「いたる 香林坊店」に食事の予約を入れ、ホテルから歩いて行く途中
尾山神社前を通り撮影
帰路、尾山神社へお詣り
利家公像
織田信長公に仕え、青年時代は赤母衣衆として従軍した
槍の名手だったため、「槍の又左」の異名をもって敵軍に怖れられた
前田利家の歴史 コチラを参照(刀剣ワールド)
お松の方像
前田利家公の正室で、学問や武芸をたしなむ才能豊かな女性であったと伝えられています
実母が利家公の母の姉で利家公とは従兄関係であり、利家亡き後は、芳春院と号しました
1547(天文16)年7月9日、尾張国海東郡沖島に篠原一計の娘として生まれた。
父の死去後、母が尾張守護斯波氏家臣の高畠直吉と再婚すると、
まつは母の妹が嫁いでいる尾張荒子城主・前田利昌に養育され、
満11歳で利昌の子で従兄弟にあたる前田利家に嫁ぐことになる。
なお、地元では沖島の郷主・林日開常信の子で前田利昌がもらい受け、
後に荒子の篠原主計の養女になったという説もある。
利家と結婚後、11歳から32歳までの約21年間で2男9女を産んでいる。
その子孫は近代以降の皇室にも血脈を伝えている。
1599(慶長4)年に利家が病死すると出家し芳春院と号する。
1600(慶長5)年、徳川家康から前田家謀反の嫌疑がかけられた際には、交戦を主張する利長を宥め、
それを解消させるため自ら人質となって江戸に下り14年間をそこで過ごした。
利長の死去後にようやく金沢への帰国が許され、1617(元和3)年に金沢城内で死去した。享年71。
参照:史跡探訪記
神門
明治8年の建築で、和漢洋の3つの建築様式を混用した異色の門
兼六園と共に金沢市のシンボルにともなっています
第1層には戸室石(角閃安山岩)を用いてあり
第3層は四面五彩のギヤマン(ステンドグラス)張り、もとは御神灯が点灯されていました
その放つ光は金沢の街を照らし、また遠く日本海を航行する船の目標たらしめたもの
なお第3層目に設置された避雷針は、日本最古のもの
静寂な境内には一人二人と途絶えることなく、ご参拝者が参ります
ライトアップされた境内から、金沢の街明かりが見え静かな時間が過ぎています
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