンバーのカバー。大倉洋一・矢沢永吉の共作。94年発表。

憂歌団は木村充揮(当初は秀勝)、内田勘太郎、花岡献治、島田和夫の4人により70年頃大阪にて結成、75年レコードデビュー。98年の活動停止に至るまで不動のメンバーで活動した、日本ブルース界の草分け的バンドだ。

SHOW BOAT(トリオ)、フォーライフ、ワーナーミュージックと3つのレーベルを渡り歩き、その演奏スタイルも初期のアコギ中心のものから、後期のエレクトリックを取り入れたものまで変化していったが、基本はずっとブルースだった。

憂歌団の魅力は、なんといってもそのライブ演奏にある。ステージに登場するや、しごく当然のように酒を飲み始めながら演奏する、そんなライブなのだ。観客も、もちろん飲む。そうやって演者と観客が和やかに一体化していく。従来のバンドにはまずなかった、リラックスした雰囲気。子供にゃわかんない世界だね。

ギターの内田の、戦前ブルースを基本にした通好みのプレイも人気の理由のひとつだったが、なんといっても、リード・ヴォーカル木村のダミ声が、このバンドの看板だった。一聴して彼のものとわかる、えもいわれぬしょっぱい声で、ファンを魅了し続けていたのである。

時には女性の声かと聴きまごうような、やさしい歌声を聴かせたかと思うと、一転、荒くれ男、酔いどれ男の猛々しさを見せたり、とにかくその歌は、他の追随をゆるさぬ迫力とオリジナリティに溢れていた。

そんな彼らが94年にリリースしたカバー・アルバム「知ってるかい!?」に収められていたのが、きょうの一曲。説明するまでもない、キャロル最大のヒット曲だ。

原曲は典型的なアップテンポのロックンロールだが、憂歌団は彼ら流に少しだけテンポダウン、ピアノサウンドをフィーチャーしたシャッフルにアレンジしてみせた。

これが実にいい感じだ。木村は矢沢永吉とはまたひと味違ったエグみのあるシャウトで、原曲以上にファンキーなノリを出している。

矢沢、清志郎あたりの陰にかくれて、あまり語られることのない木村だが、間違いなく日本を代表する、本物のシンガーだと思う。

歌詞のユーモラスな、いわゆるノベルティ・ソングがレパートリーに多いためか、いささか色もの的な扱いを受けやすい憂歌団だが、その実力は侮り難いものがある。

これを機会に、他の代表曲「嫌んなった」「10$の恋」「胸が痛い」あたりもぜひ聴いてみてほしい。

木村充揮ほど歌に「艶っぽさ」のあるシンガーはそういない、絶対そう感じるはずだよ。

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#133 キャロル「やりきれない気持」

2010-08-07 15:58:45 | Weblog
#133 キャロル「やりきれない気持」(ゴールデン・ヒッツ/マーキュリー・ミュージックエンタテインメント)

キャロルのサードシングル。73年2月リリース。大倉洋一・矢沢永吉の共作。

キャロルについて、いまの若いリスナーたちが知っていることは「その昔、矢沢永吉がデビューしたバンド」、そんな程度だと思うが、リアルタイムでキャロルの出現を体験した世代にとっては「存在そのものが、未曾有の衝撃」、そんな感じだった。いやホントに。

キャロルは1972年6月、ベース、ボーカルの矢沢永吉が書いた、一枚のバンドメンバー募集ビラから始まった。

「ビートルズとロックンロールの好きなヤツ、求ム!」

これにこたえて集まったのが、ジョニーこと大倉洋一(g,vo)、内海利勝(g)、ユウ岡崎(ds)だった。バンド名は、大倉が命名したという。

いまでいうところのライブハウス(「ヤマト」など)で活動を始めたところ、あっという間に人気が出て、10月にはテレビ番組「リブ・ヤング」に出演というビッグ・チャンスが舞い込む。

出演して即日、レコーディングの契約。12月にはシングル・デビュー。なんというスピード出世(笑)。

以降、怒濤の毎月シングルリリースが続く。きょう聴いていただく「やりきれない気持」はその第3弾で、その攻勢は6月に彼ら最大のヒット「ファンキー・モンキー・ベイビー」が出るまで7か月も続いた。

なにもかもが新記録ずくめのキャロルだったわけだが、キャロルがこれまでのバンドと最も違っていたのは「彼ら本来の不良性まる出しのファッションでデビューし、それがそのまま受け入れられた」ということだった。

彼らの少し前に一世を風靡したグループサウンズの連中、いやいや海外のご本家・ビートルズ、ストーンズでさえ、デビュー時には一般ウケするよう、それなりに不良性を抑えたファッションで登場したのにである。これは、ホント、衝撃だった。

ハンブルグ時代のテディボーイ・スタイルのままで突然登場した、ビートルズ・チルドレン。これには、現役の不良はいうにおよばず、元不良、さらには非不良層まで魅せられたんである。まさに革命だった。

いま改めて考えてみるにキャロルは、世界中に無数に存在する、あるいはしてきたビートルズ・フォロワーの中でも、もっともヒップでいかしたバンドだったと思う。

キャロルに先立ってビートルズ・フォロワーとして注目されていたのが、72年6月デビューのチューリップだった。が、このキャロルの出現で、見事にかすんでしまった。

大学のフォークサークルの匂いのする非不良、つまり草食でいかにも安全パイ的なチューリップに比べて、キャロルは肉食のガテン系。断然ワイルドでセクシーな不良の匂いをぷんぷんとさせていた。

歌も演奏もあきらかにキャロルのほうがうまい。となれば、「不良な男性は怖いですぅ」なんて言うオタク女子を除けば、男も女も、こちらにひきつけられるに決まっている。

当時の筆者も、自身不良としては中途半端で、髪型をリーゼントに変えこそしなかったが、「チューリップは音も見かけもダサい。キャロルのほうが上」と思っていた。

というわけで、前フリが長くなってしまったが、きょうの一曲、聴いてほしい。リードボーカルはジョニー大倉。

キャロルの曲は、ヒットしたのはどちらかといえば矢沢がリードをとったものが多いのだが、ジョニーの甘い声もなかなかいい。

後にはその出自をカミングアウト、俳優としても活躍。矢沢のような、なかば神格化されたスターへの道はたどらなかったものの、ジョニーもシンガーとして素晴らしいものをもっているし、日本語・英語をたくみに織り交ぜた作詞術にも、時代を先取りしたセンスを感じる。

ファッション的には、どちらかといえばメジャーデビュー後のビートルズの線を狙っていた矢沢に対して、あくまでもテディボーイスタイルにこだわって、キャロルの独自性、革新性をリードしたのがジョニーと聞くと、キャロルとは矢沢というよりはジョニーのバンドだったのかもしれない。

永遠の、そして唯一無二の不良バンド、キャロル。

その音楽のキャッチーさは、日本のポップ音楽史上でも突出したものだと思う。CHECK IT OUT!

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