米子 西野ピアノ教室 musica felice

米子市のピアノ教室・・日々思うこと徒然なるままに。
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音楽は心の対話ですね。

多才に生きたムツィオ・クレメンティ

2009-10-05 07:45:58 | 作曲家の生涯

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画像がぼやけていますが、クレメンティの肖像画です。

1752年イタリアのローマに生まれ、1832年イギリスのロンドンから130キロの

イーヴシャムで没しました。

ソナチネを多く作曲した人という印象のクレメンティですが、

イタリア生まれのイギリスの作曲家、鍵盤楽器奏者、教師、楽譜出版者、

ピアノ製造者と、肩書は多岐にわたります。

80年の彼の人生がどのようなものだったのか、ひも解いてみたいと思います。

1752年1月23日に生まれたクレメンティは、父親が音楽好きだったことから、

幼い頃より、音楽教育を受け、9歳で教会オルガニストの試験に合格し、

13歳で生地ダマゾの聖ロレンツォ聖堂のオルガニストになりました。

その卓越した演奏が、イギリスの貴族ピーター・ベックフォードの目にとまり

イギリスに渡ることになりました。

ベッグフォードの言葉によると、「7年間の約束で買い取った」とされてます。

この7年間ベックフォードの意思で1日8時間クラヴィアの練習をすることが

仕事となっており、時には12~14時間かかることもあったということです。

この間、広大な書庫で音楽の知識のほか、フランス語、ドイツ語、ラテン語の

実力も独習で身につけました。

これは、後の事業をする上でも大きく役に立ちました。

1774年ベックフォードのもとを辞したクレメンティは、ロンドンに移り住みます。

1780年、その演奏や作品がヨーロッパ大陸でも評判になったことから、

パリに渡りました。

クレメンティは、マリー・アントワネットに招かれ、御前演奏をおこない好評を博しました。

1781年ウィーンのヨゼフ二世に招かれ、有名なモーツァルトとの協演の機会を

得ました。

クレメンティは、のちに弟子のベルガーに「私は彼ほど表情豊かで、感情のこもった

演奏を聴いたことがない。驚嘆と憧れをもって、すっかり聴き入った。」

また、「当時、自分は派手な指先の技巧ばかり追い求めてた。ところがのちに

イギリスのピアノが改良されてくるにつれ、レガートなカンタービレ奏法と

品位あるスタイルを習得するようになった。」とも語ったといいます。

これに反してモーツァルトは酷評を下していますが、後に自身の作品の中で

クレメンティの主要動機を借用していることから、無関心でなかったことを示していると

言えるでしょう。

1782年にピアノの弟子として知り合ったマリーとの、結婚を決意していましたが

マリーの父親の反対で2人の仲は引き裂かれました。

絶望したクレメンティは、一時は音楽も捨てようとしたほどでした。

やがて立直り、作曲や演奏活動もしていたクレメンティですが、

1791~92年、1794~95年ハイドンがイギリスに滞在したシーズンに

ロンドンっ子たちはハイドンの音楽に魅了され、クレメンティら幾人かの作曲家たちは

影が薄くなってしまいました。

この時期のクレメンティは、ピアノ教師として引っ張りだこで、高額な授業料でも

喜んで払う裕福な家柄の人々も多くいました。

また、職業演奏家の教師としても名高かったということです。

その後1798年以降、楽譜出版の経営者としても活躍します。

楽譜出版、楽器製造のほか、ピアノ教師としてもめざましく活躍し、「ピアノ奏法」

「実用和声」なども出版し、ピアノの近代奏法を反映する新しい内容を多く含んでいます。

1802年には弟子のジョン・フィールドを伴い大陸に渡りました。

各地で厚遇され、セント・ペテルブルクでフィールドはここに留まることになりました。

フィールドは初めてノクターンを作曲した人で、ショパンに影響を与えた作曲家でもあります。

1804年、33歳年下のカロリーネと結婚しますが、

難産がもとですぐに亡くなってしまいました。

また1807年ロンドンのピアノ会社が火災にあうという大打撃にもあいましたが、

これを克服し、会社は大いに繁栄しました。

1811年イギリス人エマ・ギスボーンと結婚し2男2女をもうけました。

1813年フィルハーモニック・ソサイエティの発足とともに、常任指揮者に任命され

1818年までその地位にありました。

彼はこのオーケストラのため、少なくとも6曲の交響曲を作曲しています。

1816年久し振りにイギリスを離れパリに渡り、彼の音楽教育の集大成いうべき

練習曲「グラドゥス・アド・パルナッスム」を出版する準備をしました。

この練習曲はツェルニーがリストを教える際にも用いられたことでも有名です。

その後も作曲者、指揮者、としても活躍を続け、ベートーヴェンの作品をはじめ

おもな出版社のほとんどと取引関係を持つなど、楽譜出版社としても成功を収めていました。

1825年から、最後のヨーロッパ旅行に出かけ、1827年バーデンに着いたとき

2ヶ月前にベートーヴェンが亡くなったことを知りました。

その年の12月帰国の際、盛大な歓迎会が催され、何十年ぶりに公開の席でピアノを弾き

少しも衰えをみせない輝かしい演奏技術に喝采の嵐が鳴りやまなかったということです。

1828年フィルハーモニック・ソサエティでの指揮を最後に引退し、

1830年には会社経営からも手を引き、家族とともにイーヴシャムに移り住み、

余生を送りました。

1832年3月に亡くなり、ウエストミンスター寺院での葬儀には多くの人が参列したという

ことです。

如何ですか?  この波乱万丈の人生!

作曲家として、ばかりでなく事業家としても大きな成功を収めていたことは驚きですね!

多くの人に影響を与え尊敬され、充分に人生を生き切った人と言えるのではないでしょうか?

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