菩提梯(ぼだいてい)
三門と本堂を結ぶ287段の石段(高さ104m)
鎌倉時代、疫病や天災が相次ぐ末法の世、「法華経」をもってすべての人々を救おうとした日蓮聖人は
三度にわたり幕府に諫言(かんげん)を行いましたが、いずれも受け入れられることはありませんでした
甲斐国・波木井(はきい)郷の地頭・南部実長の招きにより身延に入山しました
日蓮聖人は鷹取山(たかとりやま)のふもとの西谷に構えた草庵を住処としました
それが、久遠寺の始まりといいます
そして、約9年をここで過ごし、法華経の講義や布教に励まれたそうです
その後、1281年に十間四面の大堂を建立し、「身延山妙法華院久遠寺」と命名
1282年、日蓮聖人は療養と両親のお墓参りのために身延山を下りて
常陸国(現・茨城県)へ旅立ちましたが、旅の途中で病状が悪化
そして、武蔵国・池上(現・東京都大田区)61歳で入滅(臨終)されました
お墓は身延山に建てられ「いずくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」
という日蓮聖人のご遺言のとおり、そのご遺骨は身延山に奉ぜられ、心霊とともに祀られました
その後、日蓮聖人の本弟子である六老僧の一人、日向(にこう)上人とその門流によって継承され
約200年後の1475(文明7)年、第11世日朝上人により
狭く湿気の多い西谷から現在の地へと移転され、伽藍(がらん)の整備がすすめられました
のちに、武田氏や徳川家の崇拝、外護(げご)を受けて栄え、1706(宝永3)年には、皇室勅願所ともなっています
日蓮聖人のご入滅以来実に700有余年、法灯は連綿と絶えることなく
廟墓は歴代住職によって守護され、今日におよんでいます
参照:身延山久遠寺HPより
※日蓮聖人の生家は、千葉・鴨川市の東部に位置し、青く澄んだ海とゆたかな緑に恵まれた小湊
日蓮宗の開祖として今も慕われる日蓮聖人は、1222年、この地に漁師の子として誕生しました
※池上本門寺 コチラ
久遠寺の三門
「空」「無相」「無願」の三解脱を表す
体力万全ではなく、三門前で撮影だけ (*´Д`)
斜行エレベーター前の西谷せいしん駐車場に停める
どんな階段か?境内上から覗いてみて、、(ホッ)
菩提梯
南無妙法蓮華経の7字になぞらえ、登り切れば涅槃に達する
らしい
鎌倉時代の西暦1281年に創建された日蓮宗の総本山
五重塔
創建当時の姿で、平成20年(2008)復元建立
天井画「墨龍」加山又造画伯
いつかいつかと思っていて、ようやく参りました
日本画家・加山又造画伯による天井画『墨龍』
身延山久遠寺を守護する『墨龍』は、11m四方、23,500枚の金箔に墨で描かれています
『墨龍』の高貴な龍の証である5本の爪には握られていません
それは誰もが仏様の心を生まれながらにして持っていることが説かれた法華経こそが宝珠であり
霊鷲山に等しい聖地、身延山で合掌する人々の心の中には
すでに宝珠が備わっていることを気づかせてくれています
出典:身延山久遠寺HP
お賽銭箱
日蓮宗甲斐身延山久遠寺の紋
祖師堂及び御供所
「棲神閣」
江戸時代に廃寺となった感応寺のお堂を、明治14年に移築・再建
報恩閣
身延山の総受付窓口
休憩室(バリアフリー)です
冷たいお茶を頂き、マンガもパラパラ拝見
境内の祖師堂前と仏殿前にある2本の枝垂れサクラ
樹齢約400年の巨木で、見頃には多くの観光客でにぎわう
売店の方から
「霧がかかり、奥之院からの眺望は残念ですね」
と言われ、、、
身延山ロープウェイで奥之院「思親閣」へ向かいます
奥之院 思 親 閣
吹く風立つ雲までも
東の方と申せば庵を出でて
身にふれ庭に立ちて見るなり
(光日房御書)
奥之院思親閣は、思親大孝の霊場
ガラガラと戸を開け、中でご参拝
山頂名物「くしきり団子」をいただきました
団子を渡してくれる時、目の前で「串(苦死)を切らせていただきます」
と言って串の先をチョキン渡してくれる縁起物のお団子
温かくて、クルミみそがたっぷり塗られて美味でした
復路のロープウェイでかすかに富士川?が
『富士川』三大急流のひとつです
ロープウェイの天井
五重塔の先の山は?
自厚山・清兮寺(せいけいじ)
ヒガンバナの群落で車を停め撮影
探訪日 2022.9.15
コメントありがとうございます。
私も信仰心はあまりないんですが、自然と仏・神様の前では手をあわせお祈りいたしております。
山梨県の身延山は南アルプスに向かう時、早川を通るので、いつも近い場所なんだな、と思っていました。
池上本門寺は、大森に住んでいたのでとても身近に感じていたお寺さんでした。