2024年7月9日(火)
#460 リッキー・ネルスン「Hello Mary Lou」(Imperial)
#460 リッキー・ネルスン「Hello Mary Lou」(Imperial)
リッキー・ネルスン、1961年5月リリースのシングル・ヒット曲。ジーン・ピットニー、カイエト・マンジャラチーナの作品。
米国のシンガーにして俳優、リッキー・ネルスンことエリック・ヒリアード・ネルスンは、1940年5月ニュージャージー州ティーネックにて、バンドリーダーの父オジー、女優の母ハリエットの次男として生まれる。
芸能一家に育ったネルスンは、8歳の時から家族と共にラジオやテレビに子役出演しており、個人としては映画「三つの恋の物語」(53年)、「リオ・ブラボー」(59年)などに出演している。
ネルスンは幼少期からカントリーに親しんでいたが、エルヴィス・プレスリーの登場に衝撃を受け、ロカビリーに熱中するようになる。クラリネット、ドラムの演奏も始める。
57年、彼は16歳の時、当時のガールフレンドにプレゼントするためのレコードを作りたいと考える。そこでネルスンは父の力添えにより、ジャズ系のヴァーヴレーベルと契約する。
テニス選手デイヴィッド・スチュアート・ジラムの書いた「A Teenager’s Romance」とファッツ・ドミノの当時のヒット曲「I’m Walkin’」をカップリングして4月にシングルリリース。
これが全米2位、同17位の両面ヒット。趣味や余技の域を大きく越える結果となってしまった。以降、ネルスンは俳優だけでなくプロシンガーとしての道も歩むごとになるのである。
ヴァーヴとは印税の条件、選曲やジャケットデザインの監修などの権利が自分に与えられていないという理由で契約を解除、インペリアルレーベルに5年契約という有利な条件で移籍する。この辺はもちろん、父オジーのバックアップあってこその収穫である。
この頃には、当初のバックバンドを解散して、ジェイムス・バートン(1939年ルイジアナ生まれ)を中心とする実力派バンドを新たに結成している。
インペリアルでの初シングル「Be Bop Baby」(57年)も大ヒット、全米5位、R&Bチャートでも6位となる。以降、同レーベルでからは「Stood Up」「Poor Little Fool」「Lonsome Town」(共に58年)といったトップテン・ヒットが続いていく。
「Poor Little Fool」では初めての全米1位を獲得、人気も沸騰、最初の黄金時代と言える時期だった。
59年から60年にかけては、ヒットを連発していたものの、ランクも下降気味で、いわば中弛み、ジリ貧の時期に差し掛かっていた。
そんな中、61年に久しぶりにナンバーワン・ヒットが復活する。4月にリリースしたシングル曲「Travelin’ Man」である。
これはシンガーソングライター、ジェリー・フラー(1938年テキサス生まれ)が書いたR&B、ソウル色の強い曲だ。元々はサム・クックに歌ってもらうつもりで作られたが、クックのマネージャーが曲を気に入らず、ネルスンにお鉢が回って来たのだった。
シングルは「Hello Mary Lou」とのカップリング(両A面)でリリースされ、「Travelin’ Man」が全米1位、「Hello Mary Lou」が同9位にランキングした。両者は全英2位にもなった。
一応、前者の方が当時はよりヒットしたわけだが、60年以上の歳月が経過した現在となっては、この曲を思い出せるリスナーはいるだろうか?
おそらく、ほとんどいないのではないだろうか。
それに対して、「Hello Mary Lou」は現在でも忘れられることなく、プロ・アマの区別なく多くの人によって歌い継がれている。えらい差である。
「Hello Mary Lou」は、1940年と奇しくもネルスンと同じ年にコネチカット州ハートフォードに生まれたシンガー、ジーン・ピットニーによって書かれた曲だ。
ピットニーは「Hello Mary Lou」以前に自作でのヒットを出しておらず、同年の「(I Wnna) Love My Life Away」で初のトップ40入りを果たすことになる。
そしてあの「Lousianna Mama」で、極東の日本にまで知られるようになる。
いわば無名のシンガーソングライターの作品だったわけだが、実は盗作ではないかと疑われた曲でもある。というのは、カイエト・マンジャラチーナが作曲し、彼のバンド、スパークスが57年にシングルリリースした「Mary, Mary Lou」という曲に酷似しているのである。
同曲はさっそく同年ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツによりカバーされ、そのバージョンがよく知られるようになる。また、翌58年にはサム・クックにもカバーされている。
「Hello Mary Lou」がリリースされた時、「Mary, Mary Lou」の出版社、チャンピオン・ミュージックが盗作で訴える。結局、マンジャラチーナを共同作曲者としてクレジットすることで、和解が成立している。
実際、「Mary, Mary Lou」と「Hello Mary Lou」を聴き比べてみると、前者が後者に与えた影響は間違いなく感じ取られ、明らかに「クロ」であるように思う。まぁ、妥当な結末であるな。
以上の経緯により、その後、本曲はふたりの名前が記されるようになったのである。
この曲はその後、国を問わず、さまざまなアーティストによってカバーされるようになる。フランスやスウェーデンでもヒットしたこともあって、その地のシンガーが歌ったバージョンも登場した。70年にはカントリーシンガー、ボビー・ルイス(1942年生まれ)がカバーして、カントリーチャートで14位となった。
われわれ日本のロックファンにおいては、なんといってもクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルのバージョンが一番知られているだろう。
72年リリースのラスト・アルバム「Mardi Gras」に収録されている本曲だが、筆者の記憶では、CCR版と並べて聴き比べるような形で、オリジナルのネルスン版もラジオでよくかかっていたという記憶がある。
個人的な記憶をさらに書いてしまうと、77年頃、筆者が大学時代に組んでいたバンドで、CCR好きな筆者がこの曲を取り上げたことがある。今となっては、懐かしいばかりである。
CCR版は、そのギターソロも含めて、オリジナルにかなり忠実に再現していた。
オリジナルのギターパートは、もちろん名手ジェイムズ・バートンが弾いている。本曲のソロフレーズは後のロック・ミュージシャン達にも大きな影響を与えており、クイーンのブライアン・メイが引用して弾いていたことでも有名だ。
その後、リッキー・ネルスンは21歳になったのを機にリック・ネルスンと改名、61年5月リリースのアルバム「Rick Is 21」よりその名義で活動するようになる。
以降はカントリー色をより濃くしたサウンドで、85年12月、45歳で飛行機事故で亡くなるまでレコードをリリースし続けた。
全盛期は57年から63年頃までであったが、当時はエルヴィス・プレスリーをもしのぐ人気があったリッキー・ネルスン。
碧い眼が特徴的な北欧系のハンサムなルックスももちろんだが、その陽性の声もまた魅力に富んでいた。
「天は二物を与えず」とはよく言われることだが、ネルスンのような例外を見てしまうと、「いやいや、世の中には、間違いなく格差と言うものがあるぜ」という確信めいた愚痴に至ってしまう。
プレスリーのような叩き上げのヒーローとはまた違う、ええとこ育ちで、スターに生まれるべくして生まれた男、リッキー・ネルスン。
その伸びやかな美声を、もう一度、彼のエバーグリーンな一曲、永遠のカントリー・ソングで堪能してみよう。