過去に遡って、ブログを調整していますが、なんと6年の間に左足を3回と左手首を1回捻挫していました。
そんなに捻挫していたなんて、知らなかった。
びっくりです!
昨日の夜は、石川弘司先生が、メッセージをしてくださいました。
へりくだりと暖かいお人柄が、本当ににじみ出て、感動的なお話をしてくださいました。
100年前に、ご親族に石川正之助牧師、(安政4年3月27日《1857年4月21日》~?)という方がいらっしゃったそうです。
石川正之助さんは、13歳の時、秋田藩士の家塾に学び、明治12年(1879年)24歳の時、結婚されました。
明治14年(1881年)家業を母親と弟に託して上京し、政治家を志されましたが、事業に失敗し、また病気になって故郷にお帰えりになりました。
ところが、明治20年(1887年)ある疑いをかけられ、仙台の未決監に4週間収容されました。
そこで、正教徒の青年から、「天道溯原・てんどうそげん(中国分布教書)」を借りて読み、キリスト教に触れたのです。出獄後、仙台教会に行き、押川方義(まさよし)牧師の説教を聞いて心が動かされました。
明治21年(1888年)の春に、再び上京され、8月15日に、新栄教会で石原保太郎牧師から洗礼を受けられたのです。
この新栄教会というのは、ヘボンたちと一緒に活躍していたタムソンが明治5年(1872年)東京に伝道して、翌年横浜海岸教会から移った小川義綏牧師らで作った教会です。
築地は、この時代外国人の居留地で、横浜まで通うことのできなかった東京の信徒のために教会ができたのです。
明治25年(1892年)に、石川さんは、北海道に行き岩内で自給伝道をされ、数人の改宗者を得て、岩内メソヂスト教会に属し伝道師となりました。
そして、明治36年(1903年)招かれて湧別村村長に就任されたのです。明治39年(1906年)には、メソヂストの岩見沢教会牧師となられましたが、明治41年(1908年)八雲メソヂスト教会に移動され、2年後に日本基督教会に復帰されました。
上野ミッション主任なども歴任されたそうです。(参照・日本キリスト教歴史大事典)
石川弘司先生の、ご親戚にあたる方ですが、お話を聞いている時に、プロテスタントの歴史を聞いているようでした。
みんな、拙著プロテスタント史「荒野で叫ぶ者の声」に出てくる教会や牧師の名前だったので、別の意味で感動して聞いていました。
写真は、明治時代の監獄です。