NEST OF BLUESMANIA

ミュージシャンMACが書く音楽ブログ「NEST OF BLUESMANIA」です。

音曲日誌「一日一曲」#406 キャンド・ヒート「Let’s Work Together」(Liberty)

2024-05-16 10:41:00 | Weblog
2024年5月16日(木)

#406 キャンド・ヒート「Let’s Work Together」(Liberty)




キャンド・ヒート、1970年リリースのシングル・ヒット曲。ウィルバート・ハリスンの作品。スキップ・テイラー、彼ら自身によるプロデュース。1970年リリースのアルバム「Future Blues」に収録。

米国のロック・バンド、キャンド・ヒートは1965年、ロサンゼルスにて結成された。67年、レコードデビュー。メンバーはボーカルのボブ・ハイト、ギター、ハープのアラン・ウィルスン、ギターのヘンリー・ヴェスティン、ベースのラリー・テイラー、ドラムスのアドルフォ・デ・ラ・パラの5人。

ハイトとウィルスンのブルース愛好趣味から始まったバンドだけに、結成当初より、過去の黒人ブルース曲のカバーを前面に押し出していた。

67年7月のモンタレー・ポップ・フェスティバルへの出演で注目された彼らは、ハイペースでアルバムを発表する。70年8月リリースの「Future Blues」は、早くも5枚目にあたる。

前年の69年7月にはウッドストック・フェスティバルに出演、熱演で好評を勝ちとった後は、レコードセールスも上昇しており、その勢いを借りてのリリースであった。

このアルバムよりシングルとしてカットされたのが、本日取り上げた「Let’s Work Together」である。

本国に先立って70年1月の英国ツアーのさなかにリリースされた本曲は、全英2位というバンド最高記録を打ち立てた。米国ではアルバムリリース後直ちにカットされ、全米26位ヒットとなった。当時、いかに彼らの人気が高まっていたかがよく分かる。

この曲は元々、59年の「Kansas City」の大ヒットで知られる黒人シンガー、ウィルバート・ハリスンが62年に「Let’s Stick Together」のタイトルでリリースしたシングルの改作であり、69年に自身のギター、ハーモニカ、パーカッションというワンマンバンドスタイルで、AB面にパート分けして再録音された。

62年版はヒットしなかったが、69年版はそこそこヒットして、全米トップ40にチャートインしている。

キャンド・ヒート版は、この69年版をカバーしたものということになる。リード・ボーカルは、ハイトが担当しており、彼の力強い歌声が耳に残るナンバーに仕上がっている。

ギターソロ抜き、3分余りのごくシンプルな構成のロックンロール。いかにもシングル向きの曲である。

キャンド・ヒートといえば、古いブルースナンバーやそれに類した曲をもっぱらやるというイメージが強かっただけに、60年代のわりとポップな曲を取り上げたのは、彼らがバンドとして、より多くのリスナーにウケていこうという姿勢を見せた、ということなのだろう。

作者のウィルバート・ハリスンについて少し触れておくと、彼は「Kansas City」の大ヒットで一躍メジャーな存在になったものの、レーベルとの契約問題でもめることになってしまい、せっかく勢いのついた時期に、第2弾を出せず仕舞いになってしまった。本来ならば「Let’s Stick Together」を立て続けにリリースすることを目論んでいたらしい。

そういう経緯で「Let’s Stick Together」はリリースのタイミングを失して幻のヒットとなってしまい、ハリスンにも未練が残った。約10年後にリベンジとして世に出してようやくヒットたのが、この「Let’s Work Together」なのだと思う。

オリジナルの歌詞は男女の恋愛がモチーフで、「離れることなく、一緒にくっついていきましょう」というニュアンスであるが、一方改題版の歌詞は、労働歌ふうに「みんな一緒に働こうぜ」のような恋愛抜きの内容に変わっている。

見るからに男臭いというか、いささかムサい(失礼)イメージを持つバンド、キャンド・ヒートとしては、後者の方が合っているのは間違いない。

この曲のスマッシュ・ヒットで、バンドとして一層の活躍が期待されていた彼らであったが、同70年9月には主要メンバーのウィルスンがドラッグのオーバードーズにより不審死(おそらく自殺)を遂げるという悲劇が起きる。

その後もバンドは、メンバーを補う形で存続したものの、それまでの快進撃の勢いは、大きく削がれることとなり、ヒットとも無縁になっていく。

ウィルスンの存在は、バンドにとってあまりに大きかった。今回取り上げた曲では演奏していないが、彼の吹くブルースハープの音色は天下一品で、筆者も「このくらい、ハープ一本で深い音を出せるプレイヤーは滅多にいない」と思うほどである。ウッドストックなどの過去映像でウィルスンのブローを聴くたびに、そう感じる。

ともあれ、一番パワーに満ち溢れていた頃のキャンド・ヒートを代表する一曲。聴くと間違いなく、エネルギーがビンビンに湧いてきまっせ。




音曲日誌「一日一曲」#405 ココ・テイラー「Wang Dang Doodle」(Checker)

2024-05-15 09:01:00 | Weblog
2024年5月15日(水)

#405 ココ・テイラー「Wang Dang Doodle」(Checker)




ココ・テイラー、1966年リリースのシングル・ヒット曲。ウィリー・ディクスンの作品。ディクスン、レナード・チェス、フィル・チェスによるプロデュース。1969年リリースのアルバム「Koko Taylor」に収録。

米国の女性ブルースシンガー、ココ・テイラーは1928年、テネシー州メンフィスで小作人の娘、コーラ・アン・ウォルトンとして生まれる。

教会でゴスペルを歌い、また兄弟と共にブルースを演奏するようになる。ココはチョコレート好きだったためについたニックネームである。

20代半ばの53年、トラック運転手のロバート・テイラーと結婚、職を求めてシカゴに移住する。昼間はメイド、夜はクラブ歌手という日々を送る。

チャンスは約10年後の62年、プロデューサーのウィリー・ディクスンと知り合ったことから始まる。翌63年、彼のプロデュースで初シングル「Like Heaven To Me」をUSAレーベルよりリリース。

その後、ディクスンの紹介により大手レーベルのチェスと契約、彼がかつてハウリン・ウルフに提供していたナンバーをカバーしてシングルリリース、これが特大のヒットとなる。

それが本日取り上げた一曲、「Wang Dang Doodle」である。

ウルフによるオリジナル・バージョンは1960年に「Back Door Man」「Spoonful」と一緒にレコーディングされ、翌年シングルリリースされた。アルバムでは62年リリースの「Howlin’Wolf」(いわゆるロッキン・チェア・アルバム)に収録されている。シンプルなワンコード構成のブルース・ナンバー。

ココ・テイラー版のバックミュージシャンはギターのバディ・ガイとジョニー・ツイスト・ウィリアムズ、ピアノのラファイエット・リーク、ペースのジャック・マイヤーズ、ドラムスのフレッド・ビロウ、アルトサックスのジーン・バーン。チェスの抱えるお馴染みのスタジオミュージシャン達であった。

ココ・テイラーはこの曲で、そのワイルドでパワー溢れる歌声をフルに生かして、「女性版ハウリン・ウルフ」とでも言うべきスタイルを確立した。

そのシャウトは過去のあらゆる女性シンガーをしのぐ、超弩級の迫力を持っていたと言える。

本曲はR&Bチャートで4位となっただけでなく、全米でも58位を獲得した。そのくらい、彼女のエモーショナルな歌声は人種を越えて多くのリスナーに衝撃を与えたのだ。

以後のテイラーは、「Wang Dang Doodle」ほどのスマッシュ・ヒットは出せなかったものの、米国内のツアー、あるいは渡欧してフェスティバルに出演するなど、ライブで活躍する。

アルバムもチェスのほか、ブラックアンドブルー、そして1975年以降2000年代に至るまでアリゲーターレーベルにおいて長年リリースを続けて、ブルース界の女王としての地位を築き上げた。

テイラーは2009年に、80歳ちょうどでこの世を去っている。

Youtubeのような動画サイトでも数多く彼女の生前のパフォーマンスを観ることが出来るが、常にアッパーなテンションでパワフルな歌声を聴かせてくれるのが、なんとも頼もしい。

レコードデビュー時には、すでに30代後半で既婚者。いわゆるルックス売り、ドル売りとは無縁で、ただただ歌の実力のみでここまでのポジションを掴んだのは、さすがである。

男勝りのシャウトに、ブルースの真髄を感じる一曲。女王陛下に「敬礼!」である。




音曲日誌「一日一曲」#404 サニーボーイ・ウィリアムスンII「Don’t Start Me Talkin’」(Checker)

2024-05-14 08:18:00 | Weblog
2024年5月14日(火)

#404 サニーボーイ・ウィリアムスンII「Don’t Start Me Talkin’」(Checker)





サニーボーイ・ウィリアムスンII、1955年6月リリースのシングル・ヒット曲。ウィリアムスン自身の作品。レナード・チェス、フィル・チェス、ウィリー・ディクスンによるプロデュース。アルバム「Down And Out Blues」(1959年リリース)に収録。

米国のブルースマン、サニーボーイ・ウィリアムスンIIは1912年12月(推定)、ミシシッピ州グリーンウッド(またはグレンドーラ)生まれ。出世名はアレックス(アレックとも)・フォード。後に継父のミラー姓に変わる。

20代初めに小作農の親元を離れて、プロミュージシャンとして旅する日々を送るようになり、ビッグ・ジョー・ウィリアムズ、エルモア・ジェイムズ、ロバート・ロックウッド・ジュニアらと知り合う。

放浪芸人のような生活に転機が訪れたのは、1941年。アーカンソー州ヘレナのラジオ局、KFFAの番組「キング・ビスケット・タイム」にロックウッドと共にレギュラー出演するようになったのだ。そして、その頃から有名シカゴ・ブルースマンのサニーボーイ・ウィリアムスンにあやかって同じステージネームを使い始める。

49年には同州西メンフィスに移り、ハウリン・ウルフと行動を共にするようになる(ウルフの異母妹と結婚)。当地のラジオ局、KWEMでもレギュラー番組を持ち、ヘレナで共演したミュージシャン達も呼ぶ。

51年、同州ジャクスンのトランペットレーベルで初レコーディング。55年同レーベルの破産に伴い、チェスに移籍。以後、傘下のチェッカーレーベルで約70曲をレコーディングした。

その第一弾にあたるシングルが、本日取り上げた「Don’t Start Me Talkin’」である。

レコーディングメンバーは、ボーカル&ハープのウィリアムスンのほか、ギターのマディ・ウォーターズとジミー・ロジャーズ、ピアノのオーティス・スパン、ベースのウィリー・ディクスン、ドラムスのフレッド・ビロウ。

いわばチェス黄金期のベスト・ミュージシャンが勢ぞろいである。これで駄作になりようがない。

実際、この曲の仕上がりは見事だ。ハープとロジャーズのギターでのイントロに始まり、ブレイクからの2コーラス、ハープソロ、そして1コーラス、再びハープソロで締めるという、隙のない構成。

そのしゃがれ声、ノンアンプリファイドのよく伸びるハープ・トーン、全てがイカしている。

6人のトップ・ミュージシャンが一体となってフルパワーで爆進する2分半。これがウケないわけがない。

「Don’t Start Me Talkin’」はチェッカーでは初のリリースながら、R&Bチャートで3位のスマッシュ・ヒットとなり、ウィリアムスンを同レーベルの看板スターのひとりに押し上げた。

翌56年から亡くなる65年に至るまで、ウィリアムスンは年に数枚のシングルを出し続け、59年以降はアルバムもリリースした。また、先日書いたように60年代に渡英して、ヤードバーズ、アニマルズらとも共演している。

推定52歳で亡くなったので、ウィリアムスンはその人生最後、40代から50代の約10年間で全盛期を迎えたということになる。

その後は、ウィリアムスンが育てたハーピスト、ジェイムズ・コットンが彼を継いで、ブルースハープをさらに進化させていくことになる。もちろん、コットンもこの「Don’t Start Me Talkin’」を67年のアルバム「The James Cotton Blues Band」でレコーディング、亡き師をトリビュートしている。

チャンピオン・ジャック・デュプリー、フェントン・ロビンスン、ヤードバーズ、ドゥービー・ブラザーズ、ゲイリー・ムーアなど、黒人ブルースマン、白人ロックミュージシャンを問わず、多くのミュージシャンにカバーされた本曲は、サニーボーイ・ウィリアムスンらしさ、その魅力が全て詰め込まれた作品だ。

その知名度はいまいちでも、隠れたブルース・スタンダードだと言える。これからも数多くのハーピスト達のレパートリーとして、残り続けるに違いない。

音曲日誌「一日一曲」#403 ハウリン・ウルフ「Sitting On Top Of The World」(Chess)

2024-05-13 08:44:00 | Weblog
2024年5月13日(月)

#403 ハウリン・ウルフ「Sitting On Top Of The World」(Chess)







ハウリン・ウルフ、1957年録音、58年リリースのシングル・ヒット曲。チェスター・バーネット(ウルフの本名)の作品。レナード・チェス、フィル・チェスによるプロデュース。アルバム「Real Folk Blues」(1966年リリース)に収録。

米国のブルースマン、ハウリン・ウルフは1910年ミシシッピ州ホワイトステーション生まれ。17歳でギターを始めて1930年代にチャーリー・パットンに師事、メンフィスなど南部地域でプロシンガーとして活動後、チェスと契約、52年末シカゴに移住する。

以降ヒットを連発してウルフの黄金時代が始まるわけだが、後の白人ロックバンドにも強い影響を与えることになるシングル・ヒット曲を、いくつか出す。先日本欄でもピックアップした1960年リリースの「Spoonful」、そして本日のメインテーマ、「Sitting On Top Of The World」である。

この曲はウルフの作品としてクレジットされてはいるが、もともとは1930年代に活躍したカントリー・ブルースのバンド、ミシシッピ・シークスの初のヒット曲である。同グループの中心人物、ウォルター・ヴィンスン、ロニー・チャットモンが作り、1930年にシングルリリースされている。

恋人に去られてしまったが自分は大丈夫、世界のトップに立っているからという、やたらと楽観主義な歌詞が特徴的な、ポジティブ・ブルース。

そのタイトルは、1920年代にアル・ジョルスンらにより歌われてヒットしたポピュラー・ソング「I’m Sitting On Top Of The World」に影響されたものと見られている。両者、歌詞的に共通するものはまるで無いのだが。

ミシシッピ・シークスの歌詞に大幅に手を加え、オリジナルではフィドル(バイオリン)をフィーチャーしていたのに対して、ウルフのハープ、そしてヒューバート・サムリンのギターを中心とした典型的なシカゴ・ブルース・サウンドにアレンジして、この「Sitting On Top Of The World」は半世紀ぶりに甦った。

レコーディングメンバーはウルフ、サムリンのほか、ピアノのホセア・リー・ケナード、ベースのアルフレッド・ウィルキンス、ドラムスのアール・フィリップス。

そして、60年代の英国のブルース・ブームにより、白人ロックミュージシャン達もこの曲に注目して演奏するようになる。

いうまでもなく、かのクリームである。

クリームの初の2枚組アルバム「Wheels Of Fire」(68年リリース)でスタジオレコーディングされた本曲は、さらに翌69年にリリースされた「Goodbye Cream」にてライブ版が収録された。

そして、この曲や「Spoonful」をカバーした縁で、1970年にはウルフと元クリームのエリック・クラプトンの共演が実現、「The London Howlin’ Wolf Sessions」というアルバムが翌71年リリースされることになる。

そのアルバムでは、ずっと憧れの対象であったギタリスト、サムリンとともに本曲を弾くクラプトンの様子を知ることが出来る。

ソロパートで、サムリンのトリッキーなスタイルを意識しながらも、少し抑えめに弾くクラプトン。ちょっと緊張しているのだろうか。

この曲、8小節ブルースの定型パターンに手を加えて、9小節にしたアレンジが、ちょっとイカしている。これは、ギターのサムリンの手柄と言えるだろう。

ウルフのどちらのバージョンも、彼のアンプを通さないハープの音色が一番耳に残る。

それはまさに鄙びたミシシッピを吹く風のような響きである。長らくシカゴにいても、ウルフはそのルーツであるデルタを強く感じさせるブルースマンなのだ。

この曲は、60年代にグレイトフル・デッドがカバーしたのをはじめとして、クリームでの歌い手であったジャック・ブルースが80年代に鈴木賢司、アントン・フィアとのセッションで再演したり、2000年代にはストライプスのジャック・ホワイトがアコースティック・アレンジで歌うなど、長い生命を保ち続けている。

いつの時代も、この曲の独特のメロディラインに魅せられるミュージシャンがいることの証明だろう。読者のみなさんにもぜひ、その魅力を再確認していただきたい。









音曲日誌「一日一曲」#402 ロイ・ブラウン「Good Rockin’ Tonight」(Deluxe)

2024-05-12 07:21:00 | Weblog
2024年5月12日(日)

#402 ロイ・ブラウン「Good Rockin’ Tonight」(Deluxe)




ロイ・ブラウン、1947年リリースのシングル・ヒット曲。ブラウン自身の作品。

米国のブルースシンガー、ロイ・ジェイムズ・ブラウンは1920年(または25年)、ルイジアナ州キンダー生まれ。本欄で取り上げてきたアーティスト達の中では、かなり早い時代に生まれている。

生まれてまる一世紀が経った今日では、本国でさえブラウンを知る者は少数派になってしまったが、実はこの人の影響力はとんでもなく強大である。

もし彼が登場することがなければ、ブラックミュージックのみならず、それにインスパイアされて生まれたロックンロール、ロックといった白人系音楽の様相も大きく変わっていたとまで言われる。

それらの全ては、彼の最初のヒット「Good Rockin’ Tonight」から始まったのだ。

ブラウンは、多くのシンガー同様、幼少期に教会でゴスペル音楽を学んで歌い始める。20代には郷里のルイジアナからロサンゼルスに移住、短期間だがプロのボクシング選手もやっている。

20代半ば、45年にチャンスがブラウンに巡ってくる。ビング・クロスビーの曲「There’s No You」を歌って、LAの映画館での歌唱コンクールで優勝する。翌46年、テキサス州ガルベストンに移り、ジョー・コールマン楽団で歌うようになる。その時すでに持ち歌として「Good Rockin’ Tonight」を作っていたという。

黒人ながら白人の曲もソツなく歌えるシンガーとして認められ、各地のクラブで活躍したのち、47年に郷里に戻る。

ニューオリンズのクラブで歌っていた頃、人気ブルースシンガー、セシル・ガント(1913年生まれ)と知り合いになり、彼の伝手でデラックスレーベルのオーナー、ジュール・ブラウンに「Good Rockin’ Tonight」を聴かせることができ、さっそく同レーベルと契約に至る。

ノリのいいジャンプ・ブルース・スタイルの本曲は、47年6月にレコーディングされ、シングルリリースされた。

これがいきなりヒットとなり、まったくの新人シンガーとしては異例のR&Bチャート13位となる。この様子を見た人気シンガー、ワイノニー・ハリス(1915年生まれ)はさっそくカバーシングルを出し、R&Bチャート1位を獲得する。その後、ブラウンは49年に再度チャートインし、11位にランクアップしている。

オリジナルとカバー版の連続ヒットにより、「Good Rockin’ Tonight」はその年最も売れたR&Bナンバーのひとつとなり、リスナーの記憶に強く残ったのである。

その証拠として、54年にデビューしてまもないエルヴィス・プレスリーが、この曲をセカンド・シングルとしてサンレーベルよりリリースしたことが挙げられる。その後もパット・ブーン、モントローズ、ブルース・スプリングスティーンらがカバーしている。

新人シンガーゆえに初戦は先輩シンガーにお株を取られるかたちになってしまったが、ブラウンはその後大躍進を果たす。

47年中にリリースしたセカンド・シングル「Long About Midnight」は、見事R&Bチャート1位となる。49年には「Good Rockin’ Tonight」の続編ともいうべき4枚目のシングル「Rockin’ At Midnight」をリリースして、R&Bチャートでひと月2位をキープする大ヒットとなった。

ブルースというよりも、すでにロックンロールに近い陽性のノリを持ったブラウンのサウンドは、その後約10年間R&B界を牽引し、10曲ほどのベスト10ヒットが生まれた。

その中には、以前取り上げたアルバート・キングの「Bad Luck Blues」の元となった「Hard Luck Blues」(1950年)というブルース曲もあったりする。

前掲のアーティスト達以外にも、ブラウンの曲をカバーしたミュージシャンは数多い。ざっと挙げるなら、ポール・マッカートニー、リッキー・ネルスン、ジェリー・リー・ルイス、ジェイムズ・ブラウン、ドアーズなどキリがない。

黒人ブルースシンガーには、その特徴ある唱法が大きな影響を与えているようだ。メリスマと呼ばれる、こぶしを効かせたスタイルである。B・B・キング、ボビー・ブランド、リトル・リチャードといったあたりが代表例と言えるだろう。

つまり、ロイ・ブラウンこそは、ブルース、R&Bが50年代にロックンロールへと変化、進化していくきっかけを作ったアーティストのひとりなのである。

彼自身の音楽は、その大きな変化の渦に巻き込まれて、時代の経過とともに忘れ去られてしまったが、彼にインスパイアされた人々が大成功することによって、その遺伝子はしっかりと根付いた。

ロックンロールの源流、ロイ・ブラウンのご機嫌なジャンプ・ブルースで、今宵もロッキンしようじゃないか、ブラザー。






音曲日誌「一日一曲」#401 バディ・ガイ「Someone Else Is Steppin’ In(Slippin’ Out, Slippin’ In)」(Silvertone)

2024-05-11 09:06:00 | Weblog
2024年5月11日(土)

#401 バディ・ガイ「Someone Else Is Steppin’ In(Slippin’ Out, Slippin’ In)」(Silvertone)





バディ・ガイ、1994年リリースのアルバム「Slippin’ In」からの一曲。デニス・ラサールの作品。エディ・クレーマーによるプロデュース。

おん年87歳の大御所ブルースマン、バディ・ガイについては「一枚」で3回、「一曲」で2回取り上げている。いまさらその偉大さについて繰り返し語るのもどうかと思うが、やはり今日のブルース・シーンにおいて最古参にして最重要人物なので、くだくだしくはあるがまた取り上げてみたい。

バディ・ガイことジョージ・ガイは1936年、ルイジアナ州レッツワース生まれ。小作農の息子に生まれ、自作の簡易楽器ディドリー・ボウを出発点としてギターを弾くようになり、今日に至るまで約80年間、ずっとギターを友としている。

10代半ば、州都バトンルージュでクラブ出演をするようになり、57年、21歳でシカゴへ移住、マディ・ウォーターズの元で腕を磨いた。コブラ傘下のアーティスティックレーベルで初のレコードをリリース。

続いて60年チェスに移籍、69年頃まで現在に至る代表曲の大半をシングルリリースする。アルバムは67年になりようやく1枚だけが出る。

ガイはチェスレーベル内ではあまり評価されておらず、ソロアーティストというよりは、便利なセッションギタリスト的な扱いであったのだ(マディのほか、リトル・ウォルター、サニーボーイ二世、ココ・テイラーらのバックを担当)。

その一方で、65年頃からハープのジュニア・ウェルズとのデュオがスタートする。当初は変名でレコードをリリースしていたが、チェスを抜けることにより、そのデュオ活動がガイのメインとなって行く。

70年代はアトランティックレーベルなどいくつかのレーベルよりウェルズとのデュオ作品をリリースしたのち、80年代から次第にソロ中心の活動に切り替えていくが、その後半はアルバムリリースもいったん途絶えてしまう。

90年代、シルバートーンレーベルに移籍して、再びガイの活動が活発になる。91年リリースのアルバム「Damn Light, I’ve Got the Blues」を皮切りに、94年までに3枚のアルバムをリリース、いずれも高い評価と好セールスを得る。

本日取り上げた一曲「Someone Else Is Steppin’ In(Slippin’ Out, Slippin’ In)」は、94年リリースの3枚目のアルバム「Slippin’ In」に収録されている。同アルバムはグラミー賞の最優秀コンテンポラリー・ブルース・アルバム賞を受賞した。

まずは曲を聴いていただこう。ガイのテンション高いシャウトがなんとも印象的な、躍動感にあふれるファンク・ブルース・ナンバーだ。

この曲の作者は、デニス・ラサール。1934年生まれの女性ブルース・シンガーだ。彼女は60年代後半より約50年間活動したブルースの女王的存在であり、また曲作りにもたけていた。「Trapped by a Thing Called Love」「Now Run And Tell That」「I’m So Hot」などが代表的な彼女の作品だ。

80年代、ラサールはソングライターとしてマラコレーベルと契約、本欄で以前取り上げたこともある、ジー・ジー・ヒルのためにも曲を書いた。そのひとつが本曲なのである。

ヒルによるオリジナル・バージョンは、81年の大ヒットアルバム「Down Home」に続く82年リリースのアルバム「The Rhythm and The Blues」に収められている。

ヒルの歌も、もちろん素晴らしい出来で、批評家の高い評価を獲得している。そのディープでしかも張りのあるシャウトは、ヒルならではのものだ。84年には作者ラサール自身によるセルフカバーも、リリースされた。

この曲は、いわゆる「NTR(Netorare)’という、ブルースでしばしば取り上げられるトピックがテーマとなっている。

恋人の家に着いて錠を開けようとしたら、自分の鍵は合わなくなっていた時の衝撃、信じていた恋人に裏切られた悲しみが、ストレートに表現されたナンバー。

大人同士の恋愛感情のもつれを、女性ならではの鋭いセンスで歌にした「Someone Else Is Steppin’ In」。

こういうブルースは、誰にでも書けるものではない。人生経験の豊かな者だけが、書きうる歌詞だろう。

そして誰にでも、すなわちどの年代のシンガーにでも、歌えるものではない。

バディ・ガイ、ジー・ジー・ヒル、デニス・ラサール。いずれも50歳前後の年齢になって、この曲をレコーディングしている。

ブルースを歌って、聴き手の心を強く動かせるのは、やはりそのくらいの年代になってからなのである。

熟成した味わいの、哀感に満ちたブルース。手だれのブルースシンガー3人の至芸を、堪能してくれ。








音曲日誌「一日一曲」#400 リー・ドーシー「Get Out Of My Life, Woman」(Amy)

2024-05-10 07:35:00 | Weblog
2024年5月10日(金)

#400 リー・ドーシー「Get Out Of My Life, Woman」(Amy)





リー・ドーシー、1965年12月リリースのシングル・ヒット曲。アラン・トゥーサンの作品。トゥーサンによるプロデュース。

米国のR&Bシンガー、アーヴィング・リー・ドーシーは1924年ルイジアナ州ニューオリンズ生まれ。幼なじみに有名シンガー、ファッツ・ドミノがいる。

10歳の時に家族と共にオレゴン州ポートランドに移住。格闘技を始め、20代はプロボクサーを志していたが成功せず、30歳を過ぎてニューオリンズに戻り、自動車修理業につく一方で夜はクラブで歌うようになる。

初レコーディングはレックスレーベルからのシングル「Rock Pretty Baby」。その後もシングルをリリースしたが、いずれも不発に終わる。30代半ばの60年頃、フューリーレーベルと契約。

パーティで名プロデューサーのアラン・トゥーサン(1938年生まれ)と出会い、彼のバックアップによりシングル「Ya Ya」を61年にリリース、これがいきなりR&Bチャート1位、全米7位の特大ヒットとなる。

全米級の知名度を得たドーシーは、その後同年の「Do Re Mi」がR&Bチャート22位、全米27位のヒットとなるものの、3年以上不発状態が続く。

このままただの一発屋で終わるかと思いきや、起死回生のヒットが出る。65年リリースのシングル「Ride Your Pony」である。この曲でR&Bチャート7位、全米28位を獲得、再びドーシーは世間の注目を浴びるようになる。

そして同年末リリース、「Ride Your Pony」の勢いを借りて再度ヒットしたのが、本日取り上げた「Get Out Of My Life, Woman」である。

彼の多くの曲同様、トゥーサンが作曲、プロデュースした本曲は、R&Bチャート5位、全米44位の輝かしい成績をおさめた。

12小節ブルースである「Get Out Of My Life, Woman」は、1965年という制作時代を反映して、シャッフルではなく、軽く跳ねる8ビートなのが大きな特徴である。微妙に従来のパターンと異なるコード進行にも、トゥーサンならではのアイデアが感じられる。

ピアノのトゥーサンのほか、のちにミーターズとなるミュージシャンたちがバックをつとめており、これが本曲の新しさを生み出している。のちのニューオリンズ・ファンクの源流とも呼べるだろう。

「Ya Ya」で初ヒットを飛ばした61年頃のドーシーは、まだ従来の素朴なニューオリンズR&B路線を引きずっていたが、65年の彼は見事に時代の変化に合わせてサウンドをアップデートしたわけだ。

これはいうまでもなく、トゥーサンの卓抜した才能によるところが大きい。

シンプルだがパワーに溢れた、この曲の魅力に注目するアーティストはすぐに現れた。ポール・バターフィールド・ブルース・バンドである。

彼らが66年8月セカンド・アルバム「East West」でカバーしたことで、白人リスナーもこの曲への関心が強まった。ロック・バンド、アイアン・バタフライもカバーし、一方ソロモン・バーク、フレディ・キングら黒人アーティストもアルバムで取り上げて、名唱を残している。

ドーシーとトゥーサンのコラボはその後も続いて、「Working in the Coal Mine」「Holy Cow」(ともに66年)、「Yes We Can Can」(70年)などの名曲、ヒット曲を生み出した。

ひとの人生は、どういう人に出会うかで大きく変わるとよく言われるが、遅咲きでなかなか芽が出なかったリー・ドーシーの場合、まさにその好例だと言える。

ドーシーのホットでタフな歌声、これも大きな才能ではあるのだが、やはりその並外れた成功は、アラン・トゥーサンの時代の変化を察知し、先取りしていくセンス、作曲能力なくしては、あり得なかった。

トゥーサンとの出会いこそが、ドーシーの人生最大のターニング・ポイントなのだ。

ニューオリンズ・サウンドの代表選手、リー・ドーシーのイカしたロッキン・ブルースを、のちのカバー・バージョンと共に楽しんでほしい。






音曲日誌「一日一曲」#399 アルバート・リー「Country Boy」(A&M)

2024-05-09 13:45:00 | Weblog
2024年5月9日(木)

#399 アルバート・リー「Country Boy」(A&M)







アルバート・リー、1979年リリースのファースト・ソロ・アルバムからの一曲。リー自身の作品。ブライアン・エイヘムによるプロデュース。

英国のギタリスト/シンガー、アルバート・リーは1943年ヘレフォードシャー州リンゲンの生まれ。音楽家の父のもと幼少期よりピアノを学ぶ。バディ・ホリー、ジェリー・リー・ルイスらの米国のロックンロールに熱中し、10代半ばよりギターを弾き始める。

高校を中退してプロを目指すようになったリーは、R&B、カントリー、ロックンロールなど、数多くのバンドに参加する。最初の商業的な成功は、66年に結成されたクリス・ファーロー&サンダーバーズにおいてであった。

そのバンドでR&Bを主に弾いていたリーは、カントリーを弾きたい気持ちが高まって69年に脱退、同年ボーカルのトニー・コルトンと共にカントリー・ロックのバンド、ヘッド・ハンズ・アンド・フィート(HH&F)を結成する。ここで、リーは速弾きの名手としての高評価を得ることになる。

とはいえ、筆者的にはこのバンド、FMから時折り流れてくるのを聴いていたものの、右耳から左耳へとつつ抜けの状態で、まるで記憶に残らなかった。70年代初頭の当時、筆者はハード・ロックばかり聴いていて、カントリー・ロックにはほとんど興味がなかったためである。

HH&Fがバンド内の不仲により72年末に解散したのち、リーはセッション・ミュージシャンとしての活動が中心となり、米国のカントリー系シンガー、エミルー・ハリスのバックバンドでも活躍した。

筆者が初めてリーの名前と容姿を認識したのはその頃で、73年にジェリー・リー・ルイスが渡英して英国の若手ミュージシャンたちと共演したアルバム「The Session…Recorded in London with Great Artists」をリリースした時である。

セッション風景の写真に、ピーター・フランプトン、ロリー・ギャラガーらと一緒に、愛器のテレキャスターを弾く小柄なリーの姿があった。しかし、その時も他の人気ミュージシャンたちの陰に隠れてしまい、リーのプレイもさほどに印象に残らなかった。

そこから約7年後。筆者はついにアルバート・リーというギタリストの凄さを思い知ることになる。そう、エリック・クラプトンと共演した80年リリースのライブ・アルバム「Just One Night」においてである。

ここでのリーのプレイは見事のひとことであった。クラプトンとはまったく異なるスタイルを持ち、かつクラプトンを上回るスピーディなギター・プレイには、正直度肝を抜かれたリスナーも多かったはず。

「こいつ、もしかしてECを超える才能じゃね?」「世の中、上には上がいるものだな」と内心思わずにはいられないリーのプレイだった。

一例を挙げると「Further On Up The Road」後半での、クラプトンを完全に食ったソロ。これはホンマにスゴい。

リーは78年以降、83年までクラプトンのバンドに加わっており、「Just One Night」のほか、「Another Ticket」「Money and Cigarettes」のレコーディングにも参加した。

その一方で、リーは79年、ついに最初のソロ・アルバムをA&Mレーベルからリリースする。本日取り上げた一曲「Country Boy」の収められた「Hiding」である。

当アルバムは、長年のセッション・ワークやECのバンドでのプレイを認められた彼が、周囲の期待に応え、満を持して発表した一作と言えるだろう。本来、彼自身が最もやりたかったサウンドが、そこに満ち満ちている。

「Country Boy」はその中でも、一番彼らしいカントリー・ミュージック一色の、アップテンポのナンバー。フィドルも加わって、陽気で賑やかな音作り。ボーカルも彼自身がとっており、いなたいムードが漂っていてグッド。

そして何より、リーのスピーディでパーフェクトなギター・プレイが、聴くもの全員をノックアウトする。

アルバム音源だけでは物足りない向きのために、ライブ映像も合わせて聴いていただこう。オリジナルから30年以上が経った、2010年のBBCライブである。

もともと高かったギター・テクニックも、さらに磨きがかかり、神がかってさえいる。

このくらい物スゴい演奏を聴いてしまうと、ただただ驚嘆し、賛美するしかないよな。

「音楽の才能は90パーセント遺伝する」と言われているが、リーのパフォーマンスを目の当たりにすると、この言葉に完全に同意してしまう。

筆者を初めとして私たち凡才の大半には、到底辿り着けない高みに、リーは到達している。

でも、音楽を楽しむ姿勢においては、リーも我々も何も変わるところはないと思う。それぞれのレベルで音を奏でて、エンジョイすればいいのだ。

音楽は、彼のようなバーチュオーゾだろうが、素人や子供だろうが、世界中の人間に等しく与えられた果実。

皆で仲良くシェアしようではないか。

音曲日誌「一日一曲」#398 藤竜也「ヨコハマ・ホンキー・トンキー・ブルース」(RCA)

2024-05-08 09:24:00 | Weblog
2024年5月8日(水)

#398 藤竜也「ヨコハマ・ホンキー・トンキー・ブルース」(RCA)





藤竜也、1977年リリースのシングル・ヒット曲。藤本人の作詞、エディ藩作曲。

俳優、藤竜也は1941年中国北京市の生まれ、本名・伊藤龍也。映画「Death Note」の夜神月役の人ではない。念のため(笑)。

父親の戦死により植民地の中国より日本に引き揚げ、おもに横浜や葉山で育つ。日大芸術学部演劇科在学中にスカウトされて日活に入り、62年にスクリーンデビュー。個性的な脇役、ライバル役を演じて、独特の雰囲気で人気を獲得する。

彼が最も注目されたのは1976年、30代半ばで大島渚監督の映画「愛のコリーダ」で主役吉蔵を演じた時だ。あえてその詳細を書くことは避けるが、その演技は一大センセーションを呼ぶ。

この作品は藤の知名度を一気に押し上げることになったものの、「初の◯番俳優」的な扱いを受けることに相当なストレスを感じたのであろう、藤はしばらく映画制作の現場から離れることになる。

そのかわりに藤が選んだのが、音楽活動である。藤はもともと俳優の余技として、レコードを出していた。1974年にシングル「花一輪/夢は夜ひらく」でデビュー、翌年には「茅ヶ崎心中」もリリース、アルバム「藤竜也」も出している(74年)。

これらはどれも演歌調やフォーク調で、いかにも日本的なイメージの曲であり、語り・ナレーション中心だった。流行歌というよりは、藤竜也ファン限定の、ファン・サービスだったというべきだろう。

この路線は、藤自身としては正直あまり好みではなかったのか、サード・シングルで、思い切ったイメージ・チェンジを図った。それが本日取り上げた76年リリースの「ヨコハマ・ホンキー・トンキー・ブルース」である。

ここで「あれ?」と思われた方も多いに違いない。「ヨコハマ・ホンキー・トンク・ブルースじゃあないの?」と。

実はそのタイトルは、のちにこの曲を他のアーティストがカバーした時に改題された時のものなのである。オリジナル・シングルは、あくまでも「ヨコハマ・ホンキー・トンキー・ブルース」なのだ。(下の画像はそのジャケット)


この曲は、語りの部分を含めて歌詞を藤本人が書き、作曲を元ザ・ゴールデン・カップスのギタリスト、エディ藩(1947年生まれ、本名・藩廣源)に依頼した。

藩は1972年1月のカップス解散後、オリエント・エクスプレスというバンドを率いて、新たな音を模索しているところだった。

藤は若干の年齢差はあるものの、同じ横浜育ちの藩の活動に対して強いシンパシーがあったのだと思う。傍目にはちょっと意外と思われるコラボレーションだったが、これが実に上手くいった。

ヘミングウェイに憧れて、夜のハマの酒場(決して居酒屋ではなく、あくまでもバーである)でひとり呑み続ける男。これが、本来の藤竜也の姿だった。

筆者は格別の藤ファンではないので、当時のファンの人たちがこの曲をどのように受け止めたかは、想像してみるより他にないが、おそらくボカーンと口を開けて聴いていた、そんな感じではなかったかと思う。

この曲で藤竜也は、これまでの「居酒屋で日本酒を呑む男」のイメージを見事に覆し、アメリカ風の酒場でバーボンウィスキーを嗜み、演歌ではなくブルースを口ずさむダンディとなったのである。

さっそく、この藤のダンディズムに心酔した男がいた。同じ俳優、松田優作である。

1949年生まれの彼は、当時25歳。前年、テレビドラマ「太陽にほえろ」に出演して以来注目されていた若手俳優だった彼は、この「ヨコハマ・ホンキー・トンキー・ブルース」の世界に惚れ込んだ。

76年に歌手としてもデビューした松田は、4年後の80年にリリースしたサード・アルバム「TOUCH」で、ついにこの曲をカバーする。「YOKOHAMA HONKY TONK BLUES」のタイトルで。語呂としては、こちらの方がよかったからだろう。編曲は竹田和夫。

翌81年には工藤栄一監督の映画「ヨコハマBJブルース」で、売れないブルースシンガーにして私立探偵のBJという役どころで主演するが、この挿入歌のひとつとして、上記の「YOKOHAMA HONKY TONK BLUES」が選ばれた。

このアルバムと映画のダブルコンボにより、本曲はスタンダードとなったと言っていい。

82年には、松田も畏敬する先輩俳優、原田芳雄がライブ・アルバム「原田芳雄ライブ」にて、この曲を取り上げて歌っている。原田をプロデュースした宇崎竜童も自分のレパートリーとしている。

さらには、作曲したエディ藩も現在に至るまで、メインのレパートリーとして歌っているのだ。

藤竜也という、歌い手としてはプロといえない人の50年前の持ち歌が、ここまで支持されたのは、歌詞、メロディ、それぞれの持つ魅力によるものだろう。

米国の黒人ブルースを下敷きとしながらも、日本語ならではの響きを生かした、ジャパニーズ・ブルースの稀有な成功例だ。

今日もこの国のどこかで、有名・無名を問わず多くのミュージシャンによって、この曲はオーディエンスの心を震わせることだろう。




音曲日誌「一日一曲」#397 カルロス・ジョンスン「I’ll Play The Blues For You」(P-Vine)

2024-05-07 09:02:00 | Weblog
2024年5月7日(火)

#397 カルロス・ジョンスン「I’ll Play The Blues For You」(P-Vine)





カルロス・ジョンスン、2007年2月リリースのライブ・アルバム「Live At B.L.U.E.S. On Halsted」からの一曲。ジェリー・マーロン・ビーチの作品。高地明、マサキ・ラッシュ、ジョンスン自身によるプロデュース。シカゴのブルースクラブ「B.L.U.E.S.」にて録音。

米国のブルースマン、カルロス・ジョンスンは1953年、シカゴ生まれ。70年代よりブルースギタリストとして活動していたが、広く名前を知られるようになるのはかなり遅く、2000年、ハーピストのビリー・ブランチ率いるザ・サンズ・オブ・ブルース(SOB)に参加して、アルバムにも名を連ねたあたりからだろう。

ルリー・ベル、カール・ウェザーズビーといった前任のギタリストに代わって、無名に近いが技術・フィーリング共に卓越したギタリストが登場したことで話題になる。またリードボーカルも2曲担当しており、歌うことにも積極的な姿勢が感じられた。

彼は実は1989年、女性シンガー、ヴァレリー・ウェリントンのバックミュージシャンとして来日、ライブ演奏を披露していた。その時一部のコアなファンには、そのギタープレイを注目されていたようだ。

SOBでのレコードデビューに続き、翌2001年にはソロ・アルバム「My Name Is Carlos Johnson」をブルース・スペシャルレーベルよりリリース。

以後はブランチとのデュオによる「Don’t Mess With The Bluesmen」を2004年、またセカンド・アルバム「In And Out」を同年にリリースしている。

本日取り上げた一曲が収められたライブ・アルバムは、日本のブルースレーベル、Pヴァインが企画制作した。日本にも熱烈なジョンスンのファンが増えて来ており、その希望に応えたということなのだろうが、その理由は何かといえば、間違いなく2004年のジョンスン来日が引き金だろう。

2004年春のジャパン・ブルース・カーニバルの目玉は、ベテラン・ブルースマン、オーティス・ラッシュの出演だった。

ところが、その年の初めにラッシュは脳梗塞で倒れており、その後遺症で立つこともギターを弾くことも叶わず、来日公演が危ぶまれていた。

しかしなんとか公演は実現する。代任ギタリストとして、ジョンスンに白羽の矢が立ったのである。

筆者もそのブルース・カーニバルでラッシュとジョンスンを観ることが出来たのだが、渾身の力で歌い切るラッシュに感動したのはもちろんのこと、そのバックで火が出るようなプレイをするジョンスンにも、胸を熱くしたものだ。

筆者だけでなく、他のオーディエンスにもジョンスンの名は強く刻まれたのである。

そんな背景のもと、ジョンスン本人のほか、ラッシュ夫人で日本出身のマサキさん、Pヴァインの創始者高地氏がプロデューサーとなって、ジョンスン地元のシカゴでのライブをレコーディングした。これが、実に良質のブルース・アルバムとなったのである。

演奏メンバーは、ジョンスンのほか、ベースのサム・グリーン、キーボードのデイヴ・ライス、ドラムスのジェイムズ・ノウルズ、そしてホーン・セクション。

このバンドが生み出すサウンドが、この上なくブルースそのものなのだ。

本日取り上げた一曲「I’ll Play The Blues For You」はもちろん、アルバート・キングが72年にリリース、R&Bチャート1位の大ヒットとなったシングルナンバー。

作曲者はジェリー・ビーチ(1941年生まれ)。彼は自身もブルースミュージシャンであったが、この曲をキングに提供したことによって、ソングライターとしての最高の栄誉を獲得した。同曲はグラミー賞にノミネートされ、2017年にはブルースの殿堂入りも果たしている。

キングのオリジナルバージョンは、終始ゆったりとした静かめなムードにアレンジされているが、ジョンスンのライブは、わりと起承転結がはっきりとしている、非常にドラマティックな構成だ。

前半はジョンスンのギターソロから始まり、彼の歌に続く。

ライスによるピアノソロ、オルガンソロがそれを引き続くが、ここまではわりとジャズィなスタイルで、落ち着いた大人なブルースである。

しかし、再びジョンスンがギターソロに入ったあたりから、彼本来のスクウィーズ・スタイルが炸裂して、オーディエンスにも熱が飛び火していく。まさに、ブルースの醍醐味だ。

そこでちょっとクール・ダウンした後、後半の怒涛の展開に突入。

執拗なスクウィーズの繰り返しが、ライブ会場全体を興奮の坩堝に叩き込む。

えげつないまでにギターの音色は歪み、本曲は最高潮のうちにエンディングを迎えるのだった。

ジョンスンは、左利きのギタープレイヤーのひとりだが、レフティ用に作られたギターではなく、通常の右利きギターを逆に持って弾くというやり方を取っている。

そう、これはジョンスンも敬愛するふたりのレフティ・ブルースマン、オーティス・ラッシュとアルバート・キングが弾いているスタイルなのである。

そのふたりが乗り移ったかのような、白熱のプレイ。掛け値なしにスゴい。間違いなく、現役ブルースマンの中で、最高峰のギターを弾くひとりだと言える。

カルロス・ジョンスンは、その抜きん出た実力に比べて、知名度、レコードの枚数、セールス実績など、すべてが過小評価されているアーティストである。来日公演も途絶えて久しい。

今年71歳。ブルースマンとして、そろそろ集大成となるアルバムを出してもよい頃合いだ。ぜひ新作をリリースして、われわれブルース・ファンを喜ばせてほしいものだ。






音曲日誌「一日一曲」#396 ザ・シャドウズ「Apache」(Columbia)

2024-05-06 08:03:00 | Weblog
2024年5月6日(月)

#396 ザ・シャドウズ「Apache」(Columbia)





ザ・シャドウズ、1960年7月リリースのシングル・ヒット曲。ジェリー・ローダンの作品。ノーリー・パラマーによるプロデュース。

英国のインストゥルメンタル・ロック・バンド、ザ・シャドウズは1958年結成。

シンガー、クリフ・リチャードが「Move It」(58年2月リリース)のシングルヒットによりバックバンドが必要となり、ニューキャッスルのバンド、ザ・レイルローダーズのメンバー、ハンク・マーヴィン(g)、ブルース・ウェルチ(g)、ロンドンのバンド、ザ・パイパーズ・スキッフル・グループにいたジェット・ハリス(b)、トニー・ミーハン(ds)が選ばれてスタートした。

結成当初はザ・ドリフターズというバンド名であったが、米国の同名バンドから訴訟される可能性が出て来たことにより、59年7月にザ・シャドウズと改名している。

当初は「クリフ・リチャード&ザ・シャドウズ」としてもっぱらリチャードの歌伴奏を務めていたが、彼抜きのインストゥルメンタル・ナンバーが予想外の大ヒットになったことがきっかけで、独立してレコードを出すようになった。

そのきっかけの一曲が、本日取り上げたシングル「Apache」である。

このインスト曲は英国のシンガーソングライター、ジェリー・ローダン(1934年生まれ)が作曲した。タイトルは54年の米国の西部劇映画「Apache」から取られた。

ローダンはこれを60年初頭にギタリスト、バート・ウィードン(1920年生まれ)にレコーディングさせたが、それがしばらくリリースされることはなかった。

その埋もれていたナンバーがなぜシャドウズのレパートリーになったかというと、こんないきさつがある。

1960年春、シャドウズはローダンをサポートしてツアーを続けていたのだが、その最中にローダンがウクレレでこの曲のメロディを弾いていたのに惹きつけられ、ローダンの勧めもあって6月にレコーディングすることになる。

結果として、この曲はシャドウズ版が一番最初にリリースされることになった。また、これに刺激されて、ウィードン版も急遽リリースされている。

シャドウズ版は5週連続全英1位というスーパー・ヒットを記録し、63年までにミリオンを売り上げた。一方、ウィードン版は全英24位止まりだった。

もともとウィードンが先にレコーディングした曲で大当たりを取って、彼の影をすっかり薄くしたことへのお詫びとして、マーヴィンとウェルチは61年、ウィードンのために「Mr Guitar」という曲を書いた、なんてこぼれ話もある。

さて、シャドウズ版と、ウィードン版とを合わせて聴き比べてみてまず感じるのは、前者の方が、原曲の持つ哀感をより繊細なタッチで浮かび上がらせてることだろう。

ウィードンのギターはちょっとガチャガチャうるさいというか、陽気すぎるのに対して、シャドウズのマーヴィンが弾くギターは、少し抑え気味に、そして緩急のメリハリをつけて、曲の持つ気品をうまく引き出すことに成功していると思う。エコーとギターのトレモロバーをうまく使っていることも大きい。

よりドラマティックなムートを漂わせるシャドウズ版に軍配が上がったのもやむなし、であろう。

そしてこの曲の超特大ヒットにより、ハンク・マーヴィンという長身の眼鏡男は、英国一影響力を持つギタリストとなった。

彼にインスパイアされてエレクトリック・ギターを始めたロック少年は、もの凄い数になるだろう。その中には、のちにプロ中のプロになった者も多数いる。

例えば、ジョージ・ハリスン、デイヴィッド・ギルモア、ブライアン・メイ、エリック・クラプトン、ジミー・ペイジー、ジェフ・ペック、マーク・ノップラー、ピート・タウンゼントなどなど、枚挙にいとまがない。

また、海を越えて、米国・カナダにもニール・ヤング、フランク・ザッパ、カルロス・サンタナといった、本国よりは少数だが、熱烈な支持者がいる。

日本では、シャドウズ単体の人気がほとんど出ず、エレキバンドとしてはそれを後追いし、カバーした米国のベンチャーズの陰に隠れてしまった。まことに残念である。

ところで、マーヴィンのサウンドの魅力は、愛用のフェンダー・ストラトキャスターの音の魅力でもある。そのギターとしての高い完成度は、繊細で微妙なタッチ、ニュアンスを表現するのに、最もふさわしいモデルだと言える。

彼は自分と似た風貌の米国のシンガー/ギタリスト、バディ・ホリーからの影響でこのストラトキャスター・モデルを選んだようだが、それはまさに正解であった。

「Apache」のメロディはごくごくシンプルに見えるが、実際にギターを手に取って弾いてみると、なかなか奥深いものを感じさせる曲である。

一見、簡単にマーヴィンのように弾けそうだと思ってトライしてみても、実は彼の完成された域にはなかなか到達しない。そのあたりが、シャドウズ・サウンドが英国のロック少年、ギター少年たちを熱狂させ、虜にした秘密なのかも知れない。

ロック・ギタリスト達が信奉するギタリスト、ナンバー・ワン。ハンク・マーヴィンの美技、妙技にこの曲で酔ってみよう。




音曲日誌「一日一曲」#395 ジ・アロウズ「I Love Rock’n’ Roll」(Rak)

2024-05-05 09:14:00 | Weblog
2024年5月5日(日)

#395 ジ・アロウズ「I Love Rock’n’ Roll」(Rak)





ジ・アロウズ、1975年リリースのシングル・ヒット曲。アラン・メリル、ジェイク・フッカーの作品。ミッキー・モストによるプロデュース。

英国のロック・バンド、ジ・アロウズは1974年、米国出身のボーカル/ベース、アラン・メリル、同じくギターのジェイク・フッカー、英国出身のドラムス、ポール・ヴァーリーの3人がロンドンにて知り合い、結成。

同年、シングル「Touch Too Much」でRakレーベルでデビュー。プロデューサーは、アニマルズ、ハーマンズ・ハーミッツ、スージー・クアトロなどのプロデュースで著名なミッキー・モストだ。

ファースト・シングルが全英8位となり、まずまずのスタート。アロウズはポップなサウンドで、ミーハーな10代女性リスナー向けの、アイドル・バンド的な立ち位置であった。

そんな彼らがロック史上、重要な価値を持つ曲を翌75年に出した。それが、本日取り上げた「I Love Rock’n’ Roll」である。

この曲の大半を書き、またメインの歌い手でもあったアラン・メリルについて、少し語らせていただこう。

メリルはその名が示すように、名ジャズシンガーのヘレン・メリルの長男である。1951年、ニューヨーク・シティに、ジャズサックス奏者アーロン・サクスとヘレンの子、アラン・プレストン・サクスとして生まれる。

メリルは、スイスやLAなどで両親とも離れた生活を送ることが多かったが、母が在日勤務のドナルド・ブライドン氏との再婚により渡日したこともあり、10代後半、60年代末に日本に移住。

ニューヨークにいた頃よりプロのミュージシャンを目指していたメリルは、日本で外国人GS、ザ・リードに加入。バンドはまもなく解散してしまい、メリルは日本を離れて渡欧するも成功は得られず、再来日する。

70年に渡辺プロと契約、ソロ活動を開始する。同事務所のロック・パイロット、タイガースとも共演。翌71年にはソロアルバム、シングル「涙」をリリース。

その作曲者、かまやつひろしや大口ヒロシらと72年にウォツカ・コリンズを結成、翌年ファースト・アルバムをリリースする。同バンドではかまやつと共にリードボーカルもつとめた。

こうして、日本のミュージック・シーンに馴染んできたメリルだったが、渡辺プロとの契約問題が発端で、再び日本を離れることになる。行く先は英国ロンドン。

そこでメリル主導のバンド、アロウズを作ったのであった。ファーストとセカンドシングルのヒットで人気バンドとなり、彼らのバンド名を冠したテレビのレギュラー番組まで持ったものの、1stアルバム「First Hit」はさしたるセールスを上げられなかった。

やはり、シングル主導型のティーン向けポップ・バンドということで、多くのロック・リスナーはソッポを向いていたのである。

実は「I Love Rock’n’ Roll」という曲は、最初のシングルリリース時(75年)は「Broken Down Heart」というソングライターによる曲のB面であった。それまでにリリースされたシングル3曲も、A面は全てバンド外のソングライターによるものであった。

メリルは75年当時リリースされたローリング・ストーンズの「It’s Only Rock’ n’ Roll」への茶化し、カウンターソングとしてこの曲を書いたという。

そしてオリジナルゆえに思い入れがひときわ強かったのだろう、メリルは再録音してAB面を入れ替え、翌年再度シングルリリースしたのである。このアクションなくしては、のちの時代にカバーされるようなことはなかったに違いない。

つまり、アロウズは「I Love Rock’n’ Roll」で初めてバンドとして主体的に自作曲を世に送り出したのである。

その影響は、6年後、一枚の超特大ヒットというかたちで実を結ぶ。

ガールズバンドの先駆け、ザ・ランナウェイズ出身のギタリスト、ジョーン・ジェットと彼女の率いるザ・ブラックハーツによる、カバーシングルである。

82年1月にリリースされたこの曲は、全米7週連続1位という輝かしい記録を打ち立てた。

ジェットはランナウェイズ在籍中の76年、英国ツアー中にアロウズの冠番組を観てこの曲を知ったという。

そして、バンド解散後、79年に元セックス・ピストルズのスティーヴ・ジョーンズ、ポール・クックと共にこの曲をレコーディング、シングル「You Don’t Own Me」のB面としてリリースしている。

ジェットはよくよくこの曲を気に入っていたのだろう、81年末にブラックハーツをバックに再録音して、世に出したのである。

つまりこの曲は、本当に世間にアピールし、ビッグヒットとなるまでに、再三レコーディングを繰り返されて来ている。それだけ、魅力と生命力のあるナンバーなのだ。

その後もこの曲は、ブリトニー・スピアーズ、ドラゴン・アッシュ(「I Love Hip Hop」とタイトル変更)といった様々なアーティストにカバーされて、永遠のロック・スタンダードとなった。

2020年にコロナ禍の犠牲者となり、惜しまれながら69歳でこの世を去ったアラン・メリルが残した、最大の遺産。それはもちろん、この「I Love Rock’n’ Roll」にほかならない。

ロック・ミュージックの一大アンセム(賛歌)として、今後も多くのアーティストに愛され、歌い継がれていくに違いない。






音曲日誌「一日一曲」#394 タジ・マハール「Statesboro Blues」(Columbia)

2024-05-04 09:08:00 | Weblog
2024年5月4日(土)

#394 タジ・マハール「Statesboro Blues」(Columbia)






タジ・マハール、1968年リリースのファースト・アルバム「Taj Mahal」からの一曲。ブラインド・ウィリー・マクテルの作品。デイヴィッド・ルービンスンによるプロデュース。

米国の黒人シンガーソングライター、タジ・マハールは本名ヘンリー・セントクレア・フレデリックス。1942年、ニューヨーク・シティのハーレムに生まれ、少年期をマサチューセッツ州スプリングフィールドで過ごす。

父親がジャズピアニスト、母親が教師でゴスペルシンガーという音楽一家に育ったフレデリックスは、自然とギターやハープ等の楽器を習得し、地元の大学での学業のかたわら、ステージ出演もするようになる。

インドの史跡タジ・マハール霊廟にちなんだその名前は、当時からの芸名だ(ちなみにTaj Mahalの正しい発音は、タージ・マハルの方に近い)。

64年にロサンゼルスに移住、当時10代のライ・クーダーやジェシ・エド・デイヴィスらと知り合い、翌年バンド、ライジング・サンズを結成したが、66年にシングル「Candy Man」をリリースしただけで解散(のち92年にアルバムを1枚リリース)。

そのバンドがコロムビアレーベルと契約した縁で、同レーベルよりソロアーティストとしてデビューしたのが68年。本日取り上げた「Statesboro Blues」も、そのファースト・アルバムに収録されている。

ブルースに強く影響を受けた彼の音楽性は、シンガーソングライターが数多く登場した当時の中でも、際立った存在感を放っており、注目が集まる。68年にはローリング・ストーンズ主演のテレビ番組「ロックンロール・サーカス」にも出演して、広く世間にも知られるようになった。

「Statesboro Blues」は、もともとジョージア州出身の黒人ブルースマン、ブラインド・ウィリー・マクテル(1898-1959)の作曲したブルースナンバーだ。1929年にビクターレーベルよりシングルリリースされている。

タイトル中のステイツボローとは、マクテルの出身地トムソンに近いジョージア州の都市の名だ。そこでの思い出をベースに書かれた曲のようである。

実はタジ・マハールはライジング・サンズ時代に、この曲をすでにレコーディングしている。92年にリリースされたアルバムからの音源も、合わせて聴いていただこう。

このファースト・レコーディング、アップテンポの軽快なロックンロール・サウンドにアレンジされており、やたらと陽気でノリばかりはいいのだが、いまひとつ印象に残らないのである。正直言って。

しかし、2年後のソロ・バージョンはだいぶん雰囲気が異なる。ジェシ・エド・デイヴィスのスライド・ギターをメインに押し出したシャッフル・サウンドがなんとも心地いい。

このバージョンに大きく影響されて生まれたのが、そう、オールマン・ブラザーズ・バンドによるバージョンなのである。

アワ・グラスというオールマン兄弟が在籍していたバンドのメンバー、ポール・ホーンズビーの証言によれば、デュアン・オールマンがタジの初期ライブステージを観に行き、この曲の演奏を聴いたことで、それまで指弾きしかしなかった彼が、ボトルネックを使うようになったという。そのくらい、デイヴィスのスライド・ギターは衝撃的だったということか。

オールマンズは71年にこの曲をフィルモア・イーストで演奏して、同年そのライブ盤をリリースしている。

そこでのアレンジは、ほぼタジ版に準じたものとなっている。両者を聴き比べれば、それは明らかだ。いかにオールマンが、タジ版に感化されたかが伺える。

オリジナルのマクテル版は、ギターのみで弾き語られる、いかにも鄙びた雰囲気のカントリー・ブルース。これをエレクトリック化、そしてリズミカルにアレンジして、都会の音楽としたのがタジ・マハール。

ブルースとしての味わいを保ちつつも、ロックのセンスも加味した見事なアレンジメント。オールマンズ版をひたすら愛聴している皆さんにも、実はこんな見事なプロトタイプがあったのだということを、知っていただきたい。






音曲日誌「一日一曲」#393 ポール・バターフィールズ・ベター・デイズ「Too Many Drivers」(Bearsville)

2024-05-03 07:48:00 | Weblog
2024年5月3日(金)

#393 ポール・バターフィールズ・ベター・デイズ「Too Many Drivers」(Bearsville)






ポール・バターフィールズ・ベター・デイズ、1973年リリースのセカンド・アルバム「It All Comes Back」からの一曲。アンドリュー・ホッグ(スモーキー・ホッグの本名)の作品。ジェフ・マルダー、ポール・バターフィールド、ニック・ジェイムスンによるプロデュース。

ポール・バターフィールズ・ベター・デイズは、ブルースハーピスト、ポール・バターフィールドを中心に結成されたバンド。バターフィールド・ブルース・バンドを71年に解散後、ニューヨーク州ウッドストックに移住したバターフィールドが、当地で出会ったミュージシャンたちと作った。73年にレコードデビュー。

メンバーはバターフィールドのほか、ギターのエイモス・ギャレットとジェフ・マルダー、キーボードのロニー・バロン、ベースのビリー・リッチ、ドラムスのクリス・パーカーの6人。のちにスタッフなどのバンドやソロ活動で注目されることになる、実力派ミュージシャン揃いである。

同年リリースの、セカンド・アルバムのオープニング・チューンが本日取り上げた「Too Many Drivers」だ。

この曲は、直接的にはテキサス出身の黒人ブルースマン、スモーキー・ホッグ(1914年生まれ)の、47年リリースの自作シングル曲のカバーだが、こういう有名なブルース曲のご多分に漏れず、元ネタがある。

1939年にシカゴのブルース・ボス、ビッグ・ビル・ブルーンジーがリリースしたシングルがそれだ。作者はブルーンジー自身とクレジットされている。

歌詞はいわゆるダブル・ミーニングの典型例で、女性を自動車に例えている。魅力的な女性には、乗りたがる運転手(男)が多すぎるという、皮肉でエロティックな歌詞がなんとも可笑しい。

ホッグ版「Too Many Drivers」はテキサスではローカル・ヒットし、その影響からか、ライトニン・ホプキンスが49年に「Automobile」のタイトルでカバーしている(のちに「Automobile Blues」そして「Too Many Drivers」に改題)。

本曲は50年代にはR&Bグループのラークス、ブルースシンガーのウィリー・ラヴらがカバーしているが、なんといっても決定版は、先日も取り上げたばかりのローウェル・フルスンだ。

フルスンはこの曲を53年にスウィングタイムレーベルよりシングルリリースした。でも、より世間に知られているのは、60年代のケントレーベルでの再録音バージョンシングルだろう(66年リリースのアルバム「Soul」に収録)。

これにより、ブルース・ファンの多くは「Too Many Drivers」というと、真っ先にフルスンの名前を思い出すくらいになったのである。

ちなみにフルスンもホッグに敬意を表して、彼の名をクレジットしている。

さて、いよいよ本題のベター・デイズ版であるが、ギターをフィーチャーしたアレンジが大半であった過去のバージョンとは対照的に、バターフィールドのパワフルなハープを全面的にフィーチャーした構成になっている。

ホッグ版、フルスン版、ホプキンス版などよりはぐっとアップテンポで、アッパーなノリが聴く者を大いにエキサイトさせるナンバーである。

バックの演奏もタイトで実にイカしている。70年代らしくアップデートされたブルースだと感じる。

こういうロックの時代を反映したサウンドを生み出せるブルース系のバンドは、他にはなかなか生まれなかった。ベター・デイズは本当に希少な存在だと思う。

ところで、ブルースセッションに長らく関わって来た筆者の感想を述べるならば、日本でハープを吹くブルースミュージシャンは、ギタリストなどに比べると「守旧派」「保守派」が相当多いように感じる。

つまり、昔ながらのシカゴ・ブルース・スタイルをフルコピーして、それで満足している人が多い気がする。当然のように彼らは、バッキングも古いスタイルを好む傾向にある。

しかし、白人ブルース・ハーピストのパイオニア、ポール・バターフィールドは、そういうステージにとどまろうとはしなかった。新たな時代には新たなサウンドを求めて、次なるステージへと進んでいった。その大きな成果が、ベター・デイズのレコードだと思う。

現役時にはいまひとつ注目されることのなかったベター・デイズの音も、改めて聴き直してみると、本当に新鮮であり、際立った革新性を感じる。

日本のハーピストのみなさんも、懐古趣味ばかりに走らず、こういった進化形のブルースにも積極的にチャレンジして欲しいもんだ。

この「Too Many Drivers」は、次にリリースしたウインターランドでのライブ盤でも演奏しており、そちらもスタジオ版以上にパワーアップしたパフォーマンスが聴ける。合わせて楽しんでほしい。






音曲日誌「一日一曲」#392 クラレンス・カーター「Slip Away」(Atlantic)

2024-05-02 09:15:00 | Weblog
2024年5月2日(木)

#392 クラレンス・カーター「Slip Away」(Atlantic)





クラレンス・カーター、68年リリースのシングル・ヒット曲。ウィリアム・アームストロング、マーカス・ダニエル、ウィルバー・ティレルの作品。リック・ホールによるプロデュース。デビュー・アルバム「This Is Clarence Carter」に収録。

米国のソウル・シンガー、クラレンス・カーターは1936年、アラバマ州モンゴメリー生まれ。盲目ながら同州の州立大学を出て、音楽で理学士号を取得した俊英である。

音楽仲間のカルヴィン・スコットと組んだデュオでフェアレーンレーベルより「I Don’t Know (School Girl)」でレコードデビュー。続いてデュークレーベルでもシングルを何枚もリリースしたが、不発に終わる。

65年、同デュオはアラバマ州マッスル・ショールズのフェイムスタジオでプロデューサー、リック・ホールのもと「Step By Step」をレコーディング、アトコレーベルよりリリースしたが、これも不発。

66年にスコットが自動車事故で重傷を負ったため、カーターはソロで活動せざるを得なくなる。翌67年、フェイムレーベルよりリリースした「Tell Daddy」が初ヒット、R&Bチャートで35位となる。

この曲は同年、女性シンガー、エタ・ジェイムズにより「Tell Mama」のタイトルでカバーされ、R&Bチャート10位、全米23位の大ヒットとなった。これもあって、クラレンス・カーターはにわかにクローズアップされるようになる。

カーターは67年末にアトランティックレーベルと契約、快進撃が始まる。翌68年にリリース、R&Bチャート6位、全米6位の超特大ヒットを出す。それが、本日取り上げた「Slip Away」である。

この曲は、カーターのバックバンドのメンバーであるアームストロング、ダニエル、ティレルの共作。このうちふたりは前述の「Tell Mama」をカーターと共に作曲している。

筆者は10代の初めよりソウル好きを自認しながらも、恥ずかしながら「Slip Away」は長らく聴いたことがなかった。いや、クラレンス・カーターという盲目のシンガーの存在を、知ってはいた。中学1年の時に買ったアルバム「Led Zeppelin III」のレコードスリーブがアトランティックのアルバムカタログとなっており、カーターのデビューアルバムもそこにしっかり載っていたからだ。

しかし当時の筆者は、英米の白人ロックバンドをフォローするので手一杯。ソウルのアルバムまではとても買う余裕はなかった。そんな理由で、そのまま10代、20代は過ぎていった。

「Slip Away」の存在を知ったのは、そこから実に22年ほど経った1992年のことだ。前年末から日本でも公開された英米アイルランド合作映画「ザ・コミットメンツ」において、同曲が映画の主役であるローカルバンド、コミットメンツにより演奏されたのを聴いたのである。

独特のホンワカした雰囲気のソウル・バラード、でもその歌詞内容は不倫がテーマという「オトナ」な味わいを持つ「Slip Away」に筆者は強く惹きつけられたのである。そのオリジネーターはクラレンス・カーターであった。

その後、この曲に強い影響を与えたといわれる先行曲の存在も知るようになった。1938年生まれのR&Bシンガー、ジミー・ヒューズのヒット曲「Steal Away」である。

これはリック・ホールのフェイムレーベルからリリースされた1964年のシングル。8小節のブルースをベースとしたバラードだ。

このわりと型にはまった感じの「Steal Away」に比べると、4年後に生まれた「Slip Away」はだいぶん当世風で洒落たメロディとアレンジだが、どこか共通した明るいムードを持っているように思う。プロデューサーが共通していることが大きいのかも。

映画「ザ・コミットメンツ」にはもうひとつ、「The Dark End Of The Street」という不倫をテーマにした印象的なバラード(オリジナルはジェイムズ・カー)が演奏されているが、ソウル・ミュージックにおいては、こういった「道ならぬ恋」も重要な題材なのである。

この「Slip Away」もどうやら、作者のうちのひとりの実体験から生まれたものらしい。まったくの想像からだけでは、聴き手の心を揺り動かすような歌詞を生み出すことは難しいからね。

クラレンス・カーターのハスキーだがよく通る歌声に、マッスル・ショールズならではの、いなたいサウンド。これぞ、サザン・ソウルの粋だと思う。半世紀以上経とうが、まったくその魅力は色褪せていない。